･･･ちゃん。

･･･お兄ちゃん。

ぼやけた意識の片隅で･･･懐かしい声が遠くに響く。

あれは――このみだ。

まだ小さい･･･幼稚園に行ってた頃のあいつの声。

跳びはねてるような･･･走ってるような･･･

ころころした手足をパタパタさせて、長靴の足が駆けて来る。

お兄ちゃん！浩平が･･･浩平がまたいじわるを･･･

空はあいにくの雨模様。

このみの手には、うすピンク色の傘が握られていた。でも、それは見るも無残に折れ曲がってる。

「わ･･･どうしたんだよ、これ」

「浩平が･･･」

「浩平がやったの？」

訊いたのは智だ。このみは必死に涙をこらえてうなずいた。

――

「クモがさ」

浩平が憮然とした顔でそこにいる。

紺の制服に半ズボン。頬には小さなかすり傷がついている。

「･･･このみの頭に落ちて来そうだったんだよ。木の上から」

それを追っ払おうとして、咄嗟に傘を振るったのはいいけれど、どうやら目測を誤ったらしい。

「･･･しょうがねーな。母さんにはおれからも謝ってやるよ」

半ベソをかいてるこのみに言った。

この傘は、こいつのお気に入りだったんだ。まだ買ったばかりだったんだよな･･･。

「ごめんね。このみちゃん」

智は腰をかがめると、申し訳なさそうにこのみに言った。

ひとつ･･･またひとつ。

このみの丸い頭の上に雨粒が落ちる。智は、持ってた自分の傘を差しかけた。

つぶらな瞳が不思議そうにそれを見上げる。

「･･･こんな色じゃ、イヤだよね」

濃紺の折り畳み傘。小学生の傘とは言えチビには全然大きいその傘を、このみはニコニコ嬉しそうに受け取った。

「信じらんね･･･。もう笑ってる」

おれが言うと智も笑った。隣の浩平に眼をやって、

「――後で、一緒におばちゃんに謝ろう」

「･･･」

渋々浩平はうなずいた。

――

･･･ちゃん。

･･･お兄ちゃん･･･。

何だよ･･･今さっき笑っていたクセに。

どうしてそんな悲しそうに呼ぶんだよ。

傘はどうした･･･？智にもらった･･･紺の傘。

･･･あんなに嬉しそうな顔をして･･･持って帰っていたクセに･･･。

――

頭が重い。目が開かない。

意識の中に･･･全体に･･･重たい霧がかかってしまっている感じ。

どうしようもなく･･･ただ、眠い。

やっとの思いで目を開けた。

天井だ。見慣れた部屋の天井だけど･･･途端にすごい眩暈を感じて、思いっきりまた目を閉じた。

そのほんの一瞬に。傍にいる――見慣れたこのみの顔が見えた。

目には大粒の涙を浮かべて･･･今にもこっちへ落ちて来そうだ。

「･･･何だよ。どした･･･？」

「･･･」

返事がよく聞こえない。まだ頭の芯が眠ってるのか、自分の声さえ聞き取りにくい。別の誰かがしゃべってるみたいに、何だかひどく遠くに感じる。

仰向けでベッドに横になってるおれのことを、このみは心細げに覗き込んだ。

「･･･よかった」

「･･･？」

「真っ白な顔して眠ってるんだもん･･･。死んじゃってるのかと思ったよ･･･」

ハナをすすりながら涙を拭う。さっきの夢とおんなじ半ベソ。

「ごめんね――」

「･･･」

「･･･ほんとにごめんね、お兄ちゃん･･･」

「･･･」

――つぶやく声を聞いてるうちに、だんだんと夕べの記憶が戻って来た･･･。

あいつと話をしているうちに･･･いつからか――どうしてなんだか判らないけど、子供みたいに涙が出て来て･･･

そこから先は覚えていない。

途切れた意識の断片に、タクシーの中、おばちゃんの声、ウチの両親達の声･･･

色んな記憶が脈絡なしに入り混じって残ってる。

『君は･･･自分への後悔や嘆きの気持ちを、祥子さんに代わりに向けて、ぶつけているだけじゃないのかな･･･』

その言葉を聞いてから――

頭の奥で何かが割れて･･･

割れたような感じがして･･･

「浩平と二人で、祥子おばちゃんに怒られちゃった。『心配なのは判るけど、余計なコトしすぎ』って」

「･･･あいつに会ったのは偶然だよ。別に･･･お前らのせいじゃない」

「だけど･･･私が言ったから――私達が言ったから、杉崎先生と話しようとしてくれたんでしょ」

「･･･遅かれ早かれ、話しなきゃと思ってたんだ。どんな物好きか知りたかったしな」

「ごめんなさい」

「･･･だから、何がだよ」

「私･･･お兄ちゃんがそんなにつらい思いしてるなんて考えてもいなくって･･･どうして『先生に会ってもいい』って言ってくれたのか、そんなの全然考えてもいなくって･･･」

「･･･」

「･･･ほんとに、ほんとにごめんなさい･･･」

『余計なコトしすぎ』って――

よく言うよ。誰のせいだと思ってるんだ。

心の中でつぶやいて、泣いてるこのみへ目を向けた。

「上等じゃん」

「･･･え」

「――って･･･前にお前に話したろ。智のためなら。智の分まで。それしかおれにはもう出来ないし･･･それが『つらい』なんてさ･･･感じたコト一度もないって」

･･･けど。

それも結局このザマだけどね。

何処かで何かの声がする。胸の奥が小さく痛む。

気分が･･･悪い。

「･･･おれが会うって決めたんだから。お前も浩平も悪くない。･･･悪かったな、心配かけて」

このみは大きく頭を振った。

「･･･心配ついでに――もう少し、このまま寝かしといてくれる･･･？」

「ほんとに大丈夫･･･？」

「眠いだけだよ。･･･何だか、すごく眠くてさ。もしかして･･･おれ、何か飲んだ･･･？」

「杉崎先生が、お兄ちゃんがもらってる薬の中身確かめて･･･祥子おばちゃんと相談して、粒の薬を一個飲んだよ。覚えてないの･･･？」

･･･そのせいか･･･。

半錠飲んだって残るのに･･･一錠だって？冗談じゃない。

どうしようもない無力感に襲われた。

何が『勝負』だ。

智に全てを聞かされた時も･･･

あいつらが、智を無視して前に進もうとした時も･･･

結局「おれ」には何にも出来ずに、おまけに相手のされるがままに眠剤まで倍量飲まされて――。

･･･

ゴメンナ。助ケテヤレナクテ。

オレダケ今デモ･･･ココニイルノニ。

･･･

瞼の重さに意識を任せる。

そのままゆっくり沈んでく。

眠れ。いっそこのまま眠ってしまえ。

ここにいたって、どうせ何にも出来ないんだから。「お前」には。

波の音･･･

波の音が懐かしい。

早く帰りたい。あの島へ。

“無音”の中へ･･･帰りたい――。

橋の上から真下に広がる海を見た。

コーヒー色の水。

橋げたに波が当たる度、面に浮かぶ油が揺れて･･･波間に白いビニールが、たくさん浮かんでいるのが見える。

よく見ると、それはクラゲだった。

あっちにも･･･こっちにも。

すごい数のクラゲの海――

「何か･･･臭くねぇ？」

浩平が顔をしかめた。

「海の匂いじゃない？ここ･･･すっごく水汚いもん」

「クラゲって･･･こんな汚い水でも平気なんだな」

「平気じゃないかも知れないけど･･･仕方ないんじゃない。居場所がここしかないんなら」

「･･･」

浩平は私の顔を見た。ハッとした。

「ご･･･ごめん。ヘンな意味はないんだよ」

「判ってるよ。どうする？他のとこに行くか？拓さんのコトが心配だったら、おれは別に家に戻ったっていいんだぞ」

「う･･･ううん。大丈夫。私が誘ったんだもん。行こ」

明日。浩平は陸上部の寮に帰ってしまう。今日は一日、私に付き合ってくれるって約束だった。

水族館と遊園地が一緒になってるレジャーランド。

前にまっちゃんが彼氏と来たコトあるって言っていた。イルカのショーとか･･･日本一大きいジェットコースターがあるんだよとか･･･港が近いから夜景もとっても綺麗だよとか･･･とにかく色々教えてくれた。

幼なじみの欠点だよね。

･･･デートらしいデートって、ほんとに私達したコトなくって･･･

学校もおんなじ、家も隣で、気がついた時にはお互いに自分ちも同然に行き来してて。

そんなんだから、改めて何処かに行こうって思いつくタイミングもなかなかなくて。

ディズニーランドにも、二人でカラオケデートにも、一度も出かけたコトがなかったし･･･

もうずっと――何をどうやって“つきあってます”って、証拠にすればいいか判らなかった。

でも今日は、正真正銘浩平とのデート。

本当は、お弁当も作りたかったけど･･･

夕べはあんなコトもあったりで、私もほとんど寝れなくて――

「いいじゃん。向こうで何か食べればさ」

笑ってくれた浩平の言葉に甘えさせてもらうコトにしたんだ。

夏休み。

それも丁度お盆のお休み中とあって、開園から一時間がたったばかりの園内にもかなりの人が入ってる。

まっ青な空。白い太陽。

今日も暑くなりそうだった。

「･･･で。どうなんだ？拓さんの具合」

入り口のゲートで、入場バスを通しながら浩平が訊く。

私も後に続いてゲートを通った。

「うん･･･あの後はとってもよく眠ってた。死んじゃったんじゃないかって心配になっちゃうくらい」

「･･･何だよ、それ」

「だって本当なんだもん。真っ白な顔して眠ってるんだよ。･･･祥子おばちゃんは『大丈夫』って言ってくれたけど･･･あれ、何の薬なんだろう･･･」

「専門の先生が、拓さんのために出してる薬なんだろ？だったら平気なんじゃないのか･･･？」

「薬の袋の中に診察券が入ってて･･･見たら、予約日過ぎてたの。ほら･･･あの日。みんなで三村さんのお店でご飯食べた日。あの日の夜に診察に行かなきゃいけなかったみたい」

「･･･そう言えば拓さん、冴子さんと連絡がつかないって気にしてたっけ･･･」

「うん･･･」

そうなんだ･･･。

そんなコトも重なって、拓兄の心の中はかなり不安定だったんだろう。

『杉崎先生と話して』なんて――私が浩平に頼んだりしたから･･･。

智兄ちゃんとそっくりな浩平に、そんなコトを頼んだりしたから。

「おい」

浩平の声にハッとした。

「な･･･何？」

「過ぎたコト、いつまでもくよくよしてるんじゃねーぞ」

「･･･」

「拓さんは、お前が何でそんなコトをしたのかってコトくらい、とっくに判ってる筈だろ。だったらいいじゃん。お前の気持ちは伝わったんだから。大体、自分の体調を妹のせいにする程情けないヤツじゃないよ、お前の兄ちゃんは」

私は、隣の浩平の顔を見上げた。

「お前がそういう顔してる方が、ずっと拓さんを心配させると思わない？現にお前の泣き顔見て、すぐに目覚ましたんだろ？」

･･･思わずうなずく。

「だったら、ここでしっかり気分を変えて、元気な顔を見せてやれよ。おふくろ達の件は、本人達が何とかするって言ったんだし、おれ達はおれ達のコトをかんばればいいよ」

･･･そう。

そうだよね。

私が浩平のコトで悩んでた時。

一番力になってくれたのはお兄ちゃんだった。

私達みんなの抱えて来たもの。智兄ちゃんの残した思い。

それを全部知っているから。

今度は私達が支える番。支える、なんておこがましいし･･･私達なんかに何が出来るか、今となっては判らないけど、今は浩平の言うとおり、めそめそしてる場合じゃないよね。

「あのね･･･」

「うん？」

「今日、帰りに三村さんとこに寄ってみない･･･？」

「”5^th. Avenue”に･･･？」

「何となく･･･気になる。冴子さんのこと」

お仕事が大変なんだとしても･･･

こんな状況だからこそ、何か一言兄キに伝えてあげてほしいと思う。

昨日が智兄ちゃんの命日だって、冴子さんだって判ってる筈。あの拓兄がそこまで気にするくらいなんだもの、急に連絡が取れなくなってしまった事、ほんとに不安なんだと思う。

もしかしたら･･･

連絡も出来ないくらい大変な何かが、起こってるのかも知れないじゃない？

「･･･判ったよ。その代わりそれ以上何かしようとか考えるなよ。冴子さんには冴子さんの考えがあるのかも知れないんだから」

浩平は、いつになく用心深い声でそう言った。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　　


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