syncro3-3

授業が終わって。
陸上部の部室に向かう途中で浅岡さんに呼び止められた。
・・・この人が、学校の中をウロウロしてるコト自体、普通はあんまりないコトなんだけど。
浅岡さんはまさに今、職員室から出てきた所、って感じでドアを閉めたとこだった。
「お。丁度よかった」
そう言ってにっこり笑う。
「お前とちょっと話したかったんだよ」
「・・・でも、おれもう練習行かないと」
「いやいや。時間はそんなに取らせないから」
そんな風に言いつつも、浅岡さんは珍しく言葉を選んでる。

「・・・お前、さ。『おれは別に、記録を出すために走ってる訳じゃない』って言ったんだって？」
「え・・・？」
「昨日のさ、ほら。100の高校新出した時」
「ああ・・・」
言われて初めて思い出した。
そういえばそんなコトを言ったっけかな、あんまりみんなが記録記録って言うもんだから。
「ちょっと、どういうつもりでそんなコト言ったのかなって思ってさ」
おれは、浅岡さんを見た。
「・・・どういうって――」
「いや・・・その、さ。気にしてるみたいなんだよ。萩原が。お前の、その言葉の意味を」
「・・・雅巳が？」
「自分でも、そう簡単には出せない記録を出されてさ。おまけにその記録を『カンケーない』と言われちゃさ。ちょっしたカルチャーショックくらい受けたって、不思議じゃないだろ・・・？」
「・・・」
――

『おれは別に、記録を出すために走ってる訳じゃないし』
『出したくて出した記録じゃないし・・・これが自分の目標だった訳でもない』
・・・

そうか・・・。
そうだ、おれってば・・・。

その時初めて思い出した。
雅巳は、前回の高校新を出したランナーだったんだってコトを。
あの、のほほんとした雰囲気にすっかりそんなコト忘れてた。
それにあいつ・・・
あの後だって、まるで何にもなかったみたいに――
いつもと全然同じにしてたから――

おれの顔色が変わるのに、浅岡さんはすぐ気がついた。
「いや・・・あのな、森山。俺がお前に訊きたいのは萩原のコトじゃない。お前自身のコトなんだよ」
浅岡さんは、ちょっとだけ真剣な声でそう言った。

――
職員室前の面談室に、おれと浅岡さんは斜めに向き合って座った。
窓からは、夏の日差しが差し込んで来る。
浅岡さんは窓辺のブラインドを半分下ろした。
「・・・お前が早く走りたい理由ってなんだ？」
「えっ？」
「早く走りたい理由だよ。例えば、どうしても勝ちたいヤツがいるとか、走るのだけは誰にも負けたくない、とか。ないのか？何か」
「・・・そんなコト、いきなり訊かれても・・・」
「ランナーにとって・・・というより、アスリートにとって、というべきかな。この場合」
「・・・」
「記録を出すために走ってるんじゃない、と言い切れてしまうコトって・・・実は、すごく危険なんじゃないかと思ったんだ。お前がスプリンターとして、この先に進むに当たってさ」
「危険・・・？」
「記録のために走れ、とは言わない。でも、お前がここから先を進んで行こうと思うのなら、それはお前の好むと好まざるとに関わりなく、周りから期待されるコトになる。そしてお前は、それに応えられるだけの器を持ってる。でも・・・お前自身が、何のために走りたいのか、そこの所がはっきりしていないと、これからすごくしんどいコトになるんじゃないかと思うんだよ」
「・・・」
「おれはお前には、自分が勝つために走ってほしいと思ってる。自分が勝つため。他人より速く走るため。その結果として、ついて来るのが記録だと言い切るのならそれもいい。けれど、記録というものを意識するのは、アスリートとしての宿命なんだぞ」

――
「お前には、お前の意志で、ここで走っていてもらいたいんだよ」
「・・・」
おれは、まじまじと浅岡さんの顔を見た。
『自分の意志で』って・・・
それじゃあまるで、おれが誰かに"走らされてる"みたいじゃんか。

「・・・言っとくけど浅岡さん。おれは、自分の意志でここに来るって決めたんだぜ」
「知ってる」
「だったら――」
「・・・まあまあ。今すぐって言ってる訳じゃない。ゆっくりでいいんだ。考えてみてくれないか。インターハイももうすぐだ。その先の自分の目標の事をさ」

・・・例の笑顔で誤魔化されて、一応うなずきはしたものの――
浅岡さんの言うコトが、何だかひっかかっていた。
『お前には、お前の意志で、ここで走っていてもらいたいんだよ』
・・・

自分の意志、じゃん。
ここに来たのも、残る事を決めたのも。
記録にこだわれ、っていう事だったら話は判る。
ランナーとして、そうする事が必要なんだっていう意味も。
でも――。
自分が勝つために走る、って・・・

智兄がいなくても、大切なものを守れるだけの強さがほしい。
だからおれはここに来た。
このみが・・・
拓さんが・・・
そして、おふくろが・・・
今でも智兄の思い出を、やになる位引きずってるのは判ってる。
おれはそれが苦しくて・・・
昔より、今を見つめる時間がほしくって・・・
そうだよ。おれは勝ちたくて・・・
他の誰でもない。智兄にただ、勝ちたくて。
確かに――
そういう意味ではおれは、みんなの中の兄貴の存在感に勝ちたくてここに来た。
子供の頃とおんなじに。
・・・

――
昔。
兄貴達が、チャリで遠出の計画をしてて・・・
当然おれなんかが連れてってもらえるワケもなかったんだけど、とっても楽しそうな雰囲気がうらやましくて、何が何でも連れて行けってダダをこねたコトがあったっけ。
どうにもこうにも納得しないおれを、みんなが持て余しかけた時。
智兄が明日、おれをそこに連れてってくれるって言い出した。
「ただ・・・みんなと一緒にはムリだよ。僕と二人だけだけど、それでもいい？」
二つ返事で約束をして・・・
次の日。
学校から兄貴が帰って来るのを待ちかねて、二人でチャリンコに乗って出発した。
その頃、おれはまだやっと補助輪なしの自転車に乗れるようになったばっかりで、六年生の兄貴のスピードに、追いついて行くのも精一杯。
それでも智兄は根気よく、おれがついてくるのを待っててくれた。

途中何度か転んだり、車にぶつかりそうになったりしながら着いたのは、隣の町の公園だった。
傾いた陽が、辺り全部をオレンジ色に染めていて――
うころ雲の大群の、息を飲むようなグラデーション――。

智兄達が本当は、どこに行くコトを計画してたのかは判らない。
でも、その公園は、大人がチャリで行ったとしても相当距離のある場所にあったから、当時のおれがそこに行ったっていうコトは、まあ確かに、大した冒険ではあって・・・
智兄はおれの自尊心を傷つけず、納得させる方法を心得ていたってコトなんだろう。
でも、今でもおれはあの公園に、連れてってもらってよかったって思ってる。
がんばれば、兄貴に追いつくことが出来るんだ――。
あの時、子供心に確かにそう思ったし、その自信が、おれを支えてくれたのも本当だった。
目の前にいる兄貴に追いつきたくて、意地になって階段を上がっているうちに、振り返ってみたら、こんなに高いとこにいた・・・。
この学校に来たのも確かに、そんな感じかも知れなかった。

でも。
それっていけないコトなのか？
勝ちたいものがあるんだから・・・そいつに向かってがんばるコトには変わりがないじゃん。
智兄に追いついて・・・
そして、いつか追い越したい。
おれはおれのやり方で、今よりもっと強くなって・・・
みんなの心から少しでも、智兄の思い出を追い出したい。
時間を前に進めたい。

そのためにも――まずは目の前のインターハイだ。

浅岡さんと一緒に、陸上部の専用グラウンドへと歩き出す。
「ねえ、浅岡さん。おれ勝つからね」
「うん？」
「インターハイだよ。どんなヤツがいるか知らないけど、何だか負ける気がしないんだ」
浅岡さんはおれを見た。
「先の目標なんて言われても今は考えられないよ。一つずつ進んでいくしかないじゃん。おれの意志でさ。それでいいんでしょ」
「・・・」

あの日。
必死に智兄の背中を追いかけた自分の姿がその時浮かぶ。
行くしかない。
おれはあいつに勝つために、行くしかない。
浅岡さんは何か言いかけたけど、すぐ止めた。
いつもの笑顔でうなずいて、期待してるよ、と背中を叩いた。

・・・To Be Continued.

　