隣には、さっきのリレーで息の合ったバトンパスを見せてくれた第二走者の、あの上品そうな顔立ちの（まっちゃん曰く）男のコが一緒だった。
「紹介するよ。ルームメートの萩原雅巳。でもって雅巳、こいつが・・・」
「この間は、クッキーごちそうさま」
にっこり笑って萩原君が私に言う。
紳士的、っていうのかな。
優しげな物言いは、浩平とは全然雰囲気が違う。
でも、スプリンターに不似合いなすんなりとしたスタイルは、どこくなく二人ともよく似てた。
練習が終わってすぐだから、2人とも陸上部のおそろいのウォームアップスーツに、上はトレーナーという格好だ。
「話はよく聞かされてるから、何か初対面っていう感じがしないね」
「雅巳っ！よけーな事言うな！」
「はっ・・・初めましてっ！」
私があいさつするより早く、隣から勢い込んで言ったのはまっちゃんだ。
「私、このみの友達で松山恵里、って言います！」
もー、まっちゃんってばっ！
思わず腕を突っついてやった。
彼氏がいるのに何やってんのよっ！
「昼飯まだだろ？」
浩平が訊く。
「うまいラーメン屋があるんだ。丁度駅行く途中にある店」
「え・・・でも、あんた時間は・・・」
「大丈夫。一時間もあれば、十分食って帰って来れる」
浩平は自信たっぷりに笑って見せた。
まっちゃんは萩原君と、私は浩平と、肩を並べて歩き始めた。
・・・
――
東京とは違って、さすがにこの辺は緑が多い。
歩道を歩く私たちの耳元で、サワサワと風がそよいでる。
初めて歩く街。
知らない通り。知らない人波。
なのに、浩平といる。ただそれだけで何だかすごく安心できる。
今会ったばかりの萩原君さえ、まるで前からの知り合いだったみたいに。
彼も、初対面っていう感じがしないね、って言っていたけど、それは私もおんなじだった。確かにどこかふんわりとした、柔らかい雰囲気の男のコだけどそれだけじゃない。何より彼が浩平の友達、だからだ。
「――で。どうしたんだよ」
浩平が言う。
「なっ・・・何が？」
「何が、じゃねーよ。突然こんなとこまで来るって事は何かあったからだろ」
「・・・何かがなきゃ、会いに来ちゃいけないの」
「何もなくって会いに行こうって思えるほど簡単じゃねーだろ、ここに来るのは」
「・・・」
黙ってしまった私を見やって、浩平は小さく息をつく。
「そんなに・・・ショックだったんだ？おれが、こっちに来いって言った事」
・・・それだけが理由じゃないんだけどね。
答える代わりに黙り込む。
「・・・悪かったよ。いきなり返事しろって方が無理だったかなって、実はちょっと考えてたんだ、こっちに帰ってきてから」
「・・・」
「まだ時間はあるし・・・すぐじゃなくていい。このみが納得行くまで考えればいいよ」
浩平は静かにそう言った。
――
何だか・・・
それは、すごく余裕のある声だと思った。
ここにいるのは浩平なのに・・・。
紛れもなく、私の知ってる浩平なのに。
こいつってば、いつからこんなに物わかりよくなっちゃったんだろ。
いつだって、自分を一番に主張して来たのがこいつだった。
智兄ちゃんに負けないようにって、精一杯にがんばって。突っ張って。
「そっ・・・そんなゆーちょーな事言ってたら、いつになるか判んないよ」
「仕方ないだろ。本人が納得もしないのに、無理矢理引っ張って来る訳いかないじゃん」
私は、そう言った浩平を見た。
・・・無理矢理ひっぱって、か。
そんなにしてまで私をここに連れて来たい訳？
自分の夢を叶えるんだもん、私なんかいなくったって・・・自分一人でがんばればいいじゃない。
「ねえ、浩平」
「何だよ」
「あんた・・・今でもこだわってる？智兄ちゃんの事」
「こだわるって？」
「だから、今でも智兄ちゃんに勝ちたいとか」
「・・・ばーか。いきなり何言い出すかと思ったら。４年も前の事じゃんか。ここにいもしない人間に、勝つも負けるもないだろーが」
あっさり言われて、ふてくされる。
すると今度は浩平が、何だか妙にぎこちなく、目線をはずしながら訊いて来た。
「・・・そういうお前はどうなんだよ」
「え・・・？」
「こっちに来る事。迷ってる理由は、智兄がいた場所から離れたくないから、なのか」
「・・・よく、わかんない」
「何だそれ。自分のコトだろ」
「そうだけど・・・ほんとにわかんないんだもん！」
――本当に。
最近は自分で自分が判らなくなる。
浩平とは一緒にいたい、でも、こっちに来いって言われた時には、素直にうん、とは言えなかった。
それは、智兄ちゃんのせいだけじゃない。その事だけは判るけど、その事だけしか判らない。
何に自分がこだわってるのか、何に自分が納得していないのか。肝心の事が判らない・・・。
「・・・三村さんに言われたの。一度行って見て来たらって」
「三村さんに・・・？」
「どうしていいか判らなかったんだもん。いきなりあんな風に言われてさ、あんたがこっちの大学に行きたいなんて言い出すなんて、私思っていなかったんだもん」
・・・そう。
そうだよ。
帰ってくるって信じてた。
陸上続けるだけだったら、東京でだって出来る事だもん。転校するって決めたのだって、ほんの力試しの筈だったんだ。
行ってみて・・・自分がどこまでやれるかを確かめてみたいだけだ、って。
拓兄キも、卒業したら家を出るって言っていた。
祥子おばちゃんも再婚を決めた。
・・・判ってるんだ。
私だけだ、って事。
いつまでもあの時のまま、動き出せずにいるなんてのは、もう私だけなんだ、って事。
・・・
浩平に訊くまでもない。
”こだわって”いるのは私の方だ。四年もたつのに、あんな形で逝ってしまった智兄ちゃんの思い出を、ふっ切れていないのは私の方だ・・・。
「智兄の・・・タバコの話が出た時さ」
浩平が言う。
「おれ達あいつの事、ほんとは何も知らなかったんじゃないかって思ったんだ。今でもそうだ。おふくろも拓さんも知っていた。でも誰も驚かない。あの智兄がタバコ。しかも、家でも吸ってるなんて、どう考えたって『知ってたわよ』の一言で片づけられる事じゃねーだろ」
「・・・」
「そういう意味じゃ、確かにおれはまだ、兄キのことにこだわっている。いや・・・こだわらなきゃけないような気がしてる。おふくろの奴、何か知ってると思うんだ。兄貴のこと」
私は驚いて浩平を見た。
「・・・どーいう事？」
「何かもっと・・・よくわからないけど、とにかくおれらがまだ知らない事をきっと知ってる。訊いてみたんだ。こないだ家に帰った時に」
――
『智紘の事知りたがってた。本当はどういうヤツだったんだって』
祥子おばちゃんの声を思い出す。
「おふくろ、びっくりしてた。どうして今更、ってカンジだったぜ。ムリもないけどな。四年もたつのに」
「私たちの知らないとこで、智兄ちゃん・・・ほんとは辛い思いしてたのかな・・・」
「さあな・・・。ただ、さ。このみ」
「うん？」
「おれはおれのやり方でお前のこと、守りたいって思ってるから」
ギクリ、と一瞬足が止まった。
「なっ！何よ、いきなり・・・」
「お前がどう思っているかは知らないけど、おれはおれのやり方でお前の事を守るから」
「・・・」
すく゛後ろにいたまっちゃんと萩原君が、ニヤニヤしながら聞こえないフリをして向こうを向いた。
丁度橋の上にさしかかったところ。
2人は欄干に駆け寄ると、流れる川をのぞき込んで何か楽しそうに話し始めた。
浩平は続けた。
「――だからさ」
「・・・」
「辛いかも知れないけど――智兄の思い出と、もう一度しっかり向き合ってみないか」
「・・・」
「おれ達・・・あの時は現実に耐えてるだけで精一杯で、ちゃんと智兄にさよならを伝えられなかった。だからさ、忘れるとかそういうんじゃない、もう一度、ちゃんとと智兄にさよなら、って――ありがとう、って伝えるんだよ。そうしなきゃおれ達、これからもずっとあいつの思い出に、縛られてるだけになっちまう」
「・・・」
「三村さん、ってさ・・・」
浩平は続けた。
「おれ達とおんなじ思いしてる人じゃん。突然誰かがいなくなるのも辛いけど、それと知っててその人と一緒にいるっていうのも、すっごく辛い事だったと思う。でもあの人は、おれ達みたいに思い出に縛られたりなんかしていない。何故だと思う・・・？」
「・・・」
「あの人は、ちゃんとさよならが言えたんだ。大切な人に別れを言って、その上で、思い出を大切にして暮らしてる。あんな風になれたらいいって思わないか」
「・・・」
「おれ、後悔してるんだ。もっと兄貴と色んな話しておきゃよかったって。仕事バカだった親父の事、それの上行くおふくろの事、ほんとはどう思ってたんだ、って。他にももっと色々・・・聞いときゃよかった。あいつもおれに話したいことが、もっとあったんじゃないか、って。なんでか判らないけど――今になって、すっごくそう思うんだよ」
「・・・」
「あの飛行機に乗っていたのは、おれだったってよかった筈だ。智兄がおれを生かしてくれた。だとしたら、おれはあいつの分まで出来ることをやるしかない。おれはおれの場所で、がんばるっきゃないんだよ」
・・・
『智兄がおれを生かしてくれた。』
・・・
優しかった智兄ちゃん・・・
大好きだった智兄ちゃん・・・
私の、憧れだった智兄ちゃん・・・
・・・
だから。
『もう一度ちゃんと智兄にさよなら、って――ありがとう、って伝えるんだよ。そうしなきゃおれ達、これからもずっと智兄の思い出にただ縛られてるだけになっちまう』
・・・
そうか・・・。
・・・そうだったんだ。
浩平ってば、そんなつもりで・・・。
私ってば、浩平は自分のためだけにがんばってるんだと思ってた。
自分のために・・・
自分の夢をかなえるために・・・
そのためだけにがんばってるんだと思ってた。
確かに・・・
智兄ちゃんはもういない。
けれど、すてきな優しい思い出を、たくさん私たちに残してくれた。
それなのに。
私ってばまだ、ありがとう、も・・・さよなら、も伝えていない。
自分のことで精一杯になっていたのは浩平じゃない、私の方だったんじゃない？
私は、浩平の顔を見た。
「浩平は・・・すごいね」
「は・・・？」
「智兄ちゃんの事・・・私、そんな風に考えたこと一度もなかった」
浩平は照れ臭そうに笑って見せた。
「そういうんじゃない。おれはただ・・・智兄に――」
「え・・・？」
言いかけて――
浩平は、いや、と口をつぐんだ。
「・・・別に。何でもねーよ。四年もたったんだ、そろそろ一区切りつけたくもなるじゃん」
「私は・・・」
「うん？」
「私は・・・どうしたらいいのかな」
我ながら、何て情けない事訊いてんだろ、ってその時思う。
「四年もたって・・・何かしなくちゃいけないのは判ってる。浩平も、お兄ちゃんもおばちゃんも、みんな自分の道を歩き出そうしてる。でも私には・・・」
「・・・」
「私には・・・何もないもの」
浩平は驚いたように私を見た。
「・・・何らしくねーコト言ってんだよ」
「誰のせいだと思ってんのよっ！あんたが急にこっちに残るなんて言うからじゃない！」
「じゃあ、おれが戻るって言ったら、お前にとって何か変わる事があんのかよ」
「え・・・？」
「お前はお前の場所で、おれはおれの場所で、自分なりにがんばれればいいんじゃないの？」
「・・・」
「いつでも一緒でなくても、気持ちが通じていれば何とかなるって」
・・・
『浩平にとってのライバルは智紘なの。これまでも。そしてたぶんこれからも、ね』
――
浩平は、智兄ちゃんの背中を追いかけている。
いつでも一緒にいた私たち。
浩平は・・・それを越えようとしてる。
一緒じゃなくても・・・
傍にいなくても・・・
お互いが何を考えて、何をしようとしてるのか、察し合う事は出来るんじゃないか。
見えないところでお互いの気持ちを、支える事は出来るんじゃないか・・・。
今はいない智兄ちゃんを、私たちが心の支えにしているように。
四年もたって・・・まだ、忘れられずにいるように。
・・・
「さっき・・・私のこと守る、って言ったよね」
「ああ」
「実際こんなに離れてるのに・・・どうやって守ってくれるのよ」
友貴君に抱きしめられた時の感覚が、不意に頭の片隅を駆けめぐる。
・・・恐かった。
男の子をあんな風に、恐いだなんて感じたこと今までなかった。
私は必死に浩平を見た。
「もしも、だよ。もしも私に何か起こったって、あんたがここにいる限り、守るって言ったってどーしようもないじゃない」
「そん時はこうして会いに来りゃいいじゃん」
「何言ってんのよ！すぐに、って距離じゃないって言ったのはあんたでしょ！」
安易な浩平の返事に、思わず声が大きくなった。
「すぐに・・・今すぐにでも会いたい時だってあるんだから！こういう時こそ傍にいてほしい、って思う時だってあるんだからねっ！」
「傍にいるよ」
「えっ？」
「おれは、いつでもお前の傍にいる」
――何言ってんの、と言いかける。
その時。
浩平は、不意に人差し指を、私の胸元に突きつけた。
「な・・・何よ」
「忘れたのか。三村さんの大切な人の言葉」
「・・・」
「最後に、三村さんの胸に手、当てて言ったんだろ。『僕はいつでも貴方の傍にいます』って。もう一生会えなくなる人間がそう言ってんだぞ。大切なのは、相手を想う気持ちだぞ、って」
「それは・・・！」
そうかもしれないけれど・・・
言いかけた言葉を思わず飲み込む。
私には自信ない。
三村さんと、三村さんの大切な人みたいに、ほんとに、何より大切に、自分が思われている、って自信が。
「少なくともおれは――お前がいるからがんばろう、って思ってるんだぞ」
「え・・・っ？」
浩平はちょっと慌てて、ごほん、と一つ咳払いをした。
「今度・・・帰ったらさ、智兄の部屋かたづけようかって思ってるんだ」
「どっ・・・どうして？！」
「おふくろも再婚するしさ、どっちの家に住むことになるか判らないけど・・・いつまでもあのままにしていても仕方ないだろ。新しい親父さんにも余計な気、遣わせちまうと思うし」
・・・部屋が・・・
あの部屋がなくなる。私たちと智兄ちゃんの思い出が詰まったあの部屋が。
「でも・・・そんな急に！」
「急じゃない。おふくろからは、時々相談されていたんだ。おれが決心できなかっただけだから」
「・・・」
返す言葉を探せない。
浩平は、そんな私の顔を見て言った。
「だから、さ。傍にいる、って言ってんじゃん」
・・・
確かに・・・
いつまでもこのままでいいとは思わない。何かのきっかけが必要なんだ。そしてその時がたぶん、今、なんだっていう事も。
浩平が一緒なら・・・
踏み出してみてもいいかも知れない。
智兄ちゃんを忘れる訳じゃない、いつまでも前に進めない自分をなんとかしたいだけ。
智兄ちゃんの思い出を、ただ辛い・・・苦しいだけのものにしたくないだけ。
「・・・判った」
つぶやくように小さく答えた。浩平はうん、とひとつうなずくと、
「・・・ちっと急ぐか。食べる時間なくなっちまう」
浩平は私の手をつかんだ。
いつの間に・・・
こんなに大きくなっちゃったんだろ、こいつの手。
いつの間に・・・
こんなにしっかりしたヤツになっちゃったんだろ、こいつってば。
「あ、ちょっと待ってよ！」
後ろから、まっちゃんの声が慌てたように追って来た。
・・・
・・・To Be Continued.
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