……どうしよう。 浩平の学校前にいた。 正門は大きく開いてて……”さあ、どうぞ。”って言われているような気さえした。 でも足は、そこから先へ進まない。 陸上部のグラウンドはこの奥だ。インターハイ前で、外じゃもう練習はしないって言っていた。どっちにしてもここから中へ入らなければ、あいつには会えない。 踏み出しかけた足を、のろのろその場に戻してしまう。 『……言っておくけど森山君、インターハイに出られなくなって悔しいなんて全然思ってないからね。』 榎本さんの言葉を思い出す。 ……そんな筈ない。 目標にして来たインターハイ。そのために、二年の秋に転校までして……絶対出るってがんばって来た筈のインターハイ。 それに出られなくなったって言うのに、あいつが悔しがってないワケがない。 智兄ちゃんに勝ちたくて……そのためだけにここまで来たんだもの。 400mのリレーには出られるけれど、それだって積極的なイミじゃない。 『あんた達、揃いも揃って……ほんっと重傷』 榎本さんには……見えている。浩平の未来。そしてあいつが、ここでしなくちゃならないコト。 私は…… 私があいつに見てるのは―― 『過去がそんなに大切なコト？』 ―――― 正門の前から、ふらり、と離れて近くの木陰の中へと入る。突き刺す日差しが葉で遮られて、乾いた風が頬を掠めた。 私たちにとっては……過去じゃない。 智兄ちゃんにはお別れも……ありがとうも何も伝えていない。 おじちゃんだって……祥子おばちゃんとのコトだって……ついこの間知らされたばっかりで―― いないからって―― 死んだからって―― それは過去にはならないし……したくない。 「――おい。どした？」 頭の上から声がした。 びっくりして顔を上げると、そこには、きょとんとした顔の浩平がいた。 「……平気かよ、青い顔して」 人の思いなんか全然よそに、あっけらかんとこいつは言う。 「……別に。何でもない」 浩平は私の隣に腰を下ろした。 「お前が『何でもない』って言う時は大体何かあるんだよなー」 「……」 冗談のような本気のような。浩平はにやりとして見せた。 「……それにしてもあちーな。とりあえず何か食い行かねー？」 時刻はお昼になろうとしてる。 「萩原君は？」 「あいつは……寮に戻ったんじゃない……？」 「一人で？いつも待っててくれるのに」 「……」 答えずに浩平は立ち上がった。 「駅前にでも出てみるか。せっかく、遠いとこから来てもらったんだしさ」 「ねえ……」 「？何だよ」 「私といると――思い出す？」 「え？」 「その……昔のコトとか、さ。色々……思い出して、ヤにならない……？」 浩平は、まじまじと私の顔を見た。 「だから何」 「……」 「思い出して、ヤになるとして。だったらそれが何なんだよ」 「……」 浩平は、ため息をひとつつく。 「おれ、雅巳と勝負する事になったから」 「えっ？」 「はっきりさせる。ここに残るのかどうするのか。今度こそ、おれの意志で決めてやる」 「ええっ？！」」 木の上で――蝉が一斉に鳴き出した。 …… 「そういうのは、ケンカとは言わないんだよ」 白いコーヒーカップを静かに置いて拓兄は言った。 ホテルのラウンジ。 スーツ姿の大人の人やカップルなんかがちらほらしているその中に、私は兄キと向かい合って座ってた。 明後日からのインターハイ。 浩平の応援のために、わざわざバイトの都合をつけて来てくれたんだ。 今日来るっていうのは知ってたけれど、ついでに時間を教えてくれてたら、浩平と３人で夕ごはんを一緒に出来たのに……。 相変わらず、この人の行動って掴めない。 「はっきりさせたいんだろ、浩平も。この先も、こういう形で陸上続けてくのか辞めるのか。本気で走って確かめたいってコトだろ」 「……そうなの、かな」 「心配いらないって。むしろ、あいつらしいじゃん」 「でも――友達なのに……」 「友達だから、だよ。今時天然記念物モノの純粋さだぞ、そういうの」 兄キは楽しそうに笑って見せる。 浩平が、インターハイに出られなくなったコト。 正確には、100mのリレーにしか出場出来なくなったコトを話しても、お兄ちゃんは特別怒るでもなく、静かにうなずいて聴いていた。 「もしかして……お母さんから話聞いてた？」 「何も聴かないよ。でも、それくらい想像つくよ。おれだって未だにひきずってる程のショックだったんだからさ。智だって、そうなるコトが判っていたから隠し続けて来たんじゃん」 「……うん」 「お前はどうだ。大丈夫か？」 「え……？」 「浩平は分かり易いから。白か黒かはっきり出来る場所が、見つけられればいいなとは思ってた。そうすれば、きっとあいつは答えを見つける。勝負して勝とうが負けようが、自分の答えを見つけられる。だけどこのみは……そうじゃないだろ」 「……」 「おれと一緒に、おばちゃんの再婚反対同盟に乗らない？」 目が点になる。 次の瞬間のはじけた笑顔で、からかわれたんだと確認出来た。 兄キは、昨日まで出かけてたっていう伊豆の海の写真を見せてくれた。例の、並木先生と一緒に潜って撮って来たもの。 「伊豆って、案外海の中綺麗なんだね」 「綺麗だよ。ヘタな場所よりずっといいよ。凪いでたし、視界もクリア。絶好のコンディションだったしな」 「あ。このお魚、かわいい」 「欲しければやるよ。どうせ上手く撮れたのは、みんな先生んとこに行っちゃってるし」 「……」 「？何だよ」 「ううん。……今日のお兄ちゃん、優しいなって」 「それを言うなら、いつも優しい」 ―――― 『彼には、必要な事だと思うの。自分の思いをただ黙って聞いてくれる人の存在が』 冴子さんの言葉を思い出す。 並木先生といるコトで、お兄ちゃんの気持ちが癒されるなら―― 自分を傷つけないでいられるのなら、それが一番だと思う。 いつもなら、時間さえあれば手を伸ばしているタバコにも、今日は私と会ってから一本も火を点けてない。 この海の写真とおんなじに、お兄ちゃんの心も凪いでいる。 智兄ちゃんがいた時みたいに……。 もらった写真に目を落とした。 きれいなブルー。色とりどりの魚たち。水面から波間を抜けて差し込む光。 お兄ちゃんがダイビングにハマるのも判る。まさしくそこは別世界だ。私たちの、思いも悩みも何もかも、すっぽり包み込んでくれる別世界。 ―――― 「もしも……智兄ちゃんが生きてたら――きっと……今のお兄ちゃんとおんなじコトを言っただろうね。『心配いらないよ。むしろ浩平らしいじゃない』って」 「……どうだかね」 「時間って、繋がっているんだね。過去とか今とか、切り離せるものじゃないんだね」 「……どうしたんだよ、いきなり」 「私ね、”心の中に生きている”って、意味……よく判らなかったんだ。乗り越えるのとも違ってる。縛られるのとも違ってる。……ただ、今のままじゃ浩平にも私たちにも、よくないっいうのは判ってる。私たちは、智兄ちゃんの思い出をどうしていけばいいんだろうって」 「……」 「だけど……ちょっと判った。切り離そうとするから判らないんだ。いなくなっちゃったって思うから悲しくなる。智兄ちゃんはここにいた。私たちと一緒に、確かにここにいたんだよ。智兄ちゃんがいなかったら私たち、ここにこうしていなかった」 ――何言ってんだ、今更。 そんな顔して、拓兄は私を見てた。 「……で？うなずけばいいワケ？おれはこの場合」 「そ」 お兄ちゃんは、小さく口元で笑ってくれた。 このみには言わなかったけど―― 浩平がインターハイに出られなくなったっていうコトは、祥子おばちゃんから聞かされていた。 黙っていればいいものを…… わざわざ貧乏くじ引きに来るとこが、あの人のあの人たる所以だな。 「拓君の、言ってた通りになっちゃった」 おばちゃんは言った。 「『全部話して、それで終わりになるワケない』。ほんとに、その通りになっちゃった。……もう、母親失格だぁ。子供の夢を壊してばっかり」 「だったら、やめれば？親なんか」 おばちゃんは、びっくりした顔で振り返った。 「もともと、親らしいコトなんて何にもして来なかったんだし。今更なろうとするからおかしくなるんだよ。任せりゃいいじゃん、あいつらに。このみなんか勝手にくっついて行っちゃったんだぜ、浩平のとこに」 「うん……」 「これからどうするかはあいつらが決めるよ。結果ここに帰って来るんなら、それはそれでいいじゃない」 ―――― ――親だなんて、思わなけりゃいい。 そう言ってくれたのは並木先生だった。 伊豆の海。 ダイビングポイントへ移動する船の上で、まるで鼻歌でも歌うみたいに、何の気無しにたった一言。 ――親だとか、保護者だとか思うから頭に来るんだよ。思わなけりゃいい。浩平君だってもう18だろ？死んだ兄貴より年上なんだろ。そんなものなくたって、もうなんとでもなるだろ。 ……あ、と思った。 ――どうせ勝手にして来たんなら、そのまま勝手にしてもらえばいい。そうすりゃ、再婚しようが何だろうが今まで通りだ。親の資格なんてない人なんだから。 …… おばちゃんは、そっか、と言った。 この人が、おれの前でこんな風に微笑うのはどのくらいぶりだろう。 智と似ている。ごく当たり前にそう思う。 あいつが誰より――何より強く、守りたいと願った大切な存在(ひと)。 あいつのそんな思いには、何ら気がつかないままの。 「見に行くの？インターハイ。あいつ、リレーにだけは出るんだってよ」 「ごめん！その日夜勤なんだ！」 「……相変わらず、反省しない人だなぁ」 「心配で見てられないの。なんか、とんでもないコトしでかしそうなんだもの」 「もうしてるじゃん」 「他に何かよ。もっと何か心配な事」 「……はいはい。いいよ、もう。言い訳は聞き飽きた」 智がいた頃にも散々繰り返したこの言葉。何のイラ立ちも感じずに、さらりと口にしている自分に気がつく。 確かにこのみの言うとおり、もしもこの人がいなければおれは智と会うコトもなかった。 あの事故も、世の中の他のニュースと全然同じで…… どんなにこの人の生き方を否定したって、この人なしのおれはいないし…… 智紘なしのおれも存在しない――。 向かいに座って、チーズケーキを頬ばるこのみを見た。 ちょっとの間にこいつってば…… 墓参りに浩平が来るとか来ないとか、そんなコトでむくれてたヤツだったのに。 「……相変わらず、何を食べても幸せそうだな」 このみは一瞬むっとして、 「そう言えば、智兄ちゃんにもよく言われたよ、そのセリフ」 嬉しそうに笑って見せた。 ・・・To be continued. |
