ぼんやり霞んだ意識の中で･･･聞き覚えのあるその声も同じように霞んでた。

顔は見えない。けど判る。何故かそいつの表情が･･･手に取るように伝わって来る。

唇の端を小さく歪めて、全てを見通すような無機質な視線。

――『好キニスレバ？』ダッテ･･･？笑エルネ。ソレッテ丸投ゲッテコトダロ。テイノ良イコト言ッタッテ、このみニ「何トカシロヨ」ッテ･･･「後ハ、お前達ニ任セルヨ」ッテ、放リ投ゲテルダケジャンカ。

･･･この間の時もそうだった。あの小児科医･･･杉原とか言ったっけ、あいつと話していた時も何処かでこんな声がして･･･

お前は･･･一体誰なんだ？

――薬ナンカ飲ンダリスルカラダ。医者ニ頼ッタリナンカスルカラ、おれノ姿ガ判ラナイノサ。ソノママデイレバ良カッタノニ。ソウスレバ、おれが誰カガ判ッタノニサ。

･･･

――おれハお前ノ敵ジャナイ。ムシロ逆ダヨ。･･･判ッテルダロ？お前ハ、抱エテル現実ノ重サニ耐エラレナイ。ダカラおれガ来タンダヨ。おれナラお前ヲ守ッテヤレル。救ッテヤレル。

おれを･･･救う――？

――認メロヨ。アレハ“逃げ”ダッテ。責任転嫁以外ノ何物デモナカッタト。責任放棄シタイノハ、お前ノ方ダッタンダヨ。

･･･意識の中に直接話しかけて来るような、声を断ち切りたくて首を振る。

けれど淡々と言葉は続く。

――応エテヤレナカッタダロ？智ニ打チ明ケラレタ時。自分ノ親ガ他ノ女トデキテルッテ･･･アノ智紘ガ、お前ダケニ伝エタ思イニ、何モ返シテヤレナカッタジャン。

･･･

――自分ヲ責メルッテイウコトハサ、言ウホド容易イ行為ジャナインダヨ。誰ダッテ、傷ツキタクナンカナインダカラ。･･･サッサトおれニ任セナヨ。ソウスレバモウ、コンナ思イト離レテ暮ラセル。

･･･

このまま――眠れ。

全てを委ねて･･･ずっと眠って――

「お客様――」

小さく体を揺すられて目を覚ます。

紺色の服。襟元のピンクのスカーフリボン。

客室乗務員の柔らかな笑顔が、すまなそうに言葉を繋ぐ。

「申し訳ありません。まもなく那覇空港に到着します。ベルトをお締め戴いてよろしいでしょうか？」

低く唸ってるエンジンの音。

左の窓には白雲の海。隙間から大きく覗くライトブルー。

シートに埋めてた体を起こして、坐り直すとベルトを締めた。

クリニックで新しく出された薬のせいか、緊張感がなくなると、こうしてすぐに眠りに落ちる。その頻度も増えた気がする。

しかも結構強引な眠り。足元を有無も言わさずさらわれるみたいな･･･。

機内に響くエンジン音が高くなる。高度がゆっくり下がり始める。

眼下に広がる海の青。点在している無人島。そこここに見える、ファンダイビングのボートの影。

見慣れた筈の島の空気が近くなる。

『おれナラお前ヲ守ッテヤレル。救ッテヤレル』

――

･･･救われたい、のか？おれは。だとしたら･･･何から救われたいんだろう。

「あいつ」は･･･おれを、何から救ってくれるんだ･･･？

これ以上、考えちゃいけない。何もかも――。

いつだったか･･･

先生たちのブリーフィングを待ちきれなくて、一人で先にエントリーしてしまった時。

視界のすぐ先に目指すケーブが見えていて、先はドロップオフになっていた。

30mは裕にある。底を目指してみたいと一瞬思った。

陽の光も充分に届き切らない未知の世界。けどその時も、自分を押し留めた声がした。

今も同じだ。

その声が何処かでする限り、一線から奥には入れない。

その声で、かろうじて助けられてもいる代わり･･･そこから先へも踏み込めない。

いつでもそうだ。湧き上がって来る衝動を無意識に何かがセーブする。

飛び込みたいのに。その奥へ。ただ･･･それだけの事なのに。

『見てみたくない?どんなんか』

『――会えるかも』

『そこに行けば･･･もう一度･･･拓に会えるかも知れないのに』

眩暈を感じて目を閉じる。

――このまま眠れ。眠ってしまえ。

『抱エテル現実ノ重サニ耐エラレナイ。』

･･･

早く･･･潜りたい。

酸欠の魚みたいにそう思う。

東京にいるうちはこんな飢餓感はなかったけれど、視界に近づくライトブルーのグラデーションを見ていると、いっそこのまま沈んでくれないかとさえ思ってしまう。

･･･やっぱり、頭がどうかしている。

――――

「――はい、織原です」

「こんにちは」

受話器から聞こえる落ち着いた男の人の声。

久しぶりに聞くけど覚えてる。この声の主。

「並木先生！」

「お久しぶり。このみちゃん･･･だったよね？」

「はい！お久しぶりです」

「ほんとにね。元気にしてた？」

「元気です。先生は？」

「うん。変わらず潜って飲んで仕事してるよ」

前に一度だけ会った事がある。

拓兄と慶良間でダイビングをしている写真の先生。フランス人のクォーターだって聞いている。背も高くって、あの拓兄と一緒にいても見劣りしないハンサムさん。なのに見かけによらない豪快な声で「がははっ」なんて笑ってみせる。

『心配ってのはね、決して悪い意味の言葉じゃないんだよ』

初めて会った私に向かって、そんな言葉をかけてくれた。

「拓、いる？そろそろこっちへ向かう用意は出来たかと思って」

「あれ？･･･今日そっちへ向けて出発したけど――先生に何の連絡もしてなかったの？」

「えっ？今日？」

しまった、って感じの先生の声。

「元からあいつにそんな連絡してくる常識は期待してないけどね。･･･そっか、寄りにもよって今日発ったのか。･･･何時の便に乗ったか、判る？」

「9時34分羽田発、だったと･･･思うけど」

時刻はお昼を過ぎたとこ。飛行機はそろそろ那覇に着いている頃だ。先生がいる座間味島へは、そこから更に飛行機か船を乗り継いでく事になる。

「判った。ありがとう」

「あっ･･･あの先生！」

「うん？」

一瞬･･･迷った。

こうして電話を貰う事が出来たのも･･･

それを私が受けたのも･･･きっと何かの巡り合わせだ。兄キの今の体調の事。こっちへ帰ってる間にあった事。

伝えておいた方が･･･いいような気がする。

余計な事かも知れないけれど･･･ダイビングって、一歩間違えば大きな事故にも繋がるものだし、あの人の近くにいられる人には知っていてほしい事だと思う。

「･･･お兄――ううん。兄の事で、私先生にお話が･･･」

「記憶を失くしたりした事と、それで薬が増えたって事なら聞いてるよ」

「えっ？誰からですか？」

「藤沢先生から。神崎さんにも拓の事はくれぐれもって頼まれてるから、俺と先生は案外マメに連絡取り合っているんだよ」

･･･そうだったんだ。

冴子さん。やっぱり――お兄ちゃんの事を心配してくれていて･･･

「難しい事は判らないけど、あいつの体調がダイビングに都合よくないって判断すれば、取りあえずムリはさせないよ」

その一言にホッとする。

「冴子さんと会ったんですか？」

「いや･･･電話で話しただけだけど･･･」

「智兄ちゃんの命日にも何の連絡も来なくって･･･その事も兄は気にしているみたいなんです」

「･･･」

――少しの間。

先生はふっと口をつぐんだ。

「ねえ、このみちゃん」

「はい･･･？」

「君も――冬にはここへ、クジラを見に来たらいい」

「えっ？」

「君だけじゃない、浩平君も一緒にさ」

「･･･」

「死者の魂は自然へと帰る。墓とかそういう所じゃなくてね。拓もそう言ってたし。そこにいたっていたずらに、過去を振り返るだけだから」

「あの･･･」

「待ってるよ」

電話の向こう。

先生の人懐っこい笑顔が浮かんだ。



･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　



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