| Ｓｙｎｃｒｏ 〜第十章 §12 |
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約束の場所には15分も前に着いていた。 家を出る時、傾きかけてた陽はもう落ちて…窓から見える街並みは、夜のそれへと変わってる。 そびえる高層ビルの中。夜景で有名な老舗のホテル。 そのラウンジが、冴子との持ち合わせの場所だった。 広々とした高天井。煌めく優雅なシャンデリア。耳を掠める穏やかなざわめき。 スーツ姿のビジネスマンや、上品な身なりの夫婦連れがフロアを行き交う。 おれはと言えば。 キャンパスからそのまま直行？ってほどの気楽な格好。おまけに茶髪でピアスと来れば、完全に周囲から浮いている。 …もちろん―― きちんとした格好の方がいいのかなとか…思わなかったワケじゃない。 T’sにいた頃は、こんな所での待ち合わせなんて日常茶飯の出来事だったし、それなりの着こなしがどんな程度か、判らなかったワケでもない。 ましてや相手が冴子なら…どれだけ上等のスーツを着ても釣り合うなんてあり得ない。 でも、だから―― いや。それだから。 例え何があったとしても、今日だけは…ありのままの格好で、ここに来ようと決めていた。 テーブルの上。コーヒーカップに手を伸ばす。 味は決して悪くない。センスのいいブレンドだ。 …前に、ここに来た時は――その時も、たぶんおれはコーヒーを飲んで… もちろん相手は彼女じゃない。顔も名前も覚えていない、そんな程度の誰かに会うため。 けど、こんなに美味いとは感じてなかったと思う。 コーヒーだけじゃない。上等な料理も高級な酒も…あの頃口にした物の味なんて、今じゃ何にも覚えていない。 とにかく…さっさと―― さっさとコトを終わらせてくれればいいのにと…それだけをただ考えて、意識を殺し続けた気がする。 …そうしなければいられなかった。 逃げ出したいとか、誰かに助けてほしいとか、そういう望みはとっくに果てて… 全てを打ち消す。苦痛や恐怖で、無理矢理に。 そうやって“喪失”という現実から逃げて来た。 …苦い記憶だ。たぶん、一生。 気分が悪くなる前に、目を閉じてひとつ息を吐く。 頭の中に―― 大きな体を二つに折って…冴子に向かって頭を下げた並木先生の姿が浮かぶ。 『このままじゃ、何のためにここまで来たのか判らないじゃないですか。全部失くして、それだけで――それを思い知るためだけに、こいつはこんな所までやって来たのかって事ですよ。せっかく過去を見据えようとしてるんだったら、ここから 凛とした声。 ――逃げる事なんか許さない。 言葉にならない声がそれを伝える。 ――目を背けるな。これが現実。 お前が何をどうあがこうと、間違いなくこれが現実なんだ。 『智紘君の見たかった海じゃない。お前が見る海だ。でなければ、今度の旅でお前の意思は、最後の最後まで何処にもなかったって事になる。違うか？』 ―― …どうして、おれは此所にいる？ 智が来たかった場所。見たかった海。じゃあ…おれは？ ずっと、繰り返して来た問いだった。 消えてもいいと思いかけて、実際半分消えかけて…でも。それでも…此所に戻ろうとしたわけは――？ 『この綺麗な海にも、空にも…智兄ちゃんと出会えてなかったら、巡り会うコトもなかったかも知れない。そう思うとね――』 問いへの答えはまだ見えない。でも、それを以前のようには心細くも思っていない。 この場所に、いたいんだったらいればいい。 もしも… あいつがいなければ出会えなかった全てのものに、万に一つの偶然でおれが居合わせているんだとしたら、それだけでもう十分に理由になっているんじゃないか。 生きて、此所にいられるうちは…それを願ってもいいんじゃないか――と。 智が聴いたら…怒るだろうか。 そんなんで…おれが許されていい理由になんてならないと。 でも… 『バディなんだから』 『…えっ？』 『一仕事終わって握手くらいしたっていいだろ』 約束…したんだ。 サンゴの産卵。来年の夏には見せてもらうって。 お前がいなくなってから、二度と誰とも約束なんてしないって思ってたのに。 あの掌に…応えたい。 あの日の握手が、お前との別れの延長にあると信じたい。 ―― 気配を感じて――目を開けた。 回転ドアをくぐったばかりの人影は、ラウンジを一瞥してからおれに気付いた。 黒のワンピースに薄手の白いカーディガン。 肩で揺れてる黒髪は この前別れた時よりも幾らか長くなったように思えた。ローズの口元には柔らかな笑み。 向かいのソファーに腰掛けて、冴子は改めておれを見た。 この場所に、こんな格好で来た事をもちろん咎める素振りも見せず、その理由さえ彼女は十分感じてくれている。そんな余裕の笑みだった。 「…あのさ」 「何…？」 「色々…ありがとう。まだ、きちんとお礼を言ってなかったなって思ってさ」 「どうしたの？急に、改まって」 「いや…。向こうでの事とか…特に有賀といた時の事とか、何も覚えていないから。並木先生も教えてくれないし。たぶん冴子には…相当迷惑かけたよね」 「…」 「情けないけど本当に…おれには謝る事しか出来なくて」 冴子はにこりと笑ってくれた。 「私の方こそ…ごめんなさい」 「…えっ？」 「もっと早くに、私から連絡しなくちゃいけなかったのに。拓に余計な気を遣わせてしまったわね」 「…」 「私のことなら大丈夫。却って有賀をしっかり管理出来なくて、あなたには本当に悪い事をしたと思っているわ」 「『有賀を管理』って…それ、本気で言ってるの？」 「そうよ。彼は元々は私の部下なんだもの」 「でも、あいつは今はITSの人間じゃないじゃんか」 「そういう事も全て含めた契約の上で、彼には辞めてもらった筈だったの。今度こそ、二度とあなたには接触させないから安心して」 「…」 おれは彼女の顔を見直した。 相変わらずの… 穏やかな口調の中に、強い意志を感じる言い方だった。 …前からそうだ。 おれと仕事の話をしていた頃も、彼女はよくこういう言い方をした。 冴子は、いつも有賀に対して完全にビジネスライクな態度を取るけど、本当の所はよく判らない。彼女にとってT’sが裏の情報収集の場だった事を考えると、フロアマネージャーだった有賀には相応の信頼を置いてた筈だ。 二人の間が変化したのは、やっぱり…おれがT’sに入った事が原因なのか。 それ以前から、有賀はおれにとっての上客だったけど…あいつの性格からして、T’sでおれと顔を合わせてたとしても、それを表に出す事は有り得なかっただろうと思う。 そういう所は冴子と同等…いや。それ以上に、あいつは立場を使い分けてた。 だとしたら。 有賀を辞めさせる必要は…なかったんじゃないのか。 寧ろ冴子の手元において、おれとの接触を断つ方が、彼女にとっては今より遙かに管理しやすかったんじゃないのか…。 ――今更だけど。 この期に及んでそんな詮索した所で、何の意味もないんだけれど。 「ずいぶん遠回りになっちゃったわね。ここまで来るのに」 「…そうかな。おれはそうは思わないけど。何一つ、無駄な時間も出会いもなかったって思ってるけど」 冴子は静かに微笑んだ。耳元のピアスがきらりと揺れる。 「拓が…そう感じてくれているのなら、私にとってこれ以上の救いはないわ」 「…」 オーダーを取りに来たウェイターを彼女はそっと片手で制した。 「お腹、空いたわね。食事にしない？何かご希望は？」 「…別に」 「よかったら、ここの最上階に予約を入れたの。そこでいいかしら」 「でもおれ、こんな格好だぜ？」 「そんなこと、全然平気よ」 「…」 正直言って、それほど腹が減っているわけじゃなかった。 彼女と…いること。 此所に、こうして二人でいること。 もう少し、それを感じていたかった。あの、沖縄の…散り散りに乱れた心ではない確かな自分で。 『私が、あなたの夢を叶えてあげる。』 今は、おれが彼女と向き合っていられる理由は存在しない。 “もう会わない。” そう決めてしまえば全てが終わる。どちらかが黙って携帯電話の番号を変えてしまえば、互いの声を聴くことも、たぶん二度と叶わない。 始めから、そんな程度の繋がりだった。 こんなに近くに一緒にいるのに。漂う香りも…懐かしいとさえ思うのに。 …仕方なしに席を立つ。 傍らで微笑む彼女には、もっともっとはっきりと…もっともっと以前から―― いつかこの日が来る事が判っていたのに違いない。 最上階の窓際の席。 調度に遮られ、店の入り口からは姿が見えない格好の場所。案内係のスタッフは、冴子の顔を見るなりただちにここへ通してくれた。 大きな梁に、レトロなデザインのシャンデリア。 明治時代を思わせる和洋風な店内は、居心地のよい優雅な空気で満ちていた。 大きな窓に広がる一面の夜景。 ダイニングにはワインカラーのテーブルクロス。 「ちょっと素敵な所でしょう」 冴子が笑った。 「ここ、陽ちゃんのお父様がオーナーなのよ」 「陽ちゃん…って、三村さんの？」 「そう。何だかんだ言ってても親子よね。何となく似ていない？お店の空気が」 ビストロ“5th.Avenue”のオーナーは彼女の従兄だ。 あの人も、元は神崎の姓を名乗っていたそうだし… もしもあのままあの家にいたら、今頃は冴子のように第一線のエグゼクティブとして、世界中を飛び回っていたんだろう。 「三村さんは…今も戻る気はないんだ？元の家に」 「そうみたいね。叔父さまは、何故か小さな頃から、長男よりも陽ちゃんを可愛がっていたの。けど、その愛情が彼にはまっすぐ伝わらなかった。可愛いからこそ傍におきたい、それが判るから息苦しくなってより反発心が強まって…。厳しい世界に身を置いているからこそ、血を分けたかけがえのない存在には、必要以上に盲目的になってしまうのかもね…」 「…」 冴子の目は静かに微笑んでいたけれど、奥にはどこか、過去を懐かしむような…悲しむような、複雑な憂いをたたえて見えた。 彼女が神崎の家で兄のように慕って、頼りにしていたのが三村さんだった。 もちろん今でも、おれ達も含めて三村さんとの繋がりは消えたわけではなかったけれど、当然ここまで立場が違えば、おかれた環境だって違うだろうし… 以前と全く同じとは行かないだろう。 そういう意味では、あの人が神崎家と縁を切ってから、冴子は少なからず心細い思いをして来た筈だ。 有賀のようなヤツを近くにおいたり… おれみたいなのを使って、犯罪まがいに他企業の情報漏洩を図ったり… 裏の汚れ役を引き受けて、彼女は父親の会社を守り…自分自身を縛って来た。 …今のおれには、何か出来る事があるのだろうか。 住んでる場所も生活も、何もかもがこんなに違う。そして彼女は、おれに取り返しの付かない傷を負わせたと後悔してるだろうし、責めてるだろう。 おれ達を繋ぐものは、もう…そんなものしかないんじゃないか。 彼女の…痛み。彼女の…苦痛。 そんなものの上でしか、おれ達は時間を共有出来ないんじゃないのか――。 フロア係が冴子にオーダーの確認をしていた。 ワインの種類、メインのチョイス…そんなものを流暢に彼女が告げる。それを聴いているうちに、此所にこうしている事がどうしようもなく辛くなって来た。 それでも…おれは求めてる。 子供の様に背を震わせて、顔を覆ったあの夜の彼女を片時も忘れた事はない。だから…二度と何も求めない――。 そう決めていた筈なのに…。 「拓…？」 冴子が気付いた。 「どうかした？顔色が…」 おれは大きく首を振る。 「おれ達だけだ。…あの頃と何にも変わっていない」 「えっ…？」 「四年前とさ。初めておれ達が出会った時と」 「…」 ワイングラスに、彼女の選んだロゼが注がれる。甘い香りが仄かに漂う。 冴子は目の前のグラスを取った。 グラスを重ねる。澄んだ音が小さく響く。 「傍にいつづけるという事は…簡単なようで難しい事ね」 「…」 「大切なものを失くしてしまった人。これから…失くすと判っているのにそれでも傍にいようとする人。それと知ってて…全て知ってて、ただ近くにいてあげるという事は…難しい。でも…そうして作った思い出は、どんなにたくさんの言葉より、きっとかけがえのない支えになるんでしょうね」 「…」 冴子はそっと目を伏せた。 グラスの中を、ビーズの様な泡粒が時折小さく上ってく。 「陽ちゃん達を見ていて…思ったの」 「…」 「あの物静かな彼が神崎の名前を捨てるなんて、私には考えられない事だった。ご両親やお兄さんとも何度も何度も言い合いになって…そういう、心の強さのある人だとは思っていたけど…まさか家を出るなんて――。…だから…島で記憶を失くした拓と会って、有賀と話して…私にも、そんな強さを持つ事が出来るのかしら、そうやって…あなたの傍にいたいと願う事も出来るのかしら、もしも…私が、それを願いさえすれば」 「…」 「あの時のあなたには、私が…誰かも判らない。自分が誰かもはっきりしない。…あの時のあなたに判っていたのは、心の奥の深い悲しみ。喪失。闇の中を、ひたすら落ちてくような絶望と、あきらめきれない…僅かな望み。いえ…。たぶん…そんなものだけじゃなかったでしょうね。あなたはそれを受け止めるだけで精一杯で…私は、そんなあなたの傍に一緒にいただけ。でも…それが私の本当の――初めてあなたと出会った時からの…唯一の望みだったのかも知れない」 「…」 冴子は笑った。 彼女にしては珍しく…ほんの少しだけ恥ずかしそうに。 「『もしも時間が戻せたら――。もしも…生まれ変わってもう一度、人として生まれる事が出来たなら…ありふれた普通の家に生まれよう、そして、その時はもう一度あなたと出会う事が出来ますように…。』そんな風に願った事もあったけど――今は…感謝してるの。あの時…一緒の時間を過ごせた事に」 「…」 「今日はね、だから…私が拓にお礼を言いたかった」 最初の皿が運ばれる。 温かな香り。食器の触れあう柔らかな音。 思ってもいなかった言葉を告げられているというのに…頭の中は、思っていたより冷静で―― 「そっか…」 おれはそれだけつぶやくと、彼女に向かって笑顔を返した。 不思議とそれは全く自然に… 彼女が――おれとの出会いをそういう風に受け止めてくれた事。 後悔だけじゃなく…“今まで”を感謝で清算してくれた事。 それが何より嬉しかった。 果てた筈の、あの願い―― 音もなく、ただひたすらに堕ちる闇の中。必至に伸ばした指先で、おれが掴もうとしてたもの―― もしも… “救い”などというものがこの世で得られるのだとしたら…それは、きっとこの言葉。 思いこみでも…何でもいい。まさしく、この言葉だとその時思った。 視線を交わして…互いに微笑む。 そんな小さなやりとりが静かに心を満たして行く。 忘れかけていた…この感じ。 言葉はいらない。 お互いが、ただここにいる――。 それだけで、こんなにも気持ちが落ち着いている。どんなものより、それが自分の求めるものだと心の底から実感出来る。 抜けた穴の大きさに比べたら、遙かにささやかなものだけど。 今は…まだ――ほんの小さなものだけど。 食事を終えて。 店を出ると、フロアの中央にある広場の方へと歩いてみた。 周囲には、今出てきた店を含めていくつかのレストランが点在している。 フロアの天井はドーム型に丸くなっていて、自然の夜景が映えるよう明かりは暗めに設定されていた。 周りはいつしかアベックばかりになっていて…どうやらここは、定番のデートコースらしかった。 テラスに並べられているテーブル席に、少し斜めに向き合って座る。 明かりが幾らか落とされているとは言え…こんなオープンなスペースに、おれなんかといていいのだろうか…。いつもなら、この後はホテルの中のバーに入るとか… 立場上、冴子はおれと二人で人前に出るのは避けている事が多かった。けど、これじゃあまるで…本当の、ごく当たり前のデートみたいだ。 「並木先生の所へは、いつ頃戻るの…？」 「たぶん2、3日うちに。宮城さんがいるから大丈夫だとは思うけど…あの人は、一人にしとくと心配なんだ」 「…まさか。仮にもダイビングのプロなのに？」 「夢中になるとまるで子供だよ。それに…約束したからさ。少なくとも来年の夏までは、生きててもらわないと困るんだ。肝心のザトウクジラもまだ撮れてないんだし」 「また、そんな言い方を――」 「ほんとだよ。スポンサーとしても、一度ちゃんと言っておいた方がいいよ」 …他愛のない会話。 こうしていると…このままずっと、今まで通りにいられる気がする。 過去のこと。 これからのこと。 そういった事の何もかもを考えなくてもいいのだとしたら。 いっそ…時間が止まればいいのに。 たどりつく答えは判ってる。だとしても…いや。だからこそ。少しでも、“その時”を先送りしたくて話題を探す。 …彼女の苦痛。…彼女の痛み。 そんなものの上でしか成り立たないような時間でも…それならそれでいいじゃないか――。そんな…自分勝手な思いさえ頭の奥に浮かんで消える。 彼女といる事。 此所に…いる事。 感謝してると言ってくれた。だったらどうして、終わらせなくてはならないのだろう。 だったら…此所から。 感謝の言葉で過去を清算してくれた、この場所からもう一度…始められるものがあるんじゃないのか…。 「ねえ…冴子」 「何？」 「会えないかな…これからも。時々でいいから…こうやって」 「…」 彼女は黙っておれを見つめる。 もっと別の―― もっと何かの―― 上手い言い方があってもいいのに。いつでもそのまま…思ったまましか言葉に出来ない。 少しでも、彼女の重荷が軽くなるような… 寧ろ、彼女の存在に救われた日々もあったこと。 今までにも何回もそれは伝えたつもりだったけど、やっぱりおれは、あの頃と何も変われてないのかも知れない。 思うに任せない言葉が歯がゆい。 彼女の視線が小さく空を彷徨って…おれから逃れて目を伏せた。 まるで――頭上に浮かぶ風船を掴まえたくて、必至に腕を伸ばしてる… おれの心は、そんな心細さで一杯になる。 「判ってるけど…それが無理なのは判ってるけど…このまま終わるのはやっぱり嫌だ」 「…」 「おれが、子供なだけなのかな…。それが冴子にとってどうなのかとか…考えなくちゃいけないって判るけど――」 「…」 「答えなんて…どうでもいいって選択はないのかな。ここから…始まらなくてもいいからさ。何も始まらなくてもいいからさ。せめて、あと少しだけ…このままいる事は出来ないのかな…」 冴子は、視線を合わせないままつぶやいた。 「沖縄でも…そんな風に言ってくれたわね」 そして、真っ直ぐおれを見る。 彼女の静かな瞳の中に、さっき感じたのと同じ強い意思の光があった。 「あなたが――それを望むなら。いいえ。あなたが――それを望むよう…私たちは仕向けてきたのよ」 「『私、たち…？』」 「私と、有賀よ」 「…」 「二度とあなたには関わらせない――。そうしなければ、たぶんあなたは今でもあいつに惹かれるでしょう？」 「…」 「…惹かれる、という言い方は相応しくないわね。でも…あなたが私といたいと、望んでくれるのと同じ強さで、あなたは有賀に会ってしまう」 「そんな事――」 「私も有賀も、あの時はあなたの気持ちなんてどうでもよかった。あなたの幸せなんて…何にも考えていなかった。だから、あなたがそれを望む事も…判っていたの。それだけは…たぶんこれからも、消せない思いになると知ってたの」 「違う。おれが思ってるのはそういう気持ちじゃ――」 「言い切れる？」 「…」 「本当に、それが違うと言い切れる？もしも今、ここに有賀がいたら、あの時の事を思い出さずに私とこうして会っていられる？」 …ここに有賀が――。 その一言が突き刺さる。小さな痛み。でもそれは、何より確かな痛みでもあった。 沖縄にいた時のようなフラッシュバックは起こさないまでも、あいつの存在――そのものは、まだ強烈な力を持っていて… 「私と有賀は、あなたにとっては一対なのよ」 「…」 「彼が、力であなたの傷をえぐり出して来たように…私は別のやり方で、それを記憶として焼き付けて来た。私自身の保身のために、あなたには口封じが必要だったの。私の傍にいたいと――そう…思ってくれるよう。それがあなたには、一番確実な方法だと知っていたから」 「…」 「拓が…子供なわけじゃないのよ。私の方が、狡くて汚い大人なだけ」 目の前を行き交う恋人達。 おれ達は… おれ達も… 彼らから見れば同じように映るのだろうか。 届かない言葉。届かない思い。 指先を掠めて飛んで行こうとする風船を、あきらめて見上げるおれがいる。その…隣りから、しっかり握った風船の紐をそっと差し出す小さな手。 ――家に着くまで、持ってていいよ。 人なつっこい笑い顔。懐かしい声。 巻き付けられた紐の感触。温かかった…繋いだ手。 …遠い――記憶。 「ここで終わりにしましょう」 「…」 「みんな、新しい道を歩き始めた。あなたも…いつまでもこんな所で立ち止まっていてはいけないわ。『私が、あなたの夢を叶えてあげる』。今日の拓を見て…あの約束は、叶えられたと思ってる」 冴子の言葉はあくまで静かだ。 今までと何ら変わる事なく…彼女は穏やかに言葉を繋ぐ。 「だから、それが今の私に出来る精一杯の感謝の気持ちよ」 言って微笑む。この上もない美しい微笑。 何の不安もそこにはなくて――。 『約束は叶えられたと思ってる』 言い切った、その言葉と同じに――彼女は彼女の結論を心から納得し、受け入れている…。 おれは思った。 彼女の中では、この時間… おれ達が過ごして来た、この長い…今日の僅か数時間で幕を引いてしまうには、余りにも長すぎる全ての時が…完全に、終わったのだとその時知った。 完全に…？ いや。完全ではないかも知れない。おれが未だに、有賀の名前を聞かされただけで動揺するのと同じように、彼女も全てを昇華し切ったわけではない。 でもそれを、今の言葉で実に彼女らしい結論へと導いた。 ――精一杯の…感謝の気持ち。 おれの救いが、そこにあるという事も知っていて。 … 悔しいだとか悲しいだとか、そういう思いを通り越して、返す言葉が探せない。 ここまで深く見抜かれて… 最後まで『狡くて汚い大人』に徹したままで… それしか…ないのか。最初から。 見えていた筈の終わり方。判っていた筈の…この、結末。 もう、それしか。 「しばらく日本を離れるわ」 「…」 「前々から出ていた話なの。仕事でね。けど…それも、いいのかも知れない。お互いにそれぞれの場所で、それぞれの時間を過ごすのも。今度会う時には、あなたは私たちの事は忘れて、新しい出会いと巡り会ってるかも知れない」 「…しばらくって、どの位…」 「そうね…。まだ何とも言えないけれど。年単位にはなるでしょうね」 …言葉が切れた。 お互い何も言わないで、時間だけが過ぎていく。 いいのか。このまま。 これで本当に後悔しない？彼女が決めた答えなら…それに従うしかないだろう。だとしても… これでいいのか？本当に？ 答えは出ない。 頭の中で同じ言葉が空回りを繰り返す。 『新しい出会い』… 彼女の言葉を反芻してみた。 だとしても…だ。例え…そうだとしても―― 「おれは…忘れないままでいると思うよ。冴子の事も有賀の事も。たぶん…一生忘れない。忘れられるわけないじゃない」 「…」 「距離なんて関係ないよ。たとえ自分が死んだって、繋がっていく思いはあるんだ。その事は冴子だって知ってるよね。三村さんの事、さっき話してくれたけど…おれは、そういう事だと思ってる」 「…」 「今は、これで終わりでもいい。でも…おれは、これが最後だとは思ってないから。どんな時間も、どんな出会いも、生きてる限りは手離さないって決めたんだ。…絶対に忘れない。だから、今の思いはこのまま一緒に連れて行く」 「拓…」 冴子の顔が驚いたようにおれを見た。 「あんなちっぽけな島の上でも、大切な思いを繋げて暮らして来た人がいた。どんなに過酷な記憶でも、忘れる必要なんて何処にもなくて…それが大事な記憶なら、大事にしていていいんだと判った。たとえ…痛みと一緒でも」 「…」 ややあって。 冴子は観念したように微笑んだ。 「ずいぶん、強くなったのね…」 「どうかな…。単なる開き直りかも」 「だとしても、今までの拓には絶対出せない答えだと思うわ」 「本当に…？本当にそう思ってる？」 「ええ」 微笑を崩さないままうなずいてくれる。 「横川のおばさまが聞いたら驚くでしょうね。今度はあなたを、オーストラリアに連れてくくらいじゃ済まなかったでしょうから」 「そうだよ。確かに…あの頃のおれとは違ってる」 「…」 「冴子だって変わったよ。今までだったらそんな風に、自分の話をしたりしなかった。三村さんとの事だって、初めて自分から話してくれた」 「…」 冴子は両手の指を組んでおれを見た。香の香りが仄かに漂う。 「何もかもが変わってく。大事にしたい思い出も、二度と思い出したくない出来事も、いつの間にか形を変えてく。けれど、どっちも紛れもなく今のおれに繋がっている。おれが此所にこうしてるのも、あの日…冴子と出会ったからだ。智が死んで…あなたとあの場所で出会えたからだ。だとしたら…それを今更なかった事に、なんて出来る筈がないじゃない」 「…」 「変わらないものも…あっていいよね。此所にいるから。おれは、ずっと此所にいるから。そうすれば、どこにいたってお互いの声くらいなら届くんじゃない…？」 「…」 「いつか…また、おんなじ道で出会う事があるかも知れない…」 この…人工の明かりの下で。 仄暗いテラスで向き合うのが精一杯で。 笑顔で行き交う恋人のように、互いの手を取り合う事などしなくても。 此所に…いるから。 此所から、いつでもみてるから。 誰かがそこにいてくれて…一人じゃないと思えるだけでも―― あの時、確かにそこにいて… ――そうね…。 冴子の声と僅かなうなずき。 おれ達は、もうそれ以上言葉を探す必要もなく… 静かに笑みを見交わしてそこにいた――。 |
