島への高速艇が出る港。

待合所は田舎の可愛い駅みたいな…とってもアットホームな雰囲気だ。

拓兄が切符を買いに行ってる間…

何もかもが珍しくって、きょろきょろ辺りを見回してしまう。

長いすに座って、タバコを吸ってる日焼けした顔のおじいさん。

大きな荷物を膝に乗っけて、世間話をしてるおばあちゃん同士。

夏休みは終わってしまったけど、観光客の姿もまだちらほらしていたり。

乗船券売り場と…反対側には、ちょっとしたお弁当やおみやげなんかを売ってるお店もあって…

「ねえねえ、お兄ちゃん。あのお店って、昔みんなで出かけた時のおみやげやさんと似てるよね」

隣で時刻表を見上げてる、拓兄に向かって話しかけた。

「昔出かけた？…いつの話だよ」

「ほら。みんなで温泉に行ったじゃない。お母さんの田舎に遊びに行った帰り道」

「…それって、すっっっごく昔の話じゃないか？」

「そうだよ。小学生の頃」

「…よく覚えてるな、そんなもの」

「だって楽しかったんだもん。お店らしいお店ってそこにしかなくて、お父さんにヒマつぶしに連れてってもらってさ。都内じゃもう見かけないような、古いおもちゃとか置いてあって。おねだりしたけどダメだったね」

「ここの弁当、美味いんだよ。パパイヤの切り干しとか結構オススメ」

「パパイヤの切り干し？」

「切り干し大根とそっくりおんなじ感じだよ。…そう言えば、このみはこの間一度来てるんじゃないの？」

「え？」

「冴子と一緒にさ。…ああ、でもあの時は、飛行機で与那国まで行ったのか」

「う、ううん。私は本島までしか出かけてないの。冴子さんが…自分に『任せてもらえない？』って言ってくれたから、だから…着いた日と翌日と那覇に二泊して、すぐに帰って来ちゃったんだ」

「…ふうん」

兄キの返事は気のない声だ。

…いけない。

つられて余計なコトまでしゃべっちゃった。

何か、話題を変えなくちゃ…。

「あっ…あのさ…有賀さん、って昔、T’sのフロアマネージャーだったんだってね」

拓兄が、えっ？って表情で私を見た。

あっ、と口元に手を当てたけどもう遅い。半ばやけくそで言葉を繋ぐ。

「…えっと、ほら…そしたらさ、お兄ちゃんと一緒に仕事したコトとかあるのかなぁ…なんて思ったりして…」

「あるよ」

「えっ…」

「おれがT’sに入った時は、有賀はフロアマネージャーをやっていた。と言っても、一緒にいたのはほんの数日だったけどね。辞めたんだ、それからまもなく」

「辞めた…」

「辞めた、というより辞めさせたんだ、冴子がね。有賀はおれの常客だったし…そういうのって、すぐ周りには判っちゃうものだしさ。それに、元々あいつは隠そうなんて思ってなかったし。…平たく言えば、冴子が金で黙らせたんだ。有賀の事を」

「…」

「ヤツからは、それっきり何の連絡もなくなって。おれの中では、あいつとはこれで終わったと思ってた。冴子も何も言わなかったし。けどその後も…冴子はずっと有賀の動きを見張ってたんだ。きっと何度も金も渡して。二度とおれに関わらせないようにするためにね。なのに…結局、三人揃って再会するハメになっちゃった」

拓兄は、皮肉っぽく口元で笑う。

「…そうか、このみも会ったんだ。あいつに」

「う…うん。会った、と言っても並木先生の横でちょっと顔を見ただけだけど」

「三人で有賀に会いに行ったの？」

「そうだよ。私が、一緒に行きたいって言って付いて行ったの。先生も冴子さんも反対してくれたんだけど…」

「どうだった？あいつと会って」

「どうって？」

「有賀とだよ。初めてだったろ？実物見たの。どんなんだった？会った感想」

「感想、って…そんなの別に――」

「恐くなかった？」

「…恐い？」

「何もかも見透かされてる感じがしてさ。店でトラブルが起きた時だって、黙って相手の話を聞いてると思ったら、いきなりグーで殴りつけちゃったりとかするんだぜ。切れると別人。ケンカも強えーの。だけど、意外とスタッフのみんなに信頼されててさ。たぶん…冴子も、昔はあいつをそれなりに頼りにもしてたんだろうな。でも…おれは、初めて会った時からあいつの事が恐かった」

「…」

「恐くて恐くて…だから、ごまかすために酒飲んで。恐いんだったら会わなきゃいいのに。けど、ダメなの。会っちゃうんだな、これが何故だか。酔っぱらって…そういう怖さを麻痺させてでも有賀の所に行っちゃうんだよ。自分でも、どうにも出来ないの」

『拓は、決して幸せなんかじゃないと思うわ』

冴子さんの言葉を思い出す。

『今の拓の心にあるのは、もっと正反対の思い。恐怖とか…とてつもない無力感。力で尊厳を奪われ続けてきた人間が抱く、ごく当たり前の絶望感よ』

…

『私たちはそうやって彼の自律を奪って来たの。有賀と一緒にいる限り、彼にはそこから逃れようとか…誰かに助けを求めようとか…そもそも、自分の心の痛みさえ、自覚出来ずにいるんだと思う』

…

「冴子に拾われるまでの間は、自分でも何をしてたのかあんまり覚えていないんだ。とにかくCカードを取って…約束の海へ出かけて…ダイビングをする。それしか頭になかったし。有賀と会うのは恐かったけど…それも罰だと思いこんでた。今度こそ、智のために何かしたかったし、何かしてるって感じたかった。…ごめん。あんまり気分良くないよな、こんな話」

「ううん…」

私は…小さく頭を振った。

謝るのは私の方なのに。

お兄ちゃんが、一番触れられたくないと思う話を真っ先に振っちゃったんだから…。

私たちの知らない、拓兄の過去のこと。

今まで他の誰かから聴かされた事しかなかった話。

それをこうして、本人自身から聴かされるのは…

それも何の予告もなしに、こんなに簡単に話されてしまうのは、思ってた以上に重たく…辛い。

何か言葉を返してあげたいと思うけど、そんなの何にも浮かんで来なくて…

この四年間。

余りにも脳天気に過ごしてしまった自分自身に腹が立ったし、無性に申し訳ない様な…切ない気持ちで一杯になる。

浩平も…あの時は、こんな気持ちだったのかな…。

智兄ちゃんは、自分の両親の間が壊れてしまってるのを知りながら、それを一人で胸の奥にしまい込んで来た。

幸か不幸か、浩平は何にも知らなくて…

表面だけの普通の家族。形だけをぎりぎり何とか保って来たモノ。それが誰のお陰だったのか。四年もたって、やっとそれらを知った時。あいつは、子供みたいに大粒の涙をぽろぽろこぼした。

悔しくて。

ガラスのような日常を当たり前としか受け止めていなかった、そんな自分があまりに子供で幸せ過ぎて。

並木先生は…

私に電話で、何とか春まで拓兄には座間味に留まっていてほしいんだって話してくれた。

『約束通りにこの島で…あいつにクジラを見てもらいたいんだよ』

…そのためには、今はまだお兄ちゃんに東京に戻られたらダメなんだ、って。

いくらアシスタントとして雇われたと言っても、海にも潜らない、手伝いもしないんじゃ、本人じゃなくても何のために島にいるのか判らなくなってしまうだろう。

『だからね…だから、このみちゃんの力が必要なんだ』

いくらなんでも、私一人を島に残して東京に帰ったりはしないだろうし…

今は…精神的にも、少しは落ち着いてきているし…

同じ痛みを知ってる者同士、他人には話せないような話でも私には話せたりするかも知れないから、って先生は言う。

そんなコトで、ほんとに兄キの気持ちが救われるなら幾らだって力を貸したい。

智兄ちゃんの思いをどうしたら繋げて行けるのか。

答えなんて、すぐに出なくたって構わないから。

今はただ、前へ進めるきっかけだけでも…此所で掴んでもらえたら――。

冴子さんからは…何日か前に連絡があった。

拓兄を、もうしばらくの間並木先生に託したコト。

今までのコト。

そして…二人の――ううん。冴子さんのこれからのコト。

電話でではあったけど、ちゃんと伝えてくれたのが私にはとても嬉しくて…

最後まで、謝ってばかりだった冴子さん。

お兄ちゃんだけじゃなく、あの人にとっても辛い旅だったと思うのに。

有賀さんと対峙した時の厳しい横顔…。

心が壊れる程に苦しんだ拓兄と同じくらいに…ううん。きっとあの人は、それよりずうっと苦しんだ。

そして――兄キ自身も…今のまんまの自分では、あの人の傍にはいられない、って…

他の誰より切々と感じてるのに違いない。

…

小一時間の船の旅。

島に近づくにつれて、だんだんと海の青が強くなる。

飛行機の窓から見た時にも思ったけれど…テレビとか、写真でしか見られない、言葉通りの――“青い海”。

誰の、どんな思いさえ、包み込んでくれそうに澄んだ…青。

島に着くと、宮城さんが車で迎えに来てくれていた。

健康そうに日焼けした、人なつっこい笑顔のおじさんだ。そして、隣にいるのは並木先生。

「朋が張り切って食事の支度してるから、ひとまず帰って、腹ごしらえしようかね」

宮城さんの言葉にうなずいて、私たちは車へと乗り込んだ。

宮城さんの奥さんの朋子さんは、おめでたなんだって聴いていたけど、見た目にはまだまだお腹は目立ってなくて、元気よく、くるくる働いていた。

「いらっしゃい。こんにちは」

宮城さんとおんなじに、日焼けした元気な笑顔で迎えてくれる。

この人は、元は私たちとおんなじ内地の人だそうだけど…こうしていると、そんなの全然感じない。地元の人そのものだ。

並木先生と拓兄はまだしも、部外者の筈の私までお邪魔するコトになっちゃって、とんでもない迷惑だったかな…なんて思ってたのに、宮城さんと朋子さんの笑顔には、そういう気遣いをあっという間に吹き飛ばす不思議な力がこもってる…。

ものの何分もしないうちに、昔からの知り合いだったと錯覚してしまいそうになるくらい、私もすっかり打ち解けていた。

明日からは、いよいよ10月…。

東京では、少しずつ秋の気配を感じる夜もあったりしたけれど…ここではまだまだ、当然のように日中は暑い。

外では半袖のTシャツで十分だったし、何といっても日差しが強い。日焼けだって、当たり前のように出来ちゃいそうだ。

点々と並ぶ、赤い瓦の沖縄家屋。

ハリケーンばりの台風に備えてなのか、高い建物はあんまり見ない。

お母さんの田舎より…ずっとずっと小さな集落。鮮やかな色の花々と…濃い緑。

そんなものを眺めてるうち、少しずつ実感として湧いて来る。

都会にはない透明な風。

青い空を映した澄んだ海。白い雲。

この間…みんなで来た時とは、明らかに違った空気がここにはある…。

並木先生が、今はまだお兄ちゃんをここに留めたいと言った理由がその時判った。

時間の…流れ。

ここでは、その早さが違ってる。

何かをしなくちゃいけない、とか…

じっとしていちゃいけない、とか…

考えなくてもいいと思える。

私と話してる時の拓兄は、今までと何も変わってなくて…

並木先生が言っていた“小学生みたいな”感じでも、“まるで別人”でも全然なくて…

でも。それでも…何となく。

心許ない感じとか…理由のはっきりしない不安とか…あの拓兄からは、考えられない自信のなさとか…そんな雰囲気は伝わって来る。

心のガードがすっかり緩んで…自分に自信もなくなって…何を信じていいのかさえも判らなくって…

だから港にいた時みたいに、私が訊いたまま拒みもしないで、一番辛かった頃のコトさえもあんなに淡々と話したりしちゃう…。

もしも、此所じゃなかったら…。

都会のど真ん中だとしたら…。

立ち止まってる拓兄のコトなんか、誰も何にも思わずに…

本人自身も、心の奥に刻まれた痛みの辛さを自覚も出来ずに…日々を流されてしまうだろう。

此所で…よかった。

今の兄キのいる場所が、優しく時間の流れる場所で…ほんとによかった。

みんなで囲むお昼の食事。

なごやかな笑顔に囲まれながら、そんなことを私は思った。

…

昼下がり。

宮城さんと先生は海に出かけて…

朋子さんはお昼寝中で（妊婦さんって、すぐに眠たくなってしまうものらしい。）…

拓兄も気が付いたら姿が見えなくて…

時間つぶしに、辺りを散策しようと外へ出てみた。

すると。

宮城さんちのすぐ裏に、舗装も何もされてない細い道があるのに気が付いた。

生活道だとは思うけど…何処に繋がっているんだろう…。

枝分かれもない、ほぼまっすぐの…緩いなだらかな登り道。

これなら帰りを間違うコトもなさそうだ。惹かれるままに、ここを上ってみるコトにした。

ほんの何分か行くうちに、不意に視界がぽかりと開けた。

崖を登って、岬へ通じる道だったんだ。

「…わ…」

思わず小さく息を飲む。

視界一面パノラマの空。

眼下にはエメラルド色の海が広がって…足下は、ふわふわとした感触の草の絨毯。

遙か遠くに、水平線が見渡せる。行き交う船の小さな影。点々と続く珊瑚礁――。

飛行機から見た景色とは全然違う。

風が優しく頬を撫でて吹いて行く。流れる汗を瞬間忘れる。

思わず見とれて…その場にぼーっと立ちつくしていると、

「…何だよ、もう見つけちゃったのか」

右手のやや後ろ。

古ぼけたベンチに、拓兄が座ってた。

まさか人がいるなんて思ってなかった。びっくりして振り返る。

拓兄の手元には、火をつけたばかりのタバコの煙が上ってる。

「『見つけちゃった』…って何よ。中学生じゃあるまいし」

「タバコじゃなくて。この場所を、だよ。おれのお気に入りだったのに」

「えーっ。ここを独り占めしようなんて絶対にダメ！」

「他にも幾らでもあるよ。宮城さんちの裏からもう一本、別の道が出てただろ？あれを上れば隣の岬の突端に出るんだ」

「じゃあ、お兄ちゃんがそっちへ行けば？」

「お…。そーいうコトを言う」

「こんなにステキな景色、一人だけの目に留めておこうなんて犯罪だよ。決めた。私もここをお気に入りの場所にする」

…何ガキみたいなコト言ってんの。

言う代わりに兄キは、傍らに置いた携帯灰皿にタバコの灰を軽く落とした。

…久しぶりに見た、拓兄がタバコを吸ってる所。

横顔も、動作のひとつひとつも、前と変わってはいないけど…やっぱり何処か不安気に見える。

まるで小さな子供みたいに…心の中身がそっくりそのまま、何のガードもなしに伝わってくる。

「そっ、それにしても、本当にステキな所だね。…びっくりしちゃった」

「夜になると、空一面星の海だぜ」

「へーっ」

「ここで静かに飲む泡盛が、これまた最高なんだよな」

「並木先生も来るの？」

「たまにね」

「すごいねぇ。こんな風景、写真でしか見たコトなかったよ。座間味の海って、ほんっとにこんなに青いんだねぇ」

「水が澄んでるからね。空の色を映すんだ。曇りだと、もう少し青が薄くなる。明日からは10月だし、こんな夏の海色も少しずつ見納めになってくな」

「でも、まだまだ日差しはキツいよ」

「いや。もう夏は終わりだよ。日差しの強さが全然違う。風もずいぶん優しくなったし…」

「こんなに暑いのに？」

「そう」

拓兄は、そっとタバコを口元に寄せた。

「ずっと…夏だったらいいのにな。ここは南国なんだから。この島には、夏が一番似合う。…もっとも、秋の座間味も冬の座間味も、おれは全然知らないけどね…。ところで――そうそう。浩平はどうしてる？国体って、もうとっくに終わったんだろう？」

「何よ、お兄ちゃん、テレビ見てないの？100mとリレーで優勝したんだよ。200mでは、萩原君に追いつけなくて2位だったけど」

「…すごいじゃん」

「高校新で優勝だからね。結構新聞にも載ったんだけどな。…知らなかったんだ」

「あの頃は１日の大半を並木先生と海の上で過ごしていたからな。そっか…優勝出来たんだ。それじゃあ、これで一応引退か」

「10月からは、また海外に出るみたい」

ふわり…と風が吹き渡る。

「智が聞いたら…喜んだろうな。浩平だけじゃない。お前にしてもさ。あいつが聞いたら、きっとびっくりしたと思うよ」

「フリーズキールで働くってコト？」

「それだけじゃない。お前がわざわざ浩平と離れて暮らすっていう選択をしたコトも。大した進歩だよ」

「でも…これで本当にいいのかどうかは、全然私には判らないんだよ」

「いいんだよ。それでいいの」

「…そうなのかなぁ」

お兄ちゃんはうなずきながら、ふっと小さく煙を吐いた。

「智が逝って、四年が過ぎて。お前らが一番成長したな」

「私ね…」

「うん？」

「お菓子を作り始めたのもコーヒーを入れるのが好きになったのも、みんな、智兄ちゃんがいたからだったんだよね」

「そうだったな」

「智兄ちゃんに『おいしい』って言ってほしくて、一生懸命いろいろ覚えて。だから、智兄ちゃんがいなかったらフリーズキールで働くなんて考えてもなかっただろうし、誘ってももらえなかったと思うんだ」

「ああ」

「お兄ちゃんだって、智兄ちゃんが『ダイビングがしてみたい』って言ってたコトを思い出してなかったら…きっと此所にはいなかったと思うし、並木先生や宮城さんや朋子さんとも会えてなかったと思うんだよね」

「…」

「この綺麗な海にも、空にも…智兄ちゃんと出会えてなかったら、巡り会うコトもなかったかも知れない。そう思うとね――」

「おれ達が智の思いを繋いでるんじゃなく…智が、おれ達を繋いでくれてる…」

うん…と小さくうなずいた。

「浩平だって…おばちゃんだって…みんな、智兄ちゃんへの思いで繋がっている。浩平と離れて暮らすのを決めたのも…私の進歩とかじゃなくってね、感じたの。智兄ちゃんへの思いがあれば私たちは繋がって行ける。どんな所にいても、繋がっていられるって」

「…」

「…あ。でもね、今のは私の気持ちだよ。私が、ただそんな風に自分で自分を納得させてるってだけなんだから」

「判ってるよ」

お兄ちゃんはその時初めて…嬉しそうににっこり笑った。

「…そうか。そうだな。それで少し判ったよ」

「えっ？何が？」

「朋子さんが前におれに言ったコト。今まで…何だか漠然として、少しだけ見えたような気がしていたけれど…所詮…生きてる人間が出来る事なんて、たかが知れてるってコトだよな」

「…へっ？」

「何かをしようとするから苦しくなる。何かが出来る、何かをしようとするなんて、とてつもなくおこがましい事なんだ。だから…まぶいが此所にいる。ずっとおれ達の傍にいて…繋げるために。おれ達と、誰かを繋げるために」

お兄ちゃんは、くすりと笑った。

「おれが繋いでるんじゃない。智が…繋いでくれてるんだな」

「そう思うと…納得出来るモノがある…？」

「あるね。大いにあるよ。今まで散々無茶もやったし…心配かけて、海でだって、死んじゃったっておかしくない様な事もして。それでも先生は『お前はちゃんと彼の意思を繋いでる。彼は此所にいたかった。だからお前が此所にいるんだ』って言うんだけどさ。…よく、判らなかったんだ。こんなおれが此所にいる。なのに、智は何処にもいなくて…あいつは、紛れもなく此所にいたかったのに。魚も海もどうでもよかった、おれなんかよりずうっと此所にいたかったのに。なのに此所にいるだけで、おれが智の意思を繋いでるって…そんな安易なワケないだろう？って」

「…」

「智なら…もしも此所にあいつがいたら、きっと今でも…そうしただろうな。何しろあいつは…」

「…」

拓兄は、視線を遠くの水平線の方へと投げていた。吸いかけのタバコは、その存在をすっかり忘れられてしまったみたいに、ぼんやりと細い煙を上らせている。

「…帰ろうかな。東京に」

「…えっ？」

「安心しろよ。またすぐおれは島に戻るよ。ただ、母さんも安心させてあげたいし…祥子おばちゃんにも伝えたい言葉もあるし。智が…繋げた思いなら、形にしてあげなきゃって思ってさ」

思わず言葉を飲み込んだ。

だって…だって、それって――

「おれが此所にこうしてるのも繋がりだったら…“あの二人”を出会わせたのも繋がりだものな。あいつの時間は、まだ…止まってないのかも知れない」

「…お兄ちゃん…」

「死んだ人間のまぶいは、おれ達と一緒にいるんだって。ずっと一緒に。だから…こうしておれ達は、性懲りもなく掴まえようとするんだ。いつかは失くすものなのに」

「…」

両手のひらをそっと開いて…ゆっくり握る。力を込めて。まるで何かを確かめるみたいに。

拓兄は目を上げた。

「このみ」

「何…？」

「お前、ダイビングやってみたくない？」

「えっ？！」

「智が見たかった海の中。見てみたいと思わない？せっかくここまで来たんだしさ」

「でっ…でも私、一度もやったことないんだよっ！」

「宮城さんちのすぐ近くには、遠浅の浜があるんだよ。二時間も練習すれば、海の中を覘くくらい出来るようになる。教えてやるから」

「『教えてやる』って…お兄ちゃんが…？」

「ああ」

うなずいて…

その目は、楽しそうに笑ってる。

眼下に広がるエメラルド。吸い込まれそうに広い空。

「智紘が…あんなに来てみたがってた場所なんだから。きっとお前も好きになる」

「…」

…ダイビングは興味がないワケじゃなかったけれど…

そりゃあ智兄ちゃんが見たかった海の中…私も見たいって思うけど…

でも――本当に…？

それに、教えてくれる、って…お兄ちゃん、海はまだ…

思いっきりとまどっている、私の顔なんて見ていない。

ううん。見てるのかも知れないけど…もちろん、知らん顔したままで。

拓兄は、この上もなく気持ちよさそうに…深呼吸をひとつした。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　



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