「…どういう事だよ。『あの事故と無関係じゃない』って」

先生は抱えた膝の上で両手を組んで…目の前に広がる海を見た。

満月の――

白い月明かりに照らされて、静かに凪いでる座間味の海を。

言おうか言うまいか少し迷って。

けれど…結局振り切って。

先生は言った。

「別に…深い意味じゃない。あれだけの大惨事だったんだ。この国の誰もが程度の差はあれ、心に刻んだ出来事だったし…俺にとっても多少なりとも特別で衝撃だったんだよ」

「…何だよ。それだけ？」

「それだけ――って、他に何があるんだよ」

「…」

『朋ちゃんの話が本当だったら…どうやら俺たちの周りには、死者のまぶいがいてくれているらしいから』

妙に…思わせぶりな言い方だった。

『まぶいがいてくれているらしいから』

――だから？

だから…一体何なんだ？

言い出そうとしなかった言葉の続きが気にかかる。

「…何で先生は、こんな面倒を引き受けたの」

「面倒？」

「断ろうと思えば断れた。おれのコトなんかほっぽって、一人でここへ戻って来ようと思えば出来たのに。冴子の頼みだったから？」

「前にも言ったろ。お前を雇ったのは俺なんだから、お前は春まで此処にいて俺と一緒にクジラの写真を撮るんだよ」

「…またクジラかよ」

「回り道はしたけれど、グソーに行った人間を探し続けるなんて真似は無駄だと気がつけたんだ。四年間信じ続けて来たモノから、そう簡単に気持ちを切り替えて行けるほどお前がタフだとは思っちゃいない。ゆっくり此処で、これからのコトを考えたらいい」

先生は、おれに向かって手を差し伸べた。コップをよこせ、とジェスチャーで示す。

こんなんだったら、とっとともう一つ泡盛の入ったグラスを取ってきた方がよさそうだ。

ゆっくり。此処で…。

智がいなくなって四年が過ぎて…なのに、どうしておれは此処にいるんだろう。

春までここに――

どうして…ここに…？

先生に、求められるままにコップを渡して…月明かりに浮かび上がった自分の指先を束の間見つめる。

血の気の失せた薄い掌。

――何もない。

此処には何も…残っていない。

波に洗われる板切れみたいに…得体の知れない心細さは後から後から湧いてくる。

有賀と一緒にいた時も…

T’sで作り笑いをしていた時も…

感じなかった、この――不安。

「まあ…座んなよ。せっかくの満月なんだから、自然の恵みを噛みしめてだなぁ…」

「…考えられない」

「え？」

「考えられるか、そんなもの。“これからこれから”って…あせって考えなくちゃいけない事かよ。“ゆっくり”なんて言いながら、昼間っからずーっとそればっかりだ」

「…あれ。そうかな」

「そうだよ」

両手を頭の後ろで組んで、そのまま仰向けに寝ころんだ。

何もかもが面倒だ。

考えて…誰かに話して…整理がつくならとっくにどうにかなっている。

どうにも…ならなくたっていい。

このままでいい。

結局今までと同じなんだ。

見えない力。どんなに抗っても…抵抗しても、どうにもならない何かの力。そいつはおれから智を奪って…頭の中をメチャクチャにして…それでもまだ足りなくて。

力が欲しい。

もっと強い…何かの力。

こんな思いも…救われたいなどと願う弱い心も…木っ端微塵にしてくれる…

そんな、とてつもない力。

「――なぁ。拓」

性懲りもなく…。

並木先生の間延びのする声がした。

「海に、出たいって思ったんだろ？」

…まだ言うか。

「海に潜っても誰もいない、誰にも会える筈がない、そう思ってた筈なのに、もう一度この島で潜ってみたいって思ったんだろ？それは…どうしてだと思う？」

…だから。

判ってる。判ってるんだよ。自分がどんなに甘いかは。

何となく…

本当に何となく程度の薄ボンヤリとした、そんな気持ちでここに来たんだ。

『あいつが潜りたいって言っていた海でなら何か判るかも』

それだけだ。

他には何もない。深い意味なんて何も…ないんだ。

「『海は命の源だから』」

尚もめげずに先生は続ける。

「『この島は神様に守られている。死んだ人のまぶいは、私たちとずーっと一緒にいるんだよ』」

「…」

「朋ちゃんが言ってたな。俺にはあの言葉が何となく判る。判る、と言うより…そうかも知れないって素直に感じた。だって…見ろよ、この空を。こんな星空、東京じゃまず見られない。この満月もそう。この満月に導かれてタマゴを放つ命もそう。お前の好きなこの場所も、島が神様に守られている――その言葉で全部納得出来るような気がしない？」

「…」

「けどこの島は、かつては戦火にさらされて…とてつもなく傷つけられたんだ。土地だけじゃない、もちろん人も。そして…今でも。朋ちゃんの言葉さえ、マスコミに都合良く利用されている。昔は、俺はそいつが切なくてなぁ」

先生はコップの酒をちびりと飲んだ。

「カメラマンなんて仕事を生業にするずっと前から、俺はこの島が大好きだった。いつかは此所に住みたいと真剣に考えた事もあったくらいだ。けど…今は、そうは思わない。ここには、俺たち内地の人間には踏み越えられないモノがたくさんある。俺たちが“癒し”だとか“神の島”だとかを一方的に求めてさ、入り込んだりしちゃいけない気がする」

「…」

「過去の歴史についてもおんなじなんだよ。勝手な同情は、ここで命を育んで、大地にしっかと足を踏ん張って暮らしてる人たちに失礼だよな。好むと好まざるに関わらず、うちなーはそいつと生きなきゃならない。可哀想でも何でもない、それがこの島。この場所なんだ。そして…やっぱり此所は、俺には世界で一番美しく――どうしようもなく心惹かれる所なんだよ」

先生は、初恋話でも打ち明けた後みたいに照れくさそうに笑って見せた。

「難しい事は考えなくてもいいんじゃないか。お前が、どうしてもう一度潜ってみたいと思ったか。そんなの…この海が恋しかったからとかさ、綺麗だったからとかさ、それでいいと思うんだよな。うん。そのままでいいと思うんだよ」

「！」

おれは、がばっと体を起こした。

「…よく言うよ！そんないい加減、絶対許さないみたいな訊き方しといて！」

「いい加減なものか。GBRに住んでみたかったって…前に、言ってたろ。智紘君と一緒にさ」

「…」

「今更、それがどうして？だとか…彼が何を考えて、そうしてみたいと思っていたかなんて、誰にも判らないし知りようがない。お前が今でも住みたいと思うんだったらそうすればいい。海もおんなじ。潜りたかったら潜ればいいし…やめたかったらやめていい。お前や俺の気持ちなんかとは無関係に、海は此所にあるんだから」

「…」

「美味い酒を味わって“美味い”って感じる事が出来るのも、この場所で見る夕焼けや星空を、最高だなって思えるのも…ぜーんぶお前が『此処にいる』っていう証拠なんだよ」

…はっとした。

頭の芯が僅かに揺れる。何かが小さく当たったみたいな、軽い…衝撃。

「そろそろ現実と向き合ったらどうだ。有賀と二人で島にいた時、全く何も覚えてないワケじゃないんだろ。あれだけ辛い思いをしたのに『また来るよ』って、お前は礼君に言っていた。それは何でだ…？」

「…」

「ここに戻って来たいと思った、海に出てもいいと思った、お前が求めるものは此所にはないのに。それは何でだ？」

波に洗われる板切れに…小さな石がコツンと当たる――そんな感覚。

コツンコツンと…

何度も何度もそれは当たって…

――礼。

ひどく…懐かしい名前。何年も会っていない気さえする。

『ここで…待つんじゃなかったの？大切な友達が来るのをずっと待つって言ってたじゃん！』

会いたい。もう一度。

…そしたらあいつは――おれを許してくれるかな。

あの時のおれは此所にはいなくて…

それでもあいつは…

あの人見知りのひどい少年は…おれを受け入れてくれるかな。

温かな思いが何処からともなく溢れ出す。

あんな別れ方をした筈なのに、それはどうして――。

…青い、海。

視界一面に枝を広げた珊瑚の林。

そこは、地元の人間しかたどり着けないような秘密の場所だ。

流れは確かに早いけど…色とりどりの熱帯魚。岩場の影に、隠れるように身を寄せている小さな魚。

新鮮な驚き。弾ける感情。

知らず知らずにこぼれる笑顔。

…そんなんで全てが昇華されたワケじゃない。

二度と思い出したくない程の、苦痛も恐怖もそこにはあるのに。

なのに。

それでも…

出来るものならもう一度…戻りたいと思ってる。礼と出会えた、あの島に。

それはどうして――？

…

――最初は、やっぱりハワイかな。

目の前に広げた地図帳の上。マーカーで大きく印を付けて智紘が言う。

――え…結構ミーハーな、お前って。

――違うよ！マウイの方なら落ち着いて潜れるって本にあったし…魚も珊瑚もキレイなんだ。あ、もちろんどこの海だってみんなキレイなんだけど。

――いっその事、オーストラリア辺りに一生住んで潜りまくれたらいいのにな。そうでもしなくちゃ見切れねーよ。

――ああ…。

嬉しそうな智の顔。

いつもの寂しげな顔からは、想像もつかない明るい声であいつが言ったあの言葉。

――いいね！それ！

…遠くに聞こえる水の音。

枕元に散らばる一万円札。力任せに張られた頬が火照ってる。

これは…罰。

おれはあいつを救えなかった…そのための――罰だと心に刻んだあの時の――

手首に残った縄の跡。

バスルームのガラス越しに、大きく揺れる人の影。

二度と…思い出したくない、あの夜の――

とめどなく、ランダムに寄せる記憶の波。

背中を一筋、冷たい汗が流れて落ちる。僅かに呼吸が早くなる。

まだだ…。

まだ暗闇は広がっている。何も消えてやしない。何も…許されてない。

それは確かにそこにいて…

おれの隣に今もいて…

「…おれは――」

「ああ」

「…おれは別に海なんて…GBRも熱帯魚も…どうでもよかった」

「…」

「あんな智紘を見たのは初めてだったし、生き生きしてて…嬉しそうで。あいつとだったら…あいつと一緒にいられるんなら、何処だって…何だっていいと思った。あいつがそんなに喜ぶのなら、オーストラリアだって何処だって行けると思った。ただ…それだけだったんだ」

「…」

「だから…四年前のあの夏に…あいつが沖縄に体験ダイビングに行こうって言い出して…計画立てて準備して…もうあと数日っていう時に、あの事故に遭って死んだ時――『何で？』って。行きたかったのはおれじゃない。智なのに。此処にいたかったのもおれじゃない。海に潜って、熱帯魚に囲まれて…立派なケーブに驚くのも…太陽も風も夕焼けも…そして今だって…此処にいたかったのはおれじゃない。なのに…『何で？』――って、すごく感じて」

「…」

先生は、黙ってコップの泡盛を口へと運んだ。

風が…吹く。

頬に感じる乾いた空気。それは変わらず優しいこの島の風だ。

ナルちゃんと、初めて来た時にも吹いていた。

心に深くしみる風。そしていつでも、静かに全てを包んでくれる。

こんな…おれでも。

こんなおれの周りでさえも…それは優しく、温かい。

――拓。

ねえ、拓。

脳裏に浮かぶ智の顔。大好きだった…あいつの笑顔。

此所にいたかったのはおれじゃない。

なのに。此所にいたいと思ってる。

他のどんな場所よりも――

おれは今…此所にいたいと思ってる――。

…ごめん。

ごめんな。

…何の意思も力もなくて…。

その上最後の最後まで、お前の傍にもいてやれなくて。

――拓が此所にいてくれて、ほんとによかった。

よくないよ。

何でそんな風に言うんだよ。

おれがこんな所にいたって、何もしてやれなかったのに。

あの世界。

青一色のあの中へおれを連れてってくれたのは…他の誰でもなくて――

お前自身だったのに。

…変わってく。

…何かが、静かに流れ出す。

求めていた筈の大きな力。

そうじゃない。そうじゃないんだ。

必死に叫んで繰り返す。何より、誰より、その力の大きさを知っているのはおれなのに。

――変わりたい。

――変われない。

――変わっちゃいけない。

みっつの思いがせめぎ合う。頬を掠める島風が、静かにそれを見つめてる。

ああ…

やっぱりここでも…潮の香りはするんだな…。

おれが気付かないでいただけで。

智が…見せたかったもの。おれと一緒に…来たかった場所。

全部、気付かないでいただけで――。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　



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