「忘れ物、ない？チケットは持った？」

玄関でお母さんの声がする。

白い、買ったばっかりのサンダルの履き心地を確かめてから、私は大きくうなずいた。

「大丈夫大丈夫。那覇に着いたら電話するね」

「そうね。拓の声もちゃんと一緒に聴かせてね」

「はーい」

並木先生から連絡があったのは二日前。

お兄ちゃんの帰りが遅れてるコトでやきもきしていた矢先だったから、お母さんから飛びつくように受話器をもらって、一言も聞き漏らすまいとして、必死に耳に押し当てた。

「どうしても、このみちゃんの力が必要なんだ」

先生に言われた時は一瞬耳を疑った。でも…話を聞いて、事情はすぐに納得出来た。

それに…

智兄ちゃんが見たかった場所。

あの二人にとって、海は聖域にも近い場所なんだって十分判ってはいたけれど…私も見たい。

海の中って…

それを肌で感じるって…

どん気分なんだろう…。

「ただ…俺から言われて来たってコトは、拓にはナイショにしておいて」

先生は、電話の向こうで声を潜めた。

「あいつの事だから…どうせ勘づくとは思うけど、しらばっくれといて構わないから。あくまでも、このみちゃんの意思で来たってコトにしてくれる？」

もちろん。それを拒む理由なんか何処にもなかった。

両親の全面的バックアップをもらっての一週間の沖縄旅行。ううん、本当は、旅行なんてお気楽な目的だけではないんだけれど…。

那覇から先は、お兄ちゃんに迎えに行かせるって並木先生は言っていた。

兄キはあれから何を思って…島で過ごしていたのかな。

確かめたい。訊いてみたい。

並木先生も言っていた。

『今のあいつに訊いていけない事なんて何にもないよ。何でも訊いて。しゃべらせて。今までの事。有賀との事。二人でいる間にあった事。神崎さんとの事もね。何もかも、あいつの口から聴いたらいいよ』

…不思議な人だ、先生って。

クリニックの先生とも連絡を取ってるって言ってたし…今の兄キに必要な事、あの人には全部判っているんだろう。

２時間半の空の旅。那覇空港のロビーで辺りを見回す。

どんな場所でも…どんなにたくさんの人混みの中でも…兄キの姿はすぐ判る。とにかく、何処にいたって目立つんだから。

着いてすぐ。送ったメールに返事は来ない。

飛行機の時間は、並木先生を通して伝えてあったけど…さすがに少し不安になった。だって、
何処にも拓兄の姿はなくて…。

並木先生が約束を忘れる筈がない。
お兄ちゃん、やっぱり怒ってるのかな。浩平の時とおんなじに…勝手にこんなとこまで来てしまったから。

島で二人が住まわせてもらってる、宮城さんちの連絡先は聴いていた。最悪そこへ知らせるしかない。だけど…そしたら私、一人っきりで座間味島まで渡るコトになるのかなぁ…。

不安が一気に押し寄せる。当然だけど気がつけば…周りは知らない人ばかり。

…どうしよう。

ここは電車で30分の街じゃないんだ。誰が何と言っても沖縄なんだ…。

その時だった。

「きゃっ！」

突然誰かに、ぎゅっと背中から抱きつかれた。

首に巻かれた長い腕。

覚えのある…いい香り。

力任せに、それをふりほどいて振り返る。

「お兄ちゃんっ！！」

「ごめんごめん。遅くなっちゃった。ずいぶん待った？」



相変わらずのスリムな背格好。

髪はすっかり黒く戻っていたけれど、片耳だけのビアスは前のまま。

少しだけ、頬が細くなったような気がしたけれど…取りあえずは、変わりない。日焼けした、元気な笑顔にほっとする。

もうどのくらい…この人の顔を見ていなかったんだろう。

時間にすれば、約一ヶ月。

今までだって、そんな事は何度もあった。ナルちゃんとダイビングに出かけていたり…家にいない事も何度も何度も…。

それなのに。

すごく…すごーく懐かしい。

「もうっ！いきなり何なのよっ！心臓が止まるかと思ったよっ！」

「そっちこそ、いきなり何なんだ？心臓が止まるかと思ったよっ」

…人の気持ちも知らないで。

顔を見合わせて、吹き出し笑い。

「何日かで帰る、みたいに言ってたクセに、その後何の音沙汰もなくなっちゃったから、みんな心配していたんだよ」

「それだけ？」

「…へっ？」

「いや…。よくそれだけで、親父さんたちが許してくれたなって思ってさ。受験生のクセに、道楽兄キの心配してる場合なんかじゃないだろう」

「大丈夫。私ね、進学やめたの。高校出たら働くの。フリーズキールで」

「フリーズキール…って…あの、駅前のケーキ屋のこと？」

「そ。今日もあのシークァーサーのゼリーをおみやげに持って来たんだよ。…覚えてる？前に、『おいしい』って食べてくれたやつ」

「覚えてるよ」

兄キは優しい笑顔を見せる。

「進学やめたって…ホントにいいのか。浩平の近くにいられなくても」

「うん。がんばってみる。あいつはあいつでがんばってるし…私も私の場所で、好きなことでがんばってみたいなぁって思ったの」

「…」

「…どうか、した？」

「すごいな」

「何が？」

「お前らが。つくづく…感心するよ」

「だから何がよ」

「そういうとこが、だよ。そういう台詞をすらっと普通に言えちゃう事が。…あーあ。すっかり兄キの威厳も吹っ飛んじゃうなぁ。仕方ないか、現実なんだし」

「…何よ、それ」

「別に。…まあ、いいや。せっかくこんな遠くまで来てくれたんだし、精一杯のお礼はするよ。色々…迷惑もかけたしな」

「お兄ちゃん」

「うん？」

踏み出しかけてた歩を止めて。拓兄が振り向いた。

「そんな言い方しないでよ。私は、自分で来たんだよ。お兄ちゃんの事は心配ではあったけど、そんな事より何よりも智兄ちゃんが『来たい』って言ってた場所を見たかった、だから、ここまで来たんだよ。それに今回の事で一番つらかったのはお兄ちゃんでしょ。迷惑なんて、誰もそんなの感じてないよ」

拓兄は…真顔になって私を見た。それから静かに微笑んで、

「そっか…。そうだよな」

「まあ…おれも、お前らほどに逞しくってワケには行かないけれど、少しずつ感じてるものはあるんだよ。智紘の思いをどうしたら繋げていけるのか。おれなりに考えてみてるんだ」

「…思いを…繋げる」

「そう。まだ…はっきりしたモノは見えないけどね」

――思いを…繋げる。

そうだった。私もずっとそれを思って…

浩平が自分の道を歩き出してから、ずっとどうしたら、私は私のやり方でそれが出来るのかを考えて来た。

「…じゃあ行くか。高速艇の時間もあるし。食事は朋子さんが、はりきって準備しているみたいだし。…まずは荷物か。預けてあるんだろ」

「うん」

私がうなずくのを見届けて…背中を向ける。

…と思った途端、もう一度。

兄キは、何かを思い出したみたいに私の方を振り向いた。

「ありがとな」

「…えっ…？」

「たまたまにしろ何にしろ…嬉しかった。このみが、ここに来てくれて」

「…」

「初めて、感謝したいって思ったよ。あの察しの悪い写真家に」

…うなずきかけて――はっとして。慌てて大きく首を振る。
明らかに挙動不審になりながら、顔の前でぱたぱたと大きく何度も掌を振る。

「なっ…なーに言っちゃってるのよ、お兄ちゃん！」

もう必死。

危ない危ない…。並木先生との約束、破ってしまうとこだった…。

…それにしても。



『…嬉しかった。来てくれて』



たぶん――
絶対――

初めてだ…。お兄ちゃんが心の底からあんなコト…他人に向かって言うなんて。

それ位…ほんとに心細くて、つらかったんだろう。

私は、心配してるだけだったけど…その間も、兄キは一人で――

並木先生や冴子さんはいてくれたとしても、結局一人で…
自分の弱さと向き合って…何かを掴もうとしてるんだもんね。

それって…すごいよ。すごい事だよ。

兄キは兄キのやり方で、智兄ちゃんの思い出を「今」に繋げて行こうとしてる。

あんなにも…頑なだったこの人が。

おまけにそれは、現実に打ちのめされたとか…あきらめたとか、そういうのとは全然違ってて。


…びっくりするのは私の方だ。


ゆっくり前を歩いてる兄キの背中を追いかけて…さっきのお返し。華奢な両肩に向かって両手を思いっきり突き出した。オーバーによろける姿に笑いが弾ける。

お兄ちゃんと、こんな風に笑い合えるのも…

優しい空気に包まれるのも…

私たちが、此所にいるからだよね。

冴子さんと並木先生と初めて那覇に降り立った…あの日と同じ青い空。けどそれも…今では、遠い昔の出来事みたいだ。

ターミナル前からタクシーに乗って。

私たちは、座間味島へと向かう高速艇の港へ向かった。

…

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　



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