Ｓｙｎｃｒｏ　 　　　　　 〜Hope all goes well

…まるでゼリーだ。 この街の夏。特に夜はそう思う。 生ぬるいゼリーの海を、必死にかき分けて歩いてく。 そんな感覚。 夕暮れの舞い降り始めた繁華街。 週末とあって人の通りも増えて来た。 会社帰りのOL達にサラリーマン。ミニスカートの女子高生たち。 考えてみれば―― こういう人波の中に出るの、久しぶりなんだよな…。 並木先生といるようになってから、街に出るような用事もないし… ダイビングに出た先々で、地元のスタッフ達と一緒に新鮮な魚を食べてたら、とてもじゃないけどこういうとこで居酒屋に入ろうなんて気は、全然起きなくなってたし。 途切れる事ない人、人、人。澱んだ空気が、ただただ流れる。 息苦しさから逃れるように見上げたビルの一角に、電光掲示板のニュースが流れた。 昨日、見て来たインターハイ。丁度それは浩平が出た、400mリレーの結果だった。 高校生初の39秒台。 もちろんリレー、というおまけはあったにしても、あいつの速さは中でも群を抜いていた。たまたま100mの単独種目に出ていなかったということも、格好の話題になっていた。 智がもしも生きてたら…喜んだだろうな、とその時思う。 『もう少しなんだよ。もう少し本気になればあいつなら、きっとすっごいスプリンターになれると思うよ』 …大したもんだよ。浩平にしても、このみにしても。 おれが――いや。おれ達が、こんな風にうだうだしてる間にも、あいつらはどんどん前へ進んでく。 おばちゃんのこと、知らせない方がよかったななんてのは、お前の取り越し苦労だったのかも知れないな。 まあ…だとしても。お前が決めた事だから。 あの時は―― それがおれだったとしても、たぶん、そうしただろうと思うから。 ―― 「ねえねえ、君」 肩越しに、声をかけられて我に返った。スーツ姿の、一見品の良さそうな男が立っていた。 「悪いね、突然声かけて。実は、こういう者なんだけど――」 差し出された名刺をちらり、と見やって。 おれは、ゆっくり目を上げた。 ―― ２． 待ち合わせで有名な、中央広場の噴水からわざわざ離れた場所を選んだのには，ワケがある。 こんなシチュエーションを避けるため。 いくら慣れてるとは言えうっとおしいし、言い訳するにもエネルギーがいる。 『もうプロデビューしちゃってるんです。ただし、この格好でじゃないけどね』 その一言で、自分の周りがより一層厄介になるコトは見えている。 並木先生の所で、ダイビングの出来るヤツを探してるって… 助手の助手みたいなもんだけど、もしも興味があるんなら、って―― もうあと少し早いタイミングで声がかかって来ていれば、あんなの引き受けたりしなかったのに。 「今日は、何？待ち合わせ？」 「ええ。まあ…」 「学生さん、だよね？すっごくいいバイトの話なんだけど、興味ない？いやいや、君レベルのルックスだったらプロデビューも十分狙える」 「…」 渡された名刺には、聞き覚えのあるプロダクション名が記されていた。 “その道”のスカウトじゃなさそうだ。 一見は。 あくまで“一見は”だったけど。 …ったく、誰だよ。 『商品価値のあるのは１０代だから、今更声をかけて来るスカウトなんていやしないわよ』 なんて、涼しい顔して言ってたヤツは。 街灯の上に乗ってる時計を見上げた。 約束の時間はとっくに過ぎて…おれにしては、よくもまあ、ここまで我慢して待ったよな、っていう時刻。 なのにメールのひとつも来やしない。 「――あの…」 尚もしゃべり続けてる男の言葉をさえぎった。 「悪いんですけど、おれ、そういうの全っ然関心ないですから」 「ちょっとちょっと！まだ条件も何も話していないのに、それはないんじゃないの。君だったら間違いなく売れるって！キャッチから始まったタレントは、実は何人もいるんだよ」 …そういう問題じゃなくってさ。 「取り合えず、ゆっくり話を聞いてよ。手間はいくらも取らせないから。すぐそこに事務所があるんだよ。条件だけでも聞いてってよ」 …おいおい。すぐそこなのかよ、事務所って。一流プロダクションじゃないのかよ。 男はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出すと、慣れた手つきでボタンを押した。 「…」 …だから外での待ち合わせは、気が進まないって言ったんだよ。 その時だった。 車道から、短く響いたクラクション。 音もなく開いた左ハンドルのパワーウィンドゥから女が顔を覗かせた。 「お待たせ」 凛 と響いた涼しい声。 耳元のダイヤのビアスが小さく光る。待ち合わせの主、やっと登場。それも、この上ないほどのいいタイミングで。 鳩豆顔の男から、おれはするりと視線を外した。―― 「だから、ほんとに外の待ち合わせでいいの？って訊いたじゃない」 「遅れるんなら遅れるって連絡くらいくれたっていいじゃない」 シートには、ほのかに漂う香の香り。 仕事用の車にはない、彼女のプライベートな空間である事を示す何よりの証拠だ。 おれは助手席へと体を沈めた。エアコンの冷気が頬をかすめる。 「もうすっかりヒロコとしての空気が身についちゃったみたいね」 「…お陰様で」 「次の企画も決まったっていうのに…聞いてないわよ、半年も慶良間に、それも明日発つなんて」 「あれ。そういうのって、いつからまた冴子が管理することになったわけ？」 「なってないわよ。ただ、どうしてちゃんと代理店に相談しなかったの、って」 「ちゃんと言ったよ。ただ…まあ、半年、とは言ってなかったかも知れないけど」 「時々は帰ってくるんでしょ。その時、少しは時間割いてあげなさい」 「『あげなさい』って…それはお願い？それとも命令？」 「大人としてのアドバイスよ」 冴子は静かにヒールのトウでアクセルを踏んだ。 ３． 「インターハイ。大活躍だったみたいね、浩平君」 小さく揺れる黒髪にイルミネーションの明かりが映る。 「このみちゃんは？元気にしてる？」 「元気だよ。まあ…色々と、やきもきすることはあるみたいだけど」 「この間、陽ちゃんのお店に来てくれたみたいなのよ。いつもすれ違いで会えなくて悪いみたい」 「『この間』って…一体いつの話？あいつ、もう一週間近く浩平んとこにいるんだぜ」 「そうよ。だから…かれこれ三週間前」 「そういうのは、ずいぶん前、って言うんだよ」 形のいい口元が、小さく微笑む。 「…そんなコトより、今日は何ご馳走してくれるのかな」 「何でもいいわよ。今晩はあなたへのお餞別なんだから」 「餞別…？」 「晴れて並木先生の取材旅行につき合わせて頂けるんでしょ。よかったじゃない」 「…って言うか、時期遅すぎだって。もうじき向こうは台風シーズン到来なんだぜ」 「精神不安定な助手を、そのまま連れてくわけには行かないでしょ」 「…はいはい」 「たまには、お座敷で和食のコースなんていうのもいいかと思って。お店、探しておいたんだけど」 「いいねぇ！…って言いたいとこだけど――久しぶりに会ったんだし、閉店のない席でゆっくりディナーってのもいいんだけどな、おれとしては」 冴子は、涼しい微笑を微塵も崩さず、 「この時間から手作りするの？言っておくけど、冷蔵庫には何にもないわよ」 「途中で買い物してけばいいじゃん。和食がいいんでしょ？作ってあげる」 高速のインターが見えて来た。 冴子の指先がなめらかに動いて、車線変更のウインカーを出した。 ――『私が、あなたの夢を叶えてあげる』 そう言って…彼女がおれの前に立ったのは四年前。 智が逝って一年が過ぎた頃。 おれ達のスタンスは、あの時とさして変わりない。 並木先生と、例のバイトの関係で、おれがT'sに出向く回数が減ったのと… 冴子の海外出張が増えたこと。 変化と言えばそれくらい。 おれらは、まるで座標軸のゼロ点に戻ったみたいに、何の危なげもない日々を過ごして来た。 でも、それが物足りないとか、倦怠だとか…そういうワケでは全くなくて―― こうして彼女と、何でもないように時間を過ごし、同じ空気を分かち合えるようになるなんて、以前は考えてもなかったし… それは何よりのおれ達の“進歩”と言えた。 形はいらない。 いつかは壊れてしまうから。 約束も何もないままに…ここにいる事。 許されるなら、それだけでいいとおれは思った。 この先も、彼女にそれが許されるなら。 ４． 食事の間。 冴子は、おれが見せた伊豆の海の写真をゆっくり眺め―― 慶良間でのおれ達の行動予定、秋から冬にかけて、たぶん出会えるに違いないザトウクジラの生態なんかを飽きもせずに聞いていた。 他にも、水中写真が、実は予想以上の重労働だという事。 機材だって、必要最低限のものにしぼっても軽く６、７〜１０kgにはなる。 それに、水に潜りっ放しというワケではなくて美しい風景を求めては陸撮もしなければならない。 並木先生は40も半ばのおじさんだけど、休日もジム通いを欠かさない。 それにはそんな理由があった事。 思う存分ダイビングが出来る――ただ、それだけではやってけない。 写真を撮るのに夢中になって、後ろに３ｍは裕にあるサメがこっそり近づいていた、なんて事もあったこと…。 命の大切さが判っただけでも、先生にお任せした甲斐があったというものね」 「…冗談じゃない。半年もあんなコト続けてたら、腰痛める。絶対」 「いいマッサージのお店、教えてあげましょうか」 本気とも冗談ともとれる言葉を平気で返す。 「ねえ」 おれは呼びかけた。 「少しは動揺した…？半年会えないって聞いた時」 「そりゃあするわよ。いきなり代理店から電話がかかって来た時にはね」 「そういう意味じゃなくってさ」 「…」 カウチに座って、食後のワインに手を伸ばす。 白い指先の、行き着く先を目で追いかける。 冴子が言った。 「寂しくないって言えば嘘になる。正直言って…このみちゃんにしても浩平君にしても、そして拓にしても…みんな、どんどん変わってく。私こそ置いていかれる気分だわ。陽ちゃんが、家を出るって決めた時とおんなじ感じ」 「…」 「だけど…これでいいのよね。私があの時、あなたに声をかけたりなんかしなければ、拓は傷つくこともなかった訳だし。私こそ、いつまでつきまとっていいものか、考えなくっちゃいけないのよね」 「…」 おれはムッとして彼女を睨んだ。 「一人で勝手に納得するな」 「私は好きよ、あなたの事が」 「…あっさり言いすぎ」 「本当よ」 「とかなんとか言いながら、『つきまとう』の止めようか迷ってるんだろ？」 「…」 彼女は眉根を曇らすと…隣のおれにキスをした。 そしてそのまま、両手で強く抱きしめる。香の香りが視界を包む。 「ごめんなさい…。上手い言い方が見つからなくて」 「…」 「ただ…気持ちは正直に伝えたつもりよ…」 正直に… 気持ちを伝える… 彼女の口をついて出た、二つの言葉をかみしめた。 以前なら…決して伝えることのなかった思い。 このみや浩平だけじゃない。そういう冴子自身だって、変わったんだとその時思う。 ―――― 「変わらないもの…なんてさ、やっぱ、どこにもないんだよ」 抱きしめられたままつぶやいた。 「何もかもが変わってく。このみや浩平だけじゃない、おれだって…冴子だって、おれ達が初めて会った時とは、きっと全然違ってるんだ。だけど…それでいいんだよ」 「…」 「おれは、今の冴子とここにいたい。四年前の――初めて会った時じゃない、今ここに――おれの傍に、いようと思ってくれている冴子と、一緒にいたい」 けれど――智紘は… 智にはもう、それは出来ない事だから。 だから、せめておれだけは。 決して変わる事のないあいつの事を、何があっても忘れずに―― 留めてやらなきゃいけないんだ。 そうでなくっちゃ…あいつが、あんまりかわいそうだろ…？ 一人っきりで、家族の秘密を抱えたまんま逝かせてしまった―― そういうあいつに、何も返してやれなかった―― おれくらいは、せめても、さ。 いつのまにか、涙が頬を伝わっていた。 胸の奥で何かがきしむ。 苦しいような…痛いような… 今すぐそこで崩れそうになる思いがかろうじて、涙の温もりに救われる。 まただ。 また…泣いている。 自分が自分でないみたいに、涙が勝手に、途切れることなく落ちて来る。 …何なんだよ。 どうしておれ、泣いているんだよ…。 ――その時だった。 聞き覚えのある着メロで我に返った。 おれのケータイ。 しまった…電源切ってなかったんだ。慌てて涙を両手で拭う。まるで小さな子供みたいに。 ジーンズのポケットから電話を取り出す。 ナルちゃんからだ。 それを見た時、はっとした。 やべ… そう言えば…おれ―― 拓が電話に出ている間に、私の携帯も鳴っていた。 相手は、もうずいぶんと古い付き合いになる尾行専門の私立探偵。 彼にはかれこれ四年も前から、定期的にある男の動向をずっと探ってもらってた。 報告は、よほどの事がなければ自宅のＦＡＸへという約束だった。 それが電話とは――余程の非常事態なのか。 彼から離れ… 奥の部屋で電話を受けて… 私は、ただちに言葉を失くした。 「冴子！悪いけど、ちょっと行って来る！」 玄関先で、慌てた拓の声がする。 「ナルちゃんに言うの忘れてたんだよ、慶良間に行く事！ダイビングショップで聞いたらしくて、すっげぇ怒ってんの！やばいよ！また泣き出しちゃうよ！あの図体で泣かれると…まじでヤバいから」 「拓…！」 奥から飛び出した私の事を、拓は不思議そうに一瞬見やって―― 「智の命日には戻るから。このみにも約束したからさ。続きはその時に、ってコトで」 さっきまでの泣き顔とはまるで別人。 無邪気な笑顔に、私は咄嗟 に言いかけた言葉を飲み込んだ。 「…大丈夫？何か…顔色悪いよ」 「…」 「冴子…？」 私は慌てて首を振った。 「…何でもないの。大丈夫」 尋ねた声に小さく頷く。 気持ちを後に残しつつ、ドアが閉まった。 駆け出していく彼の足音が遠ざかる。 …私が―― あの時、声をかけたりしなければ… 切れた携帯電話を握り締めて。 改めて強く悔いていた。 … 了 　　　　　　　　　←Home Copyright (C) kchoco All rights reserved.