10月も半ばになって。

拓兄が座間味島へ戻る日が来た。

「今度会うのは向こうで、だな」

空港に見送りに行った私とお母さんに拓兄は無邪気に笑った。

この人ってば、私と浩平がほんとに行くと思ってるんだ。クジラ、見に。
まあ…確かに、行く気が全然ないってワケじゃないけどね…。

『あれはすごいよ。真近で見ると鳥肌がたつよ。何しろ、地球上最大の生き物が“跳ぶ”んだから。一度見たら病み付きになる。絶対だ』

子供みたいにキラキラした目で話してくれた並木先生の声を思い出す。

なんか…似て来たのかも。この二人。

「浩平の予定次第だけど。その時は連絡するね」

「ああ。そうだな」

「あのっ…ねえ。お兄ちゃん」

訊こうとしたけど…

今日まで何度も訊こうと思っていたんだけど…

――冴子さんとは…話、出来たの?

けど、どうせほんとの事は教えてなんてもらえないだろうし、ましてや今はお母さんも一緒だし…

ためらう私に兄キは笑った。

「安心しな。おれは、納得出来たから」

「えっ…」

「お前の納得とおれの納得は少々形が違うかも知れないけど。おれは、いいんだ。今はこれで」

「…」

「そんな事より、お前も来年は変化の年だぞ。自分自身をしっかり見据えて、納得出来る進路、見つけろよ」

「…」

結局話そらされた。そんなの、ここで言わなくたって。

「年末には一度帰って来るんでしょ?」

お母さんが訊いた。

先生と拓兄の”契約”は一応来年の春までで、その後兄キは大学に戻って卒業を目指す。うちの親とはそういう約束になっていた。

「どうかなぁ。ザトウクジラのトップシーズンは年明けだから…年末になら、もしかしたら少し帰って来れるかな。でも、その前に…」

「その前に?」

「おばちゃんの結婚式があるんなら話は別かも」

拓兄は、私とお母さんを見ていたずらっぽく笑った。

「結婚式…って――」

「あら…。もう、そういう話になってるの?」

「だからさ、さっさとそういう風に仕向けなよ、ってこと」

「『仕向けなよ』…ったって、そう簡単には行かないよ。杉崎先生は北海道に行くって言っているんだもん。お兄ちゃんだって知ってるでしょ。おばちゃんにも『半永久的に保留』って言われちゃったって…」

「あれ…この間の勢いはどうしたんだよ。北海道に行くって言ってるのは、あいつだけなんだろ。何とでもなるだろ。…っていうか、何とかしろ、このみ」

「えっ？！えっ？何で私？」

「お前以外いないだろ。この場合」

「何、それ。超無責任。何で私がそんな事…。だって、第一失礼でしょ。おばちゃんも杉崎先生も大人なのに、どうしてそんな余計な事――」

「大人だから、だよ」

拓兄は真顔で言った。

「この間、おれもおばちゃんに言ってみたけど…あと一歩なんだよ、どうしてもおれじゃ足りないんだ」

「だったら最後の最後まで責任持ってよ！」

「だから駄目なんだってば、このおれじゃ」

「…えっ？」

「つくづく判った。おれとあの人が似てるってコト。言えば言うほど自分に向かって言ってるみたいでさ、こっちが辛くなっちゃうんだよ」

「…」

「…ごめん。とにかく、くさびは打った。杉崎とかいう医者にもね。あとは、誰かがちょっと背中を押してくれればいいだけだ。浩平も協力してくれるんだろ」

何だか、こんな場所で…それも、こんな感じで時間に追われて言うような話じゃないと思うけど…。

それに第一、拓兄でも詰め切れなかったようなコトを、私なんかに何とかしろって――

相当メチャクチャだよ…と思う。もっとも、この人と話してて常識を見失うのは今に始まったことじゃないけどさ…。

「ほらほら。そういう顔しない」

うつむいた私の頭の上。拓兄の手のひらが降りて来た。

「あのケーキの話とか、すごくいいと思うよ」

「ケーキの話？」

「言ってたじゃん、ウエディングケーキ作るんだろ。フリーズキールの跡取りに、『一緒に何か作ろう』って言われてるんだって、張り切ってたじゃん」

「それは…そうだけど――」

「頼む。あの人が歩き出してくれないと意味ないんだ」

「…」

「このままじゃ、何の意味もないんだよ」

「…」

噛みしめるようにそう言って…

拓兄の手のひらが私の髪をくしゃっと混ぜた。それは、昔、智兄ちゃんがよくしてくれたのとおんなじ仕草。

私は…顔を上げてみた。

「前のこのみなら怒ったよな、こういうの。智の専売特許なんだからって」

「お兄ちゃんだって――」

お兄ちゃんだって…

こんなコト…前なら絶対にしなかった。“智の専売特許”って決めたのは、お兄ちゃんの方じゃない…。

「悪いな。これでもやれるコトは精一杯やったつもりなんだけど」

「判ってる。そのコトだけは認めてあげるよ」

「『だけ』ってなんだよ、『だけ』ってさ」

――やがて。

那覇へと向かう飛行機の搭乗案内が示された。

「じゃあな」

うなずく私。行ってらっしゃい、とお母さん。

「先生によろしくお伝えしてね。ご迷惑にならないように」

「迷惑どころか。おれがいないと始まらないよ、あの人の仕事は」

ゲートへ向かって歩きだしながら、拓兄はひらひらと片手を上げた。

今までにも何回も…空港でこの人を見送って来た。

待っていてくれる人がいるからか、それが並木先生だからなのか。今回は次に会える日もはっきりしない旅立ちなのに、不思議なくらいの安心感。

『あのケーキの話とか、すごくいいと思うよ』

私はお母さんとデッキへと出た。

柔らかな陽射しと乾いた風。季節は確実に動いてる。

――ほんの数ヶ月前のあの、沖縄の空を思い出す。

真っ白な雲と刺すような陽射し。宮城さんと朋子さんの優しい笑顔。冴子さんの白い横顔と…並木先生の元気な声…。

この夏の色んな出来事が頭の中を巡ってく。でもそれは…辛さだけでも、不快なだけでも全然なくて。

懐かしい…部活の合宿の思い出みたいに。しんどかったね、あの時は、って普通にみんなで話せるみたいな。

あの時は、そんな日が来るなんて到底信じられなかったのに。

「見て、お母さん。空が…あんなに高い」

「そりゃあそうよ、もう10月だもの」

辺りには飛行機のエンジン音が響いてる。

離陸の順番を待ってる飛行機って…スタートラインに立ってる浩平に似てる。

ゴールを見据えて、静かに呼吸を整える。

深呼吸をふたつする間に決まっちゃう勝負。そのためだけに、持てる力の全てを尽くす。尽くせるように。全ての神経を集中させて、最後の合図を待っている。

…あんな事があったのに…拓兄も浩平も、それを見送る私たちも、あの白い機体から縁が切れないままでいる。

何だか、不思議。

「お母さんはどう思う…?今のお兄ちゃんの話」

「祥子さんの事?」

「うん…」

「浩平君は賛成なんでしょ」

「あいつはそうだよ。最初っから」

「色んな事があったからね。祥子さんが慎重になるのも判るけど…そろそろ彼女の時計も進めてあげてもいい頃だよね」

「…」

「拓が言うほど簡単な事ではないかも知れないけど…取りあえずは、私たちの気持ちだけでも伝えてみたら?みんな、祥子さんにも幸せになってほしいって思ってるのは確かなんだし」

「…」

もしも…

もしも本当に…私が、祥子おばちゃんと杉崎先生のためにウエデイングケーキを作れたら。

フリーズキールの力も借りて。

きっと、友貴くんもはりきるだろうな。

一生に一度のケーキだもの。そんな事がほんとに出来たら。想像しただけでドキドキして来る。

そしたら私も、私だけのやり方で――繋げてく事が出来るかな…。

大切な人たちの新しいスタート。

そんな瞬間に関われたなら、私にも…あの日の出来事を思い出にして、連れてく事が出来るかな。

「そう…だよね。私たちの気持ちを伝えてみるのは悪くないよね」

お母さんがうなずいてくれたのを確認してから。滑走路へと目を向けた。

拓兄の乗った飛行機は、滑走路へと移動を始めて定位置へ。エンジンの音がひときわ高まる。いよいよ離陸だ。

智兄ちゃんが見たかった海。行きたかった場所。

誰よりも思いの強さが判るから、だからこそ縛られて来た思い。止められた時間。

きれいなものをきれいと感じて、ここにいていいんだ、と――

そんな風に感じる気持ちは、自分自身のものでいいんだ、と――

ありのままに見る沖縄の海は、そんな当たり前のことを存分に兄キに伝えてくれるだろう。

『おれが此所にこうしてるのも繋がりだったら…“あの二人”を出会わせたのも繋がりだものな。あいつの時間は、まだ…止まってないのかも知れない』

手のひらを開いて…ゆっくり握る。力を込めて。まるで何かを確かめるみたいに。

あの日。兄キがやったのとおんなじ事をやってみた。

今度会うのは――

その時は――

小さくてもいい確実な一歩を。

あの日と今を繋げる一歩を。歩き始めていられるように。

――行ってらっしゃい。

助走を始めた飛行機に向けて、私は心からの一言をつぶやいた。

次の日。

三村さんからお誘いがかかって5th. Avenueへ。

拓兄が無事出発出来た事。詳しい内容は判らないけど、冴子さんとの間にもそれなりの結論が出たみたい、って事。そんな諸々の報告も兼ねて出かけたつもりだったけど…

もちろん、三村さんにはそんな事、とっくの昔に伝わっていて。

その上、お兄ちゃんが発つのより5日も早く冴子さんが日本を離れてたって聞かされて、私としては二重のショック。

更にその上――

「うそっ。年単位って…冴子さん、そんなに長く帰って来ないの?!」

「かなり前から頼まれてた仕事みたいだし…。彼女なりにタイミングをはかっての事じゃないのかな」

「…」

『おれは、納得できたから』

そういう意味だったんだ――

だけど納得ってどういう意味だろう。マイナスの意味には取りたくないし、兄キの言い方はそういう感じじゃなかったと思う。ううん。思いたい。

黙ってしまった私に、三村さんはあったかいココアを作ってくれた。

「たまにはいいでしょ。ほっとするよ」

「うん…」

ココアなんて久しぶり。優しい甘さと温かさがゆっくりと気持ちを落ち着かせてくれる。

「冴ちゃんは、最後まで気にしてたよ、このみちゃんのこと。こんなやり方、ほんとはよくないんだろうってことも」

「うん…わかってる」

三村さんは微笑んだ。

「納得出来ていないんだったらいいんだよ、素直にそう言って」

「…」

開店前のお店の中には、当然お客さんの姿は誰もいなくて。

スタッフさん達も気を遣ってくれているのか、厨房とホールの方でだけ気配がしてる。

三村さんは…

冴子さんとは従兄妹同士だって聞いたけど、それだからってだけではなくて、きっと私の知らない時間の中で、二人の間にはこういう役割が自然と出来てて…

だから今日は私のために、この人はきっと何時間でも、こうしていてくれるつもりなんだろう。けどそれは、却って私に冴子さんの覚悟の強さを感じさせたし…

拓兄が“納得出来た”って言う以上、私もそれを呑むしかなくて。

「そんなんじゃないよ。大丈夫」

「そう…?」

「冴子さんとお兄ちゃんも智兄ちゃんが残してくれた出会いだもんね。きっと、繋げたいんだと思う。これで終わりにしちゃうんじゃなくて。私ね、お兄ちゃんに宿題もらっちゃったから。ちょっと、がんばってみようかなって思ってるんだ」

「そうだね。このみちゃんもそろそろ自分の事も考えないとね。来年、卒業なんだっけ?」

「…」

三村さんってば…

もちろん悪気はないんだろうけど、何も拓兄とおんなじ事を言わなくたって。まあ…この時期の18才に、あえて進路の話をしないっていうのも無理だろうけど。

咄嗟に作り笑いで誤魔化して、出されたココアを小さく飲み込む。

けど…この時、私はまだ知らなかった。

冴子さんの決心が今までになく強いこと。それを示す何よりの行動。さすがの三村さんも言い出せなかったもうひとつの真実。

冴子さんは、有賀さんと一緒に渡航していた。

元々あの人は、冴子さんにとっては大切な、仕事の上での役割を担わされていた人だ。それを今まで遠ざけて来たのは、拓兄がいたからだ。

二人が兄キにして来た事は、決して許される事ではなかったけれど、冴子さんが有賀さんと行動を共にするっていう事は…あの人は自分への戒めとして、有賀さんを呼んだんだ。

三村さんは、この時は私には何も言わなかったけど、当然そんなの知ってた筈だ。

結果はどうあれ…大切な人に負わせてしまった心の傷。

拓兄がどれだけ強く否定したって、冴子さんはずっと自分を責めて――ずっと一生、それを背負って行くんだろう。今はただ、そんな過去さえ現実として受け止めて――

ここにあるものには叶わないこと。

ここにある、いとおしいと思えるあらゆるものに囲まれて、きれいなものをきれいと感じて生きること。

そんな自分を赦せること。

それが出来れば、二人の再会は叶うかも。そう信じたい。あの二人には、未来を繋いで行ってほしい。私達の大切な思い出のために。ここから先へ進むためにも。

だから、私は私に出来るやり方で智兄ちゃんの意思を繋げたい――。

あの二人を見送って。今は離れるしかない思いの中に、つながる何かを感じる事が出来たから。

そう信じたい。

私は、思い切って三村さんに訊いてみた。

「ねえ…三村さん。ここのお店って、結婚式のパーティーなんて…引き受けたりしてもらえるのかな」

――――



･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　


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