――「聞いたよ。都中大会出るんだって？」
珍しく、兄貴と一緒になった帰り道。
おれは不機嫌に口をつぐんだ。
……このみだな。
ったく、余計な話しやがって。
「すごいじゃないか。二年生で3種目も」
「……」
……別に、すごい事じゃない。
たまたまおれより早い三年が、いなかったってだけの事じゃんか……。
「前々から思ってたんだけど……お前、本気で陸上やってみたら？」
「え……？」
「陸上の特待生として進学するんだよ。いくつかあるんだ。そういう制度を設けてる学校が」
――――
『おれはお前には、自分が勝つために走ってほしいと思ってる。自分が勝つため。他人より速く走るため。その結果として、ついて来るのが記録だと言い切るのならそれもいい。けれど、記録というものを意識するのは、アスリートとしての宿命なんだぞ』
違うんだよ、浅岡さん。
おれは……
おれがほんとに勝ちたかったのは――
「朝六時でどうかな」
まるで、自主練習の予定を打ち合わせるみたいな気楽な言い方。
雅巳がおれに言ったのは、昨日の夕飯のすぐ後だった。
「学校の近くの公園に、ウォーキング用のトラックがあるの知ってる？100mの一本勝負。それでいいよね」
「ああ」
そして、次の日。
雅巳は約束の場所へ、スターター係として榎本千晶を連れて来た。
監督やコーチへの口止めってイミも併せて、こいつを"共犯"にするのは、まあ、妥当な判断だろう。
おれはこのみと……昨夜、丁度こっちに着いたっていう拓(ひらく)さんとを連れて来ていた。
もしかしたら今日の勝負がインターハイの、まあ……代わりになっちゃうかも知れなかったし――
だったら尚更二人には、見届けておいてもらった方がいいかとも思ったし。
「……誰よ、あの人」
千晶が訊いた。
「このみの兄貴だよ」
「へえ……」
妙に感心したように雅巳がつぶやく。
「……何か、何処かで見た事ない？」
「んなワケないだろ。……ワザとらしくきっかけ作ろうとしてもムダだぞ。ちゃんと恋人がいるんだからな」
「そんなんじゃないわよっ！」
千晶のネコ目がきらりと睨んだ。
「……じゃ、おれ達はゴールにいればいいのかな」
拓さんが言う。
ここのウォーキングコースの直線は約200m。真ん中にはご丁寧に、道沿いに桜の木が並んでる。そこがゴールだ。
おれはうなずいた。
「心して見ててよ。僅差勝負になると思うから」
「あれ、珍しく弱気なんだな」
「……」
はっきり言って――
今日は勝てる気は全然しない。ゴールが妙に遠くに見える。
この勝負で自分なりの答えを見つける。
そう決心しては見たものの、雅巳に勝てる自信はおれにはなかった。
第一こっちは、自分の走り方さえ思い出していないんだ。
……
スタートラインに雅巳がいた。
ウォームアップスーツを脱いで、まっすぐ立って、100m先のゴールを見ている。
その目は静かに澄んでいて……
意識がどんどん走るコトへと向かって行っているのが判る。
……漂ってくる空気で感じる。
文句なしにこいつは速い。今まで出会った誰よりも。
おれは今までこんな相手と、一緒に練習していたんだな……。
今までは、ただただ兄貴を追いかけて――
一緒に走る相手なんか、これっぽっちも頭になくて。
雅巳が、不意におれを見た。嬉しそうににっこり笑う。
……相変わらず意味不明だよ、お前のそういう反応は。
「君はさ……判ってないでしょ。自分が、部のみんなにどれだけ大きな影響を与えたか」
「何？……」
「世の中にはこんなヤツもいるんだなぁ、って――僕だけじゃない、他のみんなも、監督やコーチだって思った筈だよ。良くも悪くも君の走りは、みんなの憧れだったんだ。才能って、ほんとにあるんだなって。悔しいけど……認めないワケには行かなかった。――知ってた？自分のそういう力。周りのみんなが自分をそんな風に見てるコト」
――何だって？
心の中でつぶやいた。
「君にとっての目標は、確かにお兄さんだったかも知れない。だけど、君を目指して――追いつきたくて、走って来たヤツは大勢いたんだ。君にはそんなの、どうでもよかったかも知れないけどね。……責めてるんじゃないよ。陸上続けてる理由も、目標も、みんなそれぞれだと思う。だけど……僕にとってはそうだった。自分の大きな目標として、君とは一度、本気で勝負してみたかったんだ」
「……」
「自己満足と言われれば、確かにそうかも知れないけどね」
雅巳は笑った。
――お前こそ……
おれから見ればお前の方こそ、ほんとにすごいと思ったんだぜ。
ただ走るだけじゃない、ペースの配分や相手の事や、そして日々の練習や……
お前ほどの実力(ちから)の持ち主が、積み重ねて来てる事。
コーチに言われるまでもない、おれがこの先踏み込もうとしている世界は、それ位の覚悟が必要なんだっていう事。
智兄のいない所で、自分を確かめたい気持ちはあった。
あのままずっとそこにいて……智兄の思い出に縛られて……いつからか、それがどうしようもなく苦しくなって……
兄貴の分まで守りたいもの。
兄貴の代わりに支えたいもの。
それを感じれば感じるほど、あの場所にいるのが耐えられなくて……
ここに来たのも、そこから逃げたい一心で……
「おれは、陸上辞めたりしねーよ」
口を開いた。
「ここには、いられなくなるかも知れないけど……陸上は辞めない。少しは本気になれそうなのに、辞めるワケがないだろ」
雅巳は、えっ？って顔でおれを見た。
「浅岡さんに言われたじゃん、『ここから先に進むのか、どうしたいのか』。答えは、まだ判らない。先に進むって言葉のほんとの意味も、おれにはよく判らないしさ。だけど……お前と勝負する事は、妙に納得してるんだ。何か……はっきりした形にして、ケリをつけなくちゃいけないって。でなきゃ、ずっとこのまま、何をやっても中途半端になりそうな気がする。何をやっても……兄貴のせいにして、逃げ続けてかなきゃいけない気がする」
雅巳は、にやりとして見せた。
「それって、一応は僕を認めてくれた事になるのかな？」
「さあな」
それはこれから走れば判る。
判らないまでも……
自分の力で――ここから先を見て行ける。
そんな気がした。
ただしこのおれに、お前とまともに張り合うだけの力があればの話だけれど。
――――
私は……お兄ちゃんと並んでゴールの端に立っていた。
「――位置について」
榎本さんの、張りのある声が聞こえて来る。
スタートラインに、静かに両手をついた姿勢の二人のコトを見守った。
……
『まあ……インターハイの代わりになっちゃうかも知れないからさ。一応お前には見届けといてもらおうと思って』
昨日の夜。
電話の向こうで、浩平は私にそう言った。
「えっ？！インターハイ出るの、辞めちゃうの？！」
「まだ、判んねーけどさ。明日の結果によっては、だけど」
浩平の言う”結果”という言葉の意味が、私にはよく判らなかった。
だってそんな大切なコト……
自分の考えひとつだけで何とかなっちゃうものなんだろか。
リレーみたいに何人かで一緒の競技もある。仮にも全国レベルの大会で、個人の考えひとつで出たいって言ったり出ないって決めたり……
そんな簡単に行くんだろうか。
転校するって――決めた時もそうだった。
こんな時。浩平の頭の中は、100m先のゴールを見据えたみたいにまっすぐだ。
勝負しよう、って言い出した萩原君の思いとか……
そんなコトが許されるとは思えない陸上部のコトとかは、あいつにとってはどうでもよくて……
ううん。どうでもよくはないんだろうけど、それよりもっと自分にとっての何かを探すコトの方が大切で……
この間、学校を飛び出した時もそう。
初対面の杉崎先生の言葉をただ確かめるためにだけ。それだけのために浩平は、おばちゃんに会いにやって来た。
「……何笑ってんだよ」
拓兄が言う。
「変わらないなぁって思ってさ」
「うん？」
「ちょっと嬉しかっただけ。浩平の、変わってないなぁってとこが実感出来て」
「――用意！」
凛とした榎本さんの声が辺りに響いた。
一瞬の間。そしてスタート。
ほとんど同時に、浩平と萩原君の体が飛び出した。
……
・・・To be continued.
