スターターの声がする。
パトンを持った第一走者の隣には、付属の大学から来てもらった陸上部の先輩がいた。
大きな大会前にはいつもこうして、ペースメーカーとして走ってもらう。
ドーム型の屋内練習場。
屋根は完全に開いてて、差し込む日差しは外と大して変わりない。
インターハイまであと二日。
各種競技の最終チェックも順調に進んで……あとはリレーを残すだけだ。
おれの出ない……
本当だったら出る筈だった、400m×4人のリレー。
おれの代わりに、急遽出場が決まった刈部のバトンパスを見守った。
第二走者の雅巳からバトンを受け取る事になっている。
雅巳がバトンゾーンに入るのを見て、刈部がリードを取り始めた。そこそこのスピード。
リードだからそんなにスピードを乗せなくても……と、普通は思うだろうがそうじゃない。
400mを走った後でも雅巳は早い。
きちんと計算されたペース配分で、最後までしっかりスピードを乗せて走ってくる。
だから、リードと言えども本気で走り出さないとあいつのスピードを生かせない。
――遅い。
刈部のリードを見ながら咄嗟に思う。
けれど雅巳は、そんな相手に対しても自分のスピードをセーブしながら器用にバトンを渡して見せた。
一見すれば流れるようなバトンパス。でも……タイムロスは明らかだ。
「よく大人しく見てられるわねぇ」
千晶の声がした。
「走りたくならない？あんなリレー見せられて」
「……」
「判ったでしょ、パスの時、萩原君がスピード落としたの。せっかくいつもの走りをしても、生かしてくれるチームメートがいないんだもの」
「お前なぁ……」
――それって、刈部に対してあまりにも失礼だと思わない？
……仮にもマネージャーなんだしさ。
言いかけて、それもムダだと気がついた。
近くにいた二年を誘って、ストレッチングを再開する。
千晶は、ろくに言い返しても来ないおれに怒った顔してそこにいた。
「森山先輩」
背中を押してる後輩が呼んだ。
「……いいんですか、このままで。とてもじゃないけど14秒は切れないんじゃないかって、みんな思ってますよ」
「……」
400m×4人のリレー、去年のインハイ優勝記録は3分13秒79だった。
だから、今年のおれ達の目標として、3分14秒を切る、というのがあったワケだ。
刈部が悪いワケじゃない。
悪いのは……
こんな土壇場になって、出場停止なんてバカをやってるおれの方だ。
一人メンツが変わっただけで、四人の呼吸が微妙に変わっているのが判る。
バトンを受けるにも渡すにも、間とか……タイミングが違ってる。
１秒どころか、その1/10、1/100が勝負の話だ。少しのためらいがあっただけでも影響は出る。監督もコーチも、こうなる事は承知の上でおれを外した。
『もう一度……考えてみるんだな。今度のインターハイは俺達にとっては通過点の一つに過ぎない。お前はどうしたい？ここで引き返すのか、一緒に先へ進むのか』
それくらい、覚悟を決めろって事だ。
ここから先へ進むには――
四年も前に死んだ兄貴の事で、今更動揺してる場合かよって。
――お前はどうしたい？
自問自答を繰り返す。
走りたい。走っていたい、とは思う。
でも、このままで……こんな思いのままで行けるのか。
何のためにここにいて……何のためにここに来たのか。
そんな事さえ見失ってるこのおれに、ここで走り続ける事なんて出来るのか？
……
２時間ほどで練習は終わった。
明後日は、いよいよインターハイ。疲れを残さないよう、雅巳はトレーナーの所へマッサージに行っていた。他のレギュラー達もおんなじだ。
雅巳は誘ってくれたけど……とてもそんな気にはなれないでいた。
第一、トレーナーの所へ出かけてくほど疲れてもない。
今日だって100mを３本と、リレーを二回走っただけだ。
風に……乗れない。
そんな気分だ。
気持ちばかりが先走って、体が気持ちについて来ない。
――おれって……今までどうやって走ってたんだっけ……。
ものの10秒。ふたつ呼吸をする程のわずかな時間。真剣にそんな事を思うくらいに、自分の走りに自信が持てない。
最悪の記録は、聞かなくたって察しはついた。
今日こそ監督に呼ばれたっていい筈だ。
過去に一度として優勝杯を譲った事のない、100m×4人のリレー。この種目には、強豪校としての意地も面子もある筈だ。
……
更衣室を出ると千晶がいた。憮然とした顔でこっちを見ている。
黙って脇をすり抜けようとすると呼び止められた。
「負けるのが怖いんでしょ。自分より速い人達と勝負して」
「……」
挑発だ、相手にするな――
判ってるのに、体が勝手に反応していた。
振り返って千晶を睨む。
ほんっとにこいつの甲高い声は、どうしていつも気持ちを逆撫でするんだよ！
「だったら何だよ。勝手に自分の物差しで決めつけるな！お前に何が判ってるっていうんだよ！」
「……」
「一方的に期待して傷ついて、だからって全部おれのせいかよ！悪かったな！期待に応えてやれなくて！」
――――
完全なる八つ当たり。
このままでいいとは思っていない。甘えてるって事なんか、百も二百も承知の上だ。
だけど――
いや。だから――
――お前に何が判ってるっていうんだよ！
判るワケない。
ここで初めて出会った千晶に、おれらが過ごして来た過去なんてどうだったっていい事だ。でも……そんな言葉と裏腹に、おれは千晶に望んでる。
逃げてもいいと……
ここに踏みとどまってなくてもいいと……
言ってほしいと思ってる。
『浩平はちゃんとしてたと思うよ。智兄ちゃんには出来ないコトを、きっとちゃんとしてたと思う』
このみの言葉。ちっぽけな自分。
こんなに弱い……情けない自分。
智兄に、ずっと守られて来た自分。
そんな自分を、おれってば都合のいい時にだけ誰かに受け止めてほしくって……
このみにも――おふくろにだって、つらい時だってあっただろうに、知らずにいつも求めてばかりで。
その時だった。
「森山君！」
おれの背中から声がした。
雅巳がいた。
いつもは穏やかなその顔が、唇を固く真一文字に引き結んでる。
「……頼んでみようよ、監督に。『出たい』って。1600のリレーにも、リレー以外も出たいって」
「雅巳……」
「榎本さんの言う通りだよ。このまま終わっちゃいけないと思う。見てたでしょ、今日の練習。刈部君には悪いけど、このままじゃ14秒どころか決勝に出るのだって危ないよ！」
「……」
「僕も行く。だから、一緒に監督に頼もうよ！」
「……お前、マジで言ってんの？」
「じゃあ森山君はいいの？！このままでほんとに後悔しないんだ」
「……」
「僕が監督に頼んでくる」
「は？」
「監督がいいって言ったら出るんでしょ。だったら僕が頼んで来るよ」
「……」
いくら千晶の前だからって……
何とか彼女の力になりたい、こいつの気持ちも判るけど――
一番言いたくなかった一言を、仕方なしに口にした。
「思い出せねーんだよ。情けないけど……自分がどんな風に走ってたのか、全然思い出せねーんだよ」
「……」
「浅岡さんに言われた。『インターハイは通過点の一つに過ぎない。お前はどうしたい？』……走りたいよ、おれだって。1600だって出場したいよ。でもそれじゃだめなんだ。追いつけっこないんだよ、あいつには」
「……森山君」
「……かばわれてたんだぜ。まんまと騙されて、あいつ一人で全部抱えて。おれが脳天気に陸上なんかやってる間もさ。それが判ったっていうのに、今まで通り自分の事だけやってるワケに行かないんだよ」
「バカじゃないの！」
千晶が言った。
「いつまで昔話に縛られてるのよ！ここにいない人間に追いついて、今更何をしようっていうの？走れるくせに。あんなにすごい記録だって出せちゃうクセに。『走り方を忘れた』？ふざけないでよ。そんな理由が許されるなら、ここでがんばってるみんなはなんなのよ！」
「うるさい！お前には――」
「怖いんでしょ、また負けるのが」
「！」
「自分の場所で勝負して、誰かに負けるのが怖いんでしょ」
「森山君っ！」
千晶の頭のポニーテールが小さく揺れる。
目の前に、雅巳の必死の顔があった。
掌に固く食い込む自分の爪痕にその時気づく。いつも静かな雅巳の目が別人みたいに激しく光る。
初めてだ。
こいつの……こんな、顔。
……
「走りたいんなら走ればいいのに。どうしてそんなに我慢しちゃうのさ」
「我慢なんかしてない」
「してるじゃん。走りたいって言いながら、走るの辞めようとしてるじゃん！」
「してねーよ」
「してるっ！」
「してねーってばっ！」
雅巳はキッとしておれを睨んだ。
「……だったら、勝負しようよ」
「……なに？」
「僕が勝ったら――監督に頼んでよ。『インターハイに出たい』って。『もう一度、死にものぐるいで走るから出させてほしい』って」
「……はあ？」
「本気だよ！」
千晶は、自分を庇うように立ちはだかった雅巳の背中を見つめてる。
……ったく、にぶいのは一体どっちだよ。これじゃ、おれ一人が悪者じゃんか。
「……馬鹿馬鹿しい。なんでおれがお前と勝負しなくちゃならないんだよ。言ってる事がめちゃくちゃだぞ」
「覚えてるよね、僕の記録を破った事」
「……」
「記録なんて……破られるためのものだって判ってる。だけど、『関係ない』とか、『走り方を忘れた』とか、そんな言葉で片づけるような相手に負けた……納得出来ないんだよ、このままじゃ」
雅巳は真剣に食い下がった。
「とか何とか言っちゃって。おれが勝ったらどうすんだよ」
「勝てないよ」
「何？」
「森山君は僕には勝てない。負けるのが怖くて、本気の勝負なんて出来ないよ」
……そこまで言うか。
「……今からやんのか、ここですぐ」
「君はいいの？そんなコンディションで、今すぐ僕と勝負なんてしていいの？」
千晶が何か言いかけた。
インターハイまであと二日。
監督もコーチも関わらない場所でもしものコトがあったりしたら、と咄嗟に思ったらしかった。
おれだって思う。
雅巳は――いつもはこんなヤツじゃない。
こんな風に……
相手に向かって正面切って、自分をぶつけられるようなヤツじゃない。
千晶にコクる時だって、何も言い出せやしなかった。
おれがセッティングしてでさえ、肝心なコトは何一つ千晶に言い出せなかったんだ。
そんなこいつを、ここまで怒らせてしまった理由。
雅巳は今まで真剣に――ほんとにマジに、走るコトと取っ組んで来た。
『勝ち逃げは、させない』
こいつの強い気持ちが伝わって来る。
怒るのは……当たり前、だよな。
おれは思った。
……To be contenued.
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