syncro3-2

耳元で風が鳴っていた。
今まで何度も感じて来た筈のこの感じ。
でも・・・違う。
何かがいつもと違ってる。
壁をひとつ突き破ったような、何とも言えない開放感。でも、その片隅に僅かに感じるズレの様なぎこちなさ。

ゴールして、息を弾ませながら電光掲示板を振り返った。
それは、他のみんなもおんなじだ。
浅岡さんは、隣の監督と目線を交わして微笑んだ。
10秒40。
電光掲示板の表示が出た。
微かに周りがどよめいた。
「やったな、森山」
監督が言った。
「高校新だ」
「すごい！すごいよ！森山君！」
雅巳も珍しく興奮していた。

インターハイまで、あと三週間。
タイムアタックでの出来事だった。
他校の目を完全にシャットアウトするための屋内練習場。
向かい風のない事が幸いしたのかも知れない。
・・・だとしても。
今の走りで高校新なんていうとんでもない記録が出るなんて、全然考えてもいなかった。
ちょっと違う・・・。
そんな気がした。

「どした？鳩が豆鉄砲食らったような顔をして」
浅岡さんが、いつもの調子でのんびり言った。
「判っただろう、自分でも。これは記録が出たな、って」
「いや・・・ただ・・・」
「・・・ただ？」
「何かがいつもと違ってた。こう・・・何て言うか、壁ひとつ突き破って向こうに抜けたっていうような・・・でも――」
「気分、良かったろ？」
「あ・・・いや、まあ」
監督の目も笑っていた。
「インターハイまであと三週間ある。あんまりここで飛ばすなよ」
リレーに出場する選手だけの最終調整。
バトンパスのタイミングもほぼ完成した。
浅岡さんの思惑通り、誰がどの走順でもこれなら大体行けると思う。
本番での順番は、当日会場で発表される事になっていた。しつこい位の念の入れようだ。

「よし。今日の練習はこれで終わる。各自丁寧にストレッチしておけよ」
監督が言って、浅岡さんと2人で出口に向かった。みんなはそれぞれの場所でストレッチングを始める。
「森山君、おめでとう」
雅巳が笑顔を見せた。相変わらずの力が抜けるような平和な顔して。
「おめでとう、って・・・練習中の記録だぜ」
「でも、記録には変わりないじゃない」
「・・・」
「どうしたのさ。冴えない顔して。もしもこれが公開練習だったら、明日の新聞に載ってたんだよ」
「カンケーねーよ」
「え・・・？」
「おれは別に、記録を出すために走ってる訳じゃないし」
「・・・」
「出したくて出した記録じゃないし・・・これが自分の目標だった訳でもない。インターハイで勝たなきゃイミねーし・・・。なあ、雅巳。もうひとっ走りつきあえ」
「森山君・・・」
「何かしっくり来ないんだよ。記録だけがついて来たって感じで気持ちわりーんだ。あと10分・・・いや、5分でいいからさ」
「・・・でもさ、監督も言ってたじゃない。インターハイまでもう少しなんだよ。ここであんまりがんばっちゃうと・・・」
「だから、5分でいいって言ってんじゃん！やなんだよ！こんなんで高校タイなんて！」

「何わがまま言ってんの」
後ろから、榎本千晶の声がした。
「納得行かなくて当たり前でしょ。あれだけの記録出したんだもの。何もかも計算ずくだったら、そっちの方が『気持ちわりー』わよ」
「お前には――」
「カンケーない？残念でした。大ありよ。選手のコンディションくらい把握しておかなくちゃ。監督からも頼まれてるし」
「は？」
「森山君の筋力に対して、十分な量の負荷は今日は既にかけました、って言ってんの。必要ないのよ、これ以上の練習は。寧ろ逆に過負荷になって、疲れをためる一方よ」
「・・・って、言って来いって監督に言われたんだろ」
「違う！」
千晶は、きっとした目でおれを見た。
「馬鹿にしないで！これでも相模高陸上部のマネージャーなんだから！」

おれは、うんざりして横を向く。
「わかった。おれ一人で行く」
「何処へ？」
「外。ひとっ走りして来る」
「森山君！」
「理屈じゃねーんだよ！」
「・・・」
「おれの気持ちの問題なんだ。今日の走りはおれには納得が行かなかった。確かに何か、いつもと違う感じはしたけど、こんなんで終わりにしたくねーんだよ！」
「だったら、明日にすればいいじゃない」
「やだ」
「・・・」
雅巳がおれと千尋を見比べる。
「付き合うよ」
「いいんだぜ、雅巳。無理しなくったって」
「無理じゃないよ。僕も行く」

ひとしきり、おれが男の友情を実感した時だった。
「待って」
しつこく千晶が呼び止めた。
「萩原君はここにいて。私が行く」
「はあ？！」
「萩原君まで意味のない練習に巻き込むわけ行かないもの」
「・・・だからこれは練習じゃねーって」
「走るんでしょ。だったら同じよ」
・・・

その時判った。おれがこの女を嫌いな理由。
こいつは、おれっていう人間を見てるんじゃない。おれの走りを見てるんだ。
スカウト達が、おれを見る目とおんなじだ。
こいつは、おれの走りそのものを”管理”しようとしてる。
・・・

おれは黙って背中を向けた。
高校新でも何でもいい。
三週間後のインターハイに、これなら、って自分が納得出来る走りがしたい。そのためにおれはここに来たんだ。
これなら・・・
智兄に見せても恥ずかしくない、そういう走りがしたくてここに来たんだ。
おれを追いかけようとした雅巳のコトを千晶が止めているのが判る。かまわずおれは、専用トラックに向けて走り出た。

照明に照らされている100m先のゴールを見据えた。
頬に当たる風が気持ちいい。走るんならやっぱり外だ。そう思った。
風や空気や太陽や、そして今みたいな夕暮れの気配とか・・・
そういうのを感じて走るのがいい。
周りじゅうから、これから全力を出して走るためのエネルギーをもらえるような気がする。

・・・そうか。
さっき、自分がいつになく速く走れた筈なのに、何かしっくり来なかった理由はそれだったんだ。
外じゃないから・・・耳元で鳴っている風も、いつもとどこか違ってた。
ここなら行ける。
インターハイが外でよかった。
・・・

そんな、どーでもいい事を考えながら、スタートラインに指をつく。
心臓の鼓動がゆっくりとアイドリングを始めるのが判る。
スターティングブロックに両足を乗せる、その瞬間。まわりから全ての音が消え去った。
呼吸を止めて、前を見る。
自分の行く先を。・・・それだけを――ただ、まっすぐに。

頭の片隅でビストルが鳴った。
走った。
何も考えず、ただ走った。
両足が思いっきり土を蹴る。耳元を風がかすめてく。
そうだ・・・
そうだよ。この感触だ。
ゴールして、息を吐き出した。
自分であって自分でない。
ほんとに集中して走っていると、そんな感覚になる事がある。ランナーズハイっていうんだって浅岡さんが言っていた。

「納得した？」
千晶が、そこに立っていた。
「タイム、とっておいたけど。手動でだけどね」
「だから、いらないって言っただろ。・・・しつこいよ、お前」
「・・・」
千晶は、じっとおれを見た。
「森山君って・・・やっぱ変わってる」
「何が」
「スプリンターで、記録にこだわらない人なんて初めて」
「ああ・・・そう」
おれはスタートラインに向かって歩いた。
千晶は、小走りにおれの後を追ってきた。頭の上のポニーテールが小さく揺れる。
「言ったでしょ。監督に頼まれてるの。森山君を見張っておくようにって」
「・・・何だ、そりゃ」
「あなたが、うちの秘密兵器だからよ」
「・・・秘密兵器？！」
「そう。怪我なんかされちゃ大変だし、大会までは他校に知られても困るのよ、森山君の存在を」
「よく言うぜ。もうさんざんここでの練習見られてるじゃんか」
「最後の仕上がりは見せてないでしょ？」
確かに、ここ五日間はずっと練習は室内だった。それには、そういう意味があったのか。

「インターハイが終わったら、どうするの？」
「どうする、って？」
「次の目標。何か考えてる？」
「・・・」
「監督達は、春休みにヨーロッパのサーキットをまわらせるつもりでいるみたいよ」
「ヨーロッパ？」
「そのために特例枠の推薦を取り付けたんじゃない。あなたと萩原君は」
「・・・って、おれ達が行くのか？外国に」
「当然でしょ。国内に相手がいないんだもの、外に出るしかないじゃない」
・・・
いとも簡単に千晶は言う。
「たぶん、半年くらい帰って来れないと思うけど」
「・・・何でお前がそんな事まで知ってんだよ」
「6年もここにいれば判るわよ。毎年の事だもの」
「・・・」
「どう？少しは不安になった？」
「は？」
「彼女の事」
おれは、うんざりとため息をついた。

「・・・お前なー」
「たった半年離れただけで不安になって会いに来ちゃうくらいだもん、同じ半年とはいえ海外、それもヨーロッパ遠征じゃ不安だよね、このみちゃん」
「不安になっちゃいけないのか。半年離れて、淋しくなって、会いに来ちゃいけないのかよ」
「・・・」
「お前には関係ないだろ」

――その瞬間。
千晶の顔色が変わった。
「関係あるって言ってるじゃない！」
真剣な顔で千晶は言った。
「私だったら、そんな事で森山君に余計な神経使わせたりしない！大事な試合前に練習の邪魔したりしない！どうしてそんなに簡単に、関係ないなんて言い切るの？！」
「お前が好きなのはおれじゃない、記録を狙える、記録を残せる、そういう走りをするおれだろ」
「・・・」
「おれには、そういうの無理だから」
「だったらどうしてここに来たのよ！」
千晶の目が、真っ正面からおれを見た。
「速くなるために、ここに来たんじゃなかったの？！」
・・・

それだけじゃない！おれは・・・

言いかけた言葉を飲み込んだ。
こんな事、こいつに話したって仕方ない。
千晶は、まばたきもせずにおれの事を見つめている。
「彼女のため？彼女のために勝ちたいの？！」
「ばーか」
「・・・見損なってた。森山君の事」
「勝手に思いこんでんじゃねーよ！そんな事でわざわざこんなとこまで来るヤツがいるか！」
「力になりたいの！一緒に行こうよ！行けるとこまで」

千晶の真剣さに思わず一瞬たじろいだ。
「私は、森山君の力を知ってるつもりだよ。ここにいた、どの先輩とも違うあなたの力を」
「・・・」
「遠くに行きたくないの？もっともっと遠くまで」
・・・

『もっともっと遠くまで』
・・・

千晶の言ったその一言が、何故かくっきり頭に残る。
行きたい。
行ってみたい。
自分の力で、行けるとこまで行ってみたい。

夕陽を受けて、千晶の大きな瞳がキラキラ光った。
「・・・お前さあ、どうでもいいけど買いかぶりすぎなんだよ、おれの事。どこまで行けるか知らないけど、失敗してもおれのせいで傷ついた、なんて言うなよな」
千晶は、ぷっ、と吹き出した。
「意外！強気なコト言っといて、失敗するかもなんて考えるんだ」
「あったり前だろ！雅巳はまだしも、どうしておれにそこまで期待するのか、お前も監督も全っ然ワケわかんねー」
「10秒40なんて、とんでもない記録出しといて？」
「だからあれは・・・」
「はいはい。『何か違う』んでしたっけ」
おれは憮然と口を閉ざした。

「――でも」
千晶が言った。
「さっきの言葉、森山君流の優しさなんだって受け取っとくね。私を傷つけないように気遣ってくれたんだ、って」
・・・何言ってんだか。この女。
「もしも、森山君がスプリンターとして大成しなかったとしても・・・たぶん私は、森山君の事見捨てたりなんかしないと思うよ」

おれは、千晶の顔を見直さないではいられなかった。
・・・こいつ、どーいうつもりでこーいう事を言うんだろ。

「何よ。『鳩が豆鉄砲食らったような顔して』」
「誰が鳩だっ！」
「どうするの、まだ走る気？体冷えちゃったんじゃない？」
「・・・」
千晶の言うとおりだった。
辺りはすっかり夕闇に包まれて、風も冷たくなって来た。せっかく暖まってた体も少し堅くなり始めてる。この状態でダッシュするのは確かに危険かもしれなかった。・・・もっとも、インターハイが近くなかったら、構わず走っていたと思うけど。
「・・・お前、最初っからこーなる事を狙ってたろ」
「当然でしょ。さあさあ、帰ろ。反省会に遅れちゃう」
千晶は素早くおれの腕に、自分の腕を絡ませた。
「わっ！なっ・・・何すんだよ！」
「照れない照れない。このみちゃんとはこうやって歩いているんでしょ」
強引に引っ張られて、そのまま校舎に向かって歩き出す。

・・・
『僕、彼女は森山君の事が好きなんじゃないかって思ってた』
・・・

雅巳の声を思い出す。
おれは、慌てて千晶の腕を振り払った。
「あら・・・？キスは許してくれたのに、腕組んで歩くのは駄目なんだ」
「誰も許してなんかないっ！」
思わず怒鳴った。
「おれにとってのお前は、あくまでも相模高陸上部のマネージャーだ。それ以外の何でもない！紛らわしい真似すんな！」
「・・・わかってるわよ、そんな事」
「お前の事好きなヤツがもし見たら・・・傷つくじゃんか」
「えっ？」
「もしも、だよ！もしもそういうヤツがいたら！」
「カンケーないわよ。私の好きな人は今ここにいるんだもん」
「そうじゃなくって・・・！」
「じゃあ何なのよ。私の気持ちは決まってるの」

・・・やぶへびだった。
それでも、千晶の腕をふりほどく事には、何とか成功したらしい。
部室では、既に反省会が始まっていた。

千晶に続いておれが入ると、微かにみんなの空気が変わった。
『彼女、けっこうモテるんだよ。先輩とかも、何人もアタックしてて・・・』
・・・
雅巳の言葉は本当らしい。

「どうした？」
監督が訊いた。
「どうしても外で走りたくなって――」
隠したって仕方ない。ありのままを言う事にした。
「勝手な事すんなって、マネージャ－に怒られてきました」
みんなが笑った。
「その通りだな。大事な大会が近いんだ。無理は厳禁だぞ」
「はい。すみませんでした」
殊勝に答えて、雅巳の隣のイスに坐った。

「ごめん、森山君」
「・・・何でお前が謝るワケ？」
「一緒に行ってあげられなかったから・・・」
「仕方ねーよ。お前にとっては相手が悪い」
雅巳は真っ赤になった。
「・・・でも、彼女、森山君の事が心配なんだね」
「・・・迷惑なんだの間違いだろ」
「違うよ。絶対・・・そんなんじゃないよ」
「雅巳」
「え？」
「お前、榎本に告白しろ」
「ええっ！」
「おれが・・・おれも一緒に行ってやるから、思い切って告白しろ。いいな」
「そっ・・・そんな事いきなり言われても・・・」
「森山、萩原！」
監督の声が飛んできた。慌てておれ達は正面を向いて姿勢を正した。
・・・

・・・To Be Continued.

　　　　