インターハイは三日目が終わり……

トラック競技はその大半が決勝までを終了していた。

フィールドでも相模高校の強さは圧倒的で――

こんな中にいるんだもん……

こないだ帰って来た時も、たった三日間とはいえ勝つために――

自分のコンディションを、最高に維持しておくために――って……

あいつが考えたかったのも、当然だったかも知れないよね。

なのに私ってば……

『智兄ちゃんよりインターハイの方が大事なんだ』

『そうだよね。そのために転校したんだもんね。あんなに嫌いだった特待生にまでなったんだもんね』

――なんて。

ずいぶんひどいコト言っちゃったなぁ……。

浩平(あいつ)に向かって。

まっちゃんは、彼に買ってくおみやげを選びに、近くの商店街に出かけてた。

明後日、私達は東京に帰る。

インターハイは、まだその全てが終わったわけではなかったけれど、浩平たちはもう次の目標へ向けて動き出してたし、私ももうじき夏期講習が始まる予定だったし。

明日の夜は萩原君とまっちゃんと、四人で打ち上げをする約束をした。だから、ここでゆっくり過ごすのも今晩が最後。

まっちゃんは、一緒に買い物にって誘ってくれたんだけど……

私はちょっと……

ほんのちょっとだけ、一人で考え事がしたくって外に出た。

……

空には、夕焼け雲が広がっていた。

空気が澄んでいるからなのかな……

東京では、こんなに綺麗な夕焼け、しばらく見てないような気がする。

ううん……

昔は――

私がもっとちっちゃい頃には、こんな色の空も見たような気がする。

飛行機が、翼を点滅させて飛んでく様子を、UFOだ！とか言って大騒ぎした……

確かあの時も、こんな綺麗な夕焼けだった。

……ここから先に進んでみよう。

そう決めたあいつの結論に、納得してないワケじゃない。

浩平は……ここで望まれて――

ここにいるっていうことが、智兄ちゃんの存在を繋いでくコトにもなるんだって――

それじゃあ私は？

私は何をどうしたら、それを繋げていけるんだろう。

お兄ちゃんは、ムリしてケリをつけることないって言ってくれた。いつまでもみんなで智に会いにいけばいいじゃんか、って。

そうだよね。

急ぐコトはないんだよね……

浩平が自分の進路を決めたからって、私がアセるコトは何もないんだ。

ただ――ほんのちょっとだけ……

あの場所を離れて行くコトが、あいつのようには踏み切れないだけ。

みんなが”ここ”から、一斉にいなくなってしまったら……

みんなで一緒にいるコトが、あんまり当たり前だったから……

それがこうしてなくなるコトが……

やっぱり少し寂しい気がして。

大通りに出た。

夕暮れの風が吹き抜ける。街路樹の柳が気持ちよさそうに揺れている。

それを眺めていた時だった。

ふと……人の気配を感じて視線を移したその先に、榎本さんが立っていた。

「やっぱり。そうだと思った」

淡いピンクのタンクトップに紺のサブリナ、白いサンダルのスタイルは、制服姿の時より身近に感じた。

「こんなとこで、何たそがれてるの。道に迷った？」

――そんなんじゃ……と言いかけて、

「榎本さんこそ……家、この近く？」

「近く、ではないけど……前に電車で会ったじゃない。あの辺よ」

肩に下ろした髪が、さらりと揺れた。

美人だな……と素直に思う。

少なくともうちの学校には、いないタイプの人だよね。まっちゃんが萩原君を見た時にも、そんなコトを言ってたけれど。

大人っぽさと、きりっとした強い空気。そして私たちと変わらない、もしかしたらアイドルなんかも、案外嫌いじゃないんじゃないかって思えるような、ごく当たり前の普通の空気と。

「丁度よかった。私、あなたと話したかったんだ」

榎本さんが言い――咄嗟に私は、気持ちをディフェンスモードに切り替える。

榎本さんは楽しそうに笑って見せた。

「そんなに警戒しないでよ。これでもちょっと見直したんだから。あなたのことを」

――

知らない土地で、地元の人と一緒のコトほど心強いものはないんだぞ、って……

前に兄キが言っていた。

おいしそうなストロベリータルトを目の前にした時、その言葉を実感した。

帰る前に、ここを教えてもらってほんとによかった。

明日は絶対まっちゃんも、このお店に連れて来てあげよう。

「森山君も好きよね、そういうの」

アイスティーのストローを、口元に運びながら榎本さんが言う。

「うちのお母さんが好きだったの。おやつっていうといつもお菓子、焼いてたし」

「うちのお母さん？」

「浩平たちはちっちゃい頃から、ウチによくご飯食べに来てたんだよ」

「ああ……そういうこと」

「榎本さんは？食べないの？」

「食べるわよ。でもどうせ食べるんなら、一度織原さんの焼いたケーキを食べてみたい」

「私の？」

「森山君が言うんだもん。『こんなんだったらこのみの焼いたのの方がずっと美味いな』って」

「……」

「本当よ」

榎本さんは、自分のお皿のミルフィーユをフォークで器用に切って口に運んだ。

「私ね――」

榎本さんが続けた。

「あなたは彼を、東京に連れ戻すために来たんだと思ってた。だから、森山君が陸上辞めるかもって時、ほんとはホッとしてたんじゃないか、って」

「……」

「ごめんね。でも、本当にそう思っていたの。あなたがいなかったら、あの記録は誕生しなかった」

「……」

「感謝してるんだ、本当に」

私は力なく頭を振った。

「私は何にもしてないよ。浩平がここに残るって決めたのは、榎本さんや萩原君が一生懸命に気持ちを伝えたからじゃないのかな」

「私と萩原君が？」

「うん……」

だって私には――

最後までどうしたらいいか判らなかった。

浩平が、自分の家族のコトを知った時。

インターハイへの出場停止を言い渡されて、自分の走りを見失った時。

萩原君と『勝負をする』って言い出した時。

私はいつもただオロオロと、そこにそうしていただけで――

あいつに何を言ってやれる当てもないまま、ただくっついて来ただけで――

「確かに、気持ちは伝えたけどね。しつこいくらいに」

榎本さんは笑った。

「森山君がいると、不思議とみんないいタイム出すんだ。こないだの萩原君とおんなじに」

「……」

「あの時だって――あんなに速い萩原君を見たの、私も初めてだったもの。彼、本当に本気で勝負したんだと思う。萩原君にとっては、そこまでしなくちゃ勝てない相手だったのよ、森山君は」

「……」

榎本さんは、不意に真剣な顔で私を見た。

「正直、“このみちゃん”にしては、よく決心したなって思ったんだ」

……このみちゃん、って――

どういうイミよ。

ムッとしている私に気づいていない筈もないだろうに、榎本さんは涼しく続ける。

「ほんとは、『ずっと一緒に』いたかったんでしょ？」

「……」

「これからはほんとに会えなくなるわよ。何しろ日本にいなくなっちゃうんだから」

「判ってます」

「ほんとに？」

この人ってば……いじわるでこんなコト言ってるんだろか……

私がこの人を、自分の周りにはいない人だって感じた理由はきっとこれ。

自分が知りたい、確かめたい、って思ったコトを、何のためらいもなく言葉に出来てしまうコト。

アイスティーのグラスの中で、氷が小さく音を立ててくるりと回った。

「森山君の、亡くなったお兄さんのこと」

胸の奥がどきり、とした。

「私は……こまかいコトは知らないし、知りたいとも全然思わないけど、これからの彼に期待されて行くのは“今”だけだから」

「……」

「そのコトだけは覚悟しといた方がいいと思う」

「私は別に――」

「――まあ、萩原君と一緒に走って、一瞬にしろ忘れられるくらいなんだから、大した影響ないと思うけど」

忘れる？

浩平が？

そんなのある筈ないじゃない。

あの瞬間だって浩平は、智兄ちゃんを忘れたワケじゃなかった。

ずっと……

ずっとあいつは思ってた筈。

智兄ちゃんがいたから今の自分はここにいる。こうしてここで走っていられる。

智兄ちゃんが望んでたのは、浩平がやりたいことをやりたいように続けてくこと。

「来年、来るの？こっちに」

「まだ判らない」

「楽しみにしてるね。今度会うの」

榎本さんは、にっこり笑ってそう言った。

・・・To be continued.

　　　　　　　　　　　　　　

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