syncro3-1

「まだ・・・決まった訳じゃないのよ」
おばちゃんは、上がって、って言う代わりに、私と兄キの足元にスリッパを並べた。
「第一まだ、あちらのご両親に会わせてもらってもないんだもの」
「でも、その気でいるのは確かって事だ」
まっすぐにおばちゃんを見つめて兄キは言う。
「そんなまどろっこしい言い方しないで、はっきり言っちゃいなよ。『ええ、そうよ』って」
「・・・」
「再婚、するんでしょ」
問いつめる様な言い方に、私は驚いて兄キの顔を見た。

「拓君」
おばちゃんがさえぎった。兄キの口元に笑みが浮かぶ。
「どうして止めるのさ。まさか今更、隠しておきたいなんて思ってないよね」
「・・・」
「それとも・・・まだ気取っていたいワケ？こいつらの前では今まで通りに"優しいお隣のおばちゃん"でいたいワケ？」
「拓君・・・！」
おばちゃんが少し声を荒くした。兄キは続ける。
「智は、知っていたんだぜ。おじさんに女がいたって事」
・・・

「知ってて、ずっと黙ってた。誰にも言えず、ずっと一人で黙ってたんだ。あんただって、とっくに気づいていたんだろ。気づいてて、何も知らないふりをして、自分が傷つきたくない一心で、智に何もかも押しつけて」
「・・・」
「お兄ちゃん・・・」

・・・
一体、この人は何を言ってるの？
おじちゃんに、女の人がいた・・・？
おばちゃんは、それを知っていた・・・？
・・・

「何故だか判る？あいつが黙ってた理由。ずっと、あんたをかばって来た理由」
「・・・」
おばちゃんは、小さく一つ深呼吸した。
「とにかく・・・入って。ね」
お兄ちゃんは、動こうとはしなかった。
お兄ちゃんが中に入ってくれないと、私も中に入れない。
私の体に挟まって、玄関のドアは開いたままだ。
「あんたでも世間体を気にするんだ。それは、少しは自分がした事に、後ろめたさを感じてるから？」
おばちゃんの横顔が微かに震えた。
「あんたは智に何をした！？言ってやろうか、何もかも全部、今ここで！」
「お兄ちゃん・・・！」
いたたまれなくなって、私は兄キの体の隙間から強引に中に入り込んだ。
ドアが閉まった。
私は兄キと向かい会った。

「あんまりだよ、そんな言い方。こんな形でおばちゃんのコトを責めたって・・・」
何の解決にもならないよ――言おうとしたけど、無駄だった。
兄キは私の事なんか見ちゃいない。ただ一心に、おばちゃんの事を見据えてる。
「お兄ちゃん！」
「・・・いいのよ、このみちゃん」
おばちゃんが言った。
「拓君が・・・怒るのも無理ないの。私が・・・悪いの」
「・・・おばちゃん」
「ごめんね。黙ってるつもりはなかった。美佐ちゃんにも迷惑かけて・・・いつかは、智紘にも浩平にも、何もかも話さなきゃって思ってた。でも・・・あんな事になっちゃって
・・・」
「すっきりしたんじゃないのか」
「え・・・」
「智が死んで、おじさんも死んで、あんたにとっては全てを知ってる人間がいなくなって、ホッとしたのが本音じゃないのか」
「お兄ちゃんっ！」

・・・何て――
・・・何てひどい事を言うんだろ！
いくらなんでもあんまりだよ！

「自分の子供が亡くなって、そんな風に思う親がいる訳ないじゃない！」
「――どうだかね」
「・・・お兄ちゃん！」
「智が、おじさんに女がいる事を知ったのは六年生の時だ。家に・・・電話があったんだ」
「・・・」
「たまたま、浩平が熱を出して家にいて――智が一緒に留守番してた。まさか、子供がいるとは思ってもいなかったんだろう・・・相手は、それを悟って電話を切った。それだけだ。でも、それで十分だったんだ。智が、全てを感じるのには」
・・・

「あいつは、自分の一言で家族がばらばらになる事が判ってた。だから恐れた。小学六年生の子供がさ、たった一人で現実抱えて、必死になって自分を殺して、父親の不倫をかばって来たんだ。家族を守りたい一心で」
「・・・」
「あんたはとっくに知ってた筈だ。何度か担任に呼ばれた事があっただろ。智の様子がおかしい、って。何も気づいてなかった訳じゃないんだろ。なのにどうして、あいつに何も言ってやらなかったんだよ。たった一言ごめん、って――一自分も全てを知ってるんだ、お前は一人じゃないんだよ、って」
「言わなかったんじゃない・・・言えなかったのよ。・・・自分が・・・」
「・・・」
「自分が、どれだけ力のない存在か・・・それを思ったら言えなかった。私たちがあの子を追いつめている。何度も離婚しようと思ったし、届けも書いた。でも――！」
「ふざけんな」
兄キは、吐き捨てる様につぶやいた。

「・・・あいつは、何もかもを知っていて・・・兄キとして母親の分まで、何も知らない浩平を必死に守って・・・かばって来たんだ。・・・どうしてだよ？どうしてあいつが一人でそんな事・・・子供を守るのが親じゃないのか？！その上、あいつが死ななきゃならない理由なんて、何一つなかった筈なのに！」
――

智兄ちゃんの死は事故だった。
おじちゃんが・・・智兄ちゃんが・・・あの飛行機に乗ったのは、ただ単なる偶然で・・・
でも、それを、誰かのせいにしないではいられないお兄ちゃんの気持ちは判る。
だけど――。

・・・
「智紘が――」
おばちゃんが言った。
「智紘が、あなたに話したの？今までの事、全部・・・何もかも」
兄キは、まっすぐにおばちゃんを見た。
「ああ。事故に遭う二日前にね」
おばちゃんの頬が青ざめる。
「拓君・・・」
「あいつは全部話してくれたぜ。ほんとは親父がどれだけ憎いか、仕事の事しか頭にない、無能なおふくろがどれだけ憎いか」
「嘘！嘘だよ！そんな事！」
思わず、私、言っていた。
だって・・・
だって――智兄ちゃん、あんなに優しかったじゃない！
あんなにいつも・・・
一生懸命・・・
浩平の事も、私の事も、大切にしてくれたじゃない！

「あの事故で、あんたにとっては邪魔者は消え・・・やっと、自分を見つめてくれる相手と一緒になれる、そう思ったとこかも知れないけれど・・・おれは、認めないからな。智がいたら・・・もしも、あいつが生きてたら、絶対そう言ったに決まってる。あいつ一人に、あんなに辛い思いをさせて、その上で自分だけ幸せになろうだなんて、おれは絶対認めないからなっ！」
――

頭の奥が・・・ずきずき疼いた。
嘘だ――
嘘だよ・・・。

おんなじ言葉が、何度も何度も浮かんで消える。
智兄ちゃんが、おばちゃんの事を憎んでた・・・。
智兄ちゃんはおばちゃんのために・・・
家族のために・・・一生懸命自分を殺して――

ふわっ、と一瞬足元が揺れた。
「このみちゃん！」
おばちゃんの声が鋭く聞こえる。
「・・・だ、大丈夫」
立ちくらみみたいだ。
思わずその場にしゃがみ込む。
おばちゃんが、心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
・・・
優しい声。
私の憧れの祥子おばちゃん。
でも、この人が・・・そんな事・・・
愛人――
不倫――
この人は・・・全てを知っていて――
智兄ちゃんに、そんな思いをさせてたなんて・・・

「確かに――」
おばちゃんは、私をダイニングの床の上に坐らせながら言った。
「・・・智紘には本当に、悪いことをしたと思ってる。・・・何もかも、決して許される事じゃないのも判ってる。・・・でもね」
兄キは、冷ややかな目で、そんなおばちゃんを見下ろしている。
その視線を真っ正面から受け止めて、おばちゃんは応える様に目を上げた。
「あなたがそれに巻き込まれちゃいけない。あなたは、あなたの時間をこんな事で無駄にしてちゃいけないの」
「こんな事？」
兄キの目元がぴくり、と震えた。
「智が、どんな気持ちでおれに話をしたと思う？何よりも信じていた自分の家族が、ここまでバラバラなんだって、どんな思いでうち明けたと思う？！」
「・・・拓君」
「おれは・・・何もしてやれなかった」
「・・・」
「・・・智を、助けてあげられなかった」
「聞いて。それは違う――」
「そういう意味じゃ、おれもあんたも同罪なんだよ！近くにいたのに！おれ達、こんなに近くにいたのに・・・誰も――何も――あいつにしてあげられなかったじゃないかっ！」
「・・・」

何かをしてあげたいと思っても、智兄ちゃんはもういない。
思いを伝えたいと思っても、もう会えない。
その後悔が・・・
どうしようもない哀しさや・・・
悔しさや・・・
そして、やりきれなさに・・・
突き動かされて、兄キは言葉を叩きつける。
四年もたつのに・・・。
私たち、まだこんなにも智兄ちゃんを想ってる。
・・・

何も判っていなかった。
全てを打ち明けられた兄キはまだしも、私や浩平は、何も知らされてはいなかった。
智兄ちゃんは、どうして兄キに話したんだろう。
何かをしてほしかったから？一番の友達だったから？
誰かに助けてほしかったから？
・・・
智兄ちゃんは、本当は、この家に生まれた事を後悔してたの・・・？

兄キと一緒の智兄ちゃんは、いつもにこにこ笑ってた。
そんな過去があったなんて全然信じられないくらい、とっても楽しそうだった。
智兄ちゃんが生きてたら・・・
今の兄キの言葉を何て・・・
どんな顔して受け止めただろう。
・・・

『おれ、後悔してるんだ。・・・もっと兄キと色んな話しておきゃよかったって。なんでか判らないけど、今になってすっごくそう思うんだよ』

浩平の声が頭の中にこだまする。

『あの飛行機に乗っていたのはおれだったってよかった筈だ。智兄がおれを生かしてくれた。だとしたら、おれはあいつの分まで出来ることを精一杯やるしかない。おれはおれの場所でがんばるっきゃないんだよ』
・・・

後悔、してる。
悔やんでる。
もっともっと、智兄ちゃんと色んな話をしておけばよかった。
みんな・・・今でも、おんなじ思いでここにいる。
でも、それは叶わない。
智兄ちゃんはもういない。どこに行こうが会える訳ない。だとしたら。
・・・

『おれはおれの場所でがんばるっきゃないんだよ』

・・・
智兄ちゃんがくれたたくさんの思い出。
すてきな、優しい思い出たちに応えるために、自分に出来る事をするしかない。
過去に何があったんだとしても、私が知ってる智兄ちゃんはいつも優しかったから・・・私は私の智兄ちゃんを、思い出として大切にしたい。

――
「拓君」
おばちゃんが言った。
「ひとつだけ、言わせて」
「・・・」
「あなたは、あの子にとって一番大切な友達だったの」
「・・・」
「私はいいの。何を言われても当然だって判ってる。でも、あなたは・・・あなたまでが一緒になって、そんな風に感じる事は何にもないの。智紘があなたに望んだ事は、そういう事ではない筈よ」
「そんな事が、どうして判る」
「・・・」
「あいつがおれに何を望んでいたかなんて、どうしてあんたに判るんだよ。だったら、どうしてあいつを助けてやらなかったんだよ」
「・・・拓君」
「あいつが何を望んでいたか判ってたんなら、どうしてあんたはそうしなかったんだよ！あいつは・・・智は――あんたのために・・・」
「・・・」
「他の誰でもない、あんたのために――」

・・・
最後の一言を、兄キは苦しそうに飲み込んだ。
そのまま、冷ややかにおばちゃんの脇をすり抜けると、私の前にしゃがみ込む。
「・・・立てるか、このみ」
私にかけるその声は、いつもと何も変わらない。
けれど。
雑誌の表紙を飾った紘子の時も・・・
No.１ホストとして涼しい顔して、おばさま達の相手をしている時も・・・
この人の心の中は自分への、やりきれない思いで一杯だったんだ。

『おれは・・・何もしてやれなかった』
・・・
『智を・・・助けてあげられなかった』
・・・

差し伸べてくれた手に掴まって立ち上がる。
その時少しくらりとしたけど、じきおさまった。こんなとこで貧血なんて、いくらショックだったとは言え、我ながらかなり情けない。
私は、おばちゃんを振り返った。
・・・何か・・・声をかけてあげたい。
けれど、うまい言葉が見つからない。
おばちゃんの過去。
兄キは私に『お前は浩平の代わりだ』って言ったけど、私はあいつじゃないし、これを知った時の浩平の事は想像出来ない。
兄キが私をここに連れてきたのは、おばちゃんに対するプレッシャーだったんだ。
一番知られたくない過去を、一番知られたくない人に知らせる事。
自分のした事がどんなにひどい事だったのか、言葉以上に思い知らせるために。
・・・

――
「・・・気になるんなら、行ってやってもいいんだぞ。おばちゃんとこに」
浩平んちを出たところ。
マンションの廊下で兄キは言った。
「別に『二度とおばちゃんと口きくな』なんて、強制するつもりは全然ないから」
「当ったり前じゃない！ケーベツするよ！もしもお兄ちゃんがそんなコト言ったりしたら！」
私は力一杯兄キを睨んだ。

「こんな風に――こんな形でおばちゃんのコト傷つけたって、何にもならないじゃない！」
「・・・よく言うよ」
兄キは、煙草を取り出して火をつけた。
「・・・傷ついたのはこっちの方だ。この期に及んで再婚だなんて言い出しやがって。何のために、あいつが一人でがんばったと思ってんだよ」
まだ気持ちが高ぶっているんだろう。
この人にしては珍しく、荒々しくひとつ煙を吸い込む。
「・・・でも――智兄ちゃんはきっとおばちゃんに、幸せになってほしいって思ってたと思うよ」
「『思う』で言うな、っつったろ」
「・・・」
「あの人は全てを知っていた。なのに何もしなかった。あの智紘が、五年も言い出せずにいたコトをおれにうち明けた理由は何だと思う？あいつが何の期待もなしに、他人に自分の心の中を見せたりするか」
「でも、お兄ちゃんは見せてくれたじゃない」
「・・・は？」
「冴子さんと別れるかもって時。私に何の期待もしないで、話聞かせてくれたじゃない！」
「・・・」
「私だってあるよ、そういう時。誰かにただ心の内を聞いてほしいだけっていう時。何の答えも求めていない、ただ聞いてほしいだけって時！」
兄キは、ふと答えに詰まる。

「お兄ちゃんに話したって、どうにも出来ないってコトくらい、きっと智兄ちゃんも判ってた。きっと誰より判ってた。だから・・・お兄ちゃんに話したんじゃないの？他の誰でもない、お兄ちゃんに聞いてほしかったんじゃないの？」
「・・・」
「まさか二日後にあんなコトになるなんて、思ってもいなかったから・・・お兄ちゃんの心の中に、こんな形で自分の想いが遺ってしまうなんてコト、全然思ってもいなかったから、だから――」
「うるさい」
兄キは、私の言葉を遮った。そのまま小さく煙を吐き出す。

「・・・お前、おばちゃんのコトもいいけどさ。浩平のヤツは、まだ何にも知らないんだぜ」
・・・
そうだった。
その一言に、はっとする。
「おれは浩平に言う気はないよ。こんな事、仮に知ったっていいコトなんか何もないし。あいつにとっての智紘は、一番の大きなライバルだった。それで十分だと思ってるし」
「・・・」
「自分の兄キが、自分なんかの知らないとこでこんなにでっかいもの背負って闘ってたなんて・・・あいつが聞いたら、きっとショックだと思うしさ」
・・・

それは――
確かにそうだと思った。
智兄ちゃんが今の自分を生かしてくれた。だとしたら・・・自分は自分の場所でがんばるしかない――。
それが智兄ちゃんに、せめて伝える事の出来る感謝の気持ちだ、って浩平は言った。
それは、浩平なりに智兄ちゃんの大きさを受け止めて・・・
向き合って、生きていこうって決めたからだと思うけど、でもそれ以上に智兄ちゃんは、重たい現実を抱えていた。
たった一人で・・・
一人っきりで。

あいつに秘密を持つなんて、何だかとってもイヤだったけど・・・
せめて・・・
インターハイが終わるまで。
私も浩平にはこんなコト言えない。
絶対――言えない。
そう思った。

「・・・お兄ちゃん」
気持ちを整理しているのかな・・・。
遠い目をして、煙草をくゆらす兄キを見た。
「苦しく・・・ないの？こんな風に、智兄ちゃんの想いに縛られて」
「縛られて・・・？」
兄キは、何を突然、って顔で笑って見せる。
「上等じゃん。智の為なら――智の分まで。それしか、おれにはもう出来ないし」
「でも・・・智兄ちゃんは――」
――そんなコトをお兄ちゃんに望んでいたとは思えない。

私は・・・
ううん。私だったら。

大切な人には、いつも笑っていてほしい。
祥子おばちゃんも拓兄キも、きっと智兄ちゃんにとっては誰よりも大切な人達だったのに決まってる。
その二人がお互いに傷つけあってるとこなんか、絶対見たくないと思う。
過去は過去。
そう思ったから智兄ちゃんは・・・

「何泣きそうな顔してんだよ」
兄キが言った。
「・・・浩平は、おばちゃんが再婚するってコト、まんざらイヤでもなさそうだったよ・・・」
「ああそう」
「・・・ああそう、って――」
「どうするか、最後に決めるのは本人達だろ」
「・・・お兄ちゃん」
「おれは、おれの思ったコトをおばちゃんに伝えるだけだから」
毅然と言い切る兄キの顔に、返す言葉が見つからない。
どうしていいか判らないまま――私は黙ってそこにいた。

・・・To Be Continued.

　　　　　　