「つぎーっ。１分間ダッシュ始めるぞー。森山、萩原！」

浅岡さんの声が大きく響く。

…ったく。

筋トレの後に間髪入れずこれかよ。

聞き慣れたいつものさわやかな声も、もはやイヤミにしか聞こえてこない。

「行くよ、森山君」

雅巳が、額の汗をひとしきり拭って振り向いた。

「おう」

顔の横を大粒の汗が滑って落ちる。

それをTシャツの袖でなぐり拭きして、二人して専用トラックのスタートラインへと向かう。

国体まで、ちょうど残り一ヶ月。

練習に力が入るのも判るけど、そろそろ仕上げを考えてもいい時期だ。けど、ここ何日かの練習メニューは、とてもじゃないけどそういう内容とはかけ離れてる。

とにかく、筋トレの時間が増えた。

それも現役の大学生達と一緒の内容。

タイムトライアルももちろん一緒。

つまり、今おれ達がいるのも当然高等部の専用グラウンドなんかじゃなくて、大学のそれだったりするワケだ。

おれと雅巳の他、あと二人の三年生と残り二人は二年生。

合計六人が、付属の大学陸上部の練習に“特別参加”させられている。

「ほらほらーっ！さっさと走って来―い！」

一周が400mのトラック。フィールドでは、幅跳びやハイジャンの選手が練習してる。

おれ達は浅岡さんの声に追い立てられながら、スタートラインに駆け込んだ。そこには既に一緒に走る二人が待ってる。もちろん、これも大学生だ。

一分間ダッシュ、っていうのは文字通り、100mのダッシュと50mのインターバルを一分間ほど繰り返す。緩急の運動を繰り返す事で、スタートダッシュの集中力と瞬発力を高めるのが目的…らしいけど――

たかが一分。されど一分。

これが案外キツいんだ…。

特にこっちは筋トレの後。体力は、ほぼ使い切っている。

スタートラインに立ってるだけでも、汗がにじみ出して来る。

更にその上。連日連日、これでもか！って程の真夏日だ。

容赦なく照りつけて来る太陽を見上げていると、浅岡さんがにっこり言った。

「最後にゴールしたヤツには、特別メニューが用意してあるからなー」

…ムカつく。おれに向かって言ってるのかよ。

スターティングブロックに足を置き、100mほど先を見る。

こうなったら、死ぬ気で食いついてやる…。

ここでの練習も今日で五日目。一緒に走る先輩たちはそのほとんどが、国際大会にも出たりしているトップランナーばっかりだ。

だとしても。冷や汗のひとつくらいはかかせてやる。

「――位置について」

スタートラインに両手をつくと、ムカムカしていた頭の中がスーッと静まりかえってく。

以前なら…

スタートを待つこの瞬間は、車のアイドリングに似てると思った。

合図さえあれば、いつでも飛び出せるように常にエンジンを空吹かしして待ってる感じ。

けれど、それは違ってた。

空吹かしのエネルギーなんかはいらなくて…

スタートの瞬間だけにひたすら気持ちを集中させる。その事だけを考える。

静と動の境目は、はっきりしてる程効率がいい。

誰もがそうかは判らないけど…おれの走り方には、そういうのがしっくり来ると気がついた。

得意なスタートダッシュを更に生かして、スタートから、バランスが崩れるか崩れないかのギリギリまでを低い姿勢を保ったままで加速する。そうする事で、最高速へ至るまでの空気抵抗を少しでも減らす。

コンマ何秒を争う中では、「そんなコトが」と思う工夫が、とんでもないほど記録に影響する事もある。

そのために、浅岡さんのこの夏の「筋トレ重視！」という方針は納得してた。

背筋、腹筋、そして足腰。

不安定な姿勢を維持させるには、今まで以上の筋力がいる。

スタートが鳴るまでの一瞬の間。

出来る限り心を静かに保つのがいい。スタートダッシュの爆発的なエネルギーとの差が大きければ大きいほど、初速も乗れる。

理屈は判る。あと少し。

イメージが掴み切れるまで、もうあと少し、ってとこなんだ…。

――

「森山君」

練習後。

構内の駐輪場で雅巳が言った。

「この後、ちょっとつきあわない？」

「え？」

真っ赤な夕焼け。

辺りには、まだ昼間の熱気が残ってる。

拓さんに見せてもらった夕焼けの写真を思い出す。

沖縄では太陽の事を“てぃだ”って言うんだ、って言ってたな。片田舎のこんな赤とは全然ケタが違ってた。

けど…ここの夕陽も悪くない。

ヒグラシや…

日差しを遮る木々の緑や…

うんざりするほど底抜けの青や…

珍しくもない、当たり前の夏景色。

格別の観光地でも歴史的名所もないけれど…それでも今のおれにとっては、何処より大事な場所なんだ。

この場所で何かを形にしたい。ここでなら、それが出来るような気がする。

この間東京から帰って来てから、妙にそれを実感出来た。

「ヒマあるよね。どうせ、寮に帰るだけだもんね」

…どうせ、って――

「何だよ、お前だっておんなじじゃん」

「榎本さんからメールが来てたよ。また、別のケーキ屋さんを見つけたって。森山君のケータイにもさっき場所と一緒に転送しといた。お店の中で待ってるってさ」

「…」

ため息をひとつ吐き出した。

「…パス。戻ったらおれ、トレーニングルーム使いたいし」

「気持ちは判るけど、森山君にもちょっとは責任あるんだよ」

「はぁ？」

「だってそうじゃん。せっかく榎本さんが買ってきてくれたケーキだったのに、あんな事言っちゃったから」

「…仕方ないじゃん。本当にそう思ったんだから」

「本当にそうでも、あの場合は言っちゃいけなかったと思う」

雅巳は容赦なく言い返す。

…この間。

榎本が練習の後におれ達に『差し入れ〜』とかって、アイスティーとケーキを買って来た。

ケーキの方は、何処だかホテルの有名なパティシエが作ったとかで、あいつはエラく自慢げだったけど…

おれに言わせれば、だから何？ってな味しかなくて…

「お前にも食わせてあげたかったな。このみのタルト。あれを食べたら、ぜーったい比較になんかならないって」

「だとしても、わざわざ持って来てくれたんだよ。『ありがとう』って食べてくれれば嬉しかったんだと思う、彼女にとっては」

「…言っちゃったものは仕方ないじゃん」

「仕方なくなんかないよ。本当に悪いとは思ってないでしょ。言って何が悪いって思ってるじゃん」

「…」

「僕は森山君の走りは好きだけど、そういうとこ、人としてどうなのって思う時あるよ」

…さすがに。

おれは雅巳を睨みつけた。

「だったらお前が行けばいいだろ！メールだってお前のケータイに届いてんだからさ」

「だって森山君のアドレス、彼女に知らせてないじゃない。部のメーリングリスト作りたいって言ってたのにさ」

「そんなのいらない。連絡だったら、お前から聞くし」

「…」

雅巳は千晶に、中学の時からの片思い中だ。

さっさとコクればいいのに、それが出来ない。出来ないというより、しようとしない。リレーなんかじゃ、あれだけ大胆に相手の前に入り込んで、コース取りしちゃうようなヤツなのに、どうしてこんなコトでここまで気持ちが小さくなるのか、おれには全然理解出来ない。

お陰でこっちはいいメイワクだ。

千晶も千晶だ。

どうして、よりにもよってケーキなんだよ。

どう考えたって勝ち目ねーだろ、お前には…。

「…とにかく、今日はやらなきゃいけない事もあるし…どっちにしてもおれはパス」

「…」

二人して、自転車をこいで外へ出る。

見事な夕焼け。明日も暑くなりそうだ。

「森山君」

雅巳が呼んだ。

「今度…いつでもいいからさ、会ってあげてよ、榎本さんと」

――まだ言うか。おれは無視した。

「彼女、初めてだと思うよ。待ちぼうけなんて」

「向こうが一方的に『待ってる』だけだろ」

「そういう言い方しか出来ないコなんだよ」

「だったら――」

さっさとコクれ。

喉元まで言いかけて…雅巳がつぶやく。

「喜ぶ顔、見たいしさ」

「…」

「森山君の気持ちも判るけど…彼女にそういう顔させてあげられるのは、僕には出来ない事だと思うし」

自転車を止めた。

何だか…何処かでも聞いたぞ、おんなじような台詞。

「おれを頼ってどうすんだよ」

ぶつかる直前。雅巳は器用にハンドルを切って、ぴたりと自分の自転車を横付けた。

この運動神経がありながら…こいつってば、何情けないコト言ってんだ。

「榎本のコト好きなんだろ？だったらお前が何とかしろよ」

「…」

「おれにはどうにも出来ないんだから。お前が自分で何とかしろ」

こう見えて…雅巳がどんなに負けず嫌いかは知っている。

仮にも中学からずっとここの陸上部で、しかも一線でやって来たんだ。

最後の一分間ダッシュ、現役大学生二人の間に入り込んで、２着になったのは誰だったんだよ。体格はさしておれと変わらない。なのに、特別メニューをおれと一緒にこなしてくれちゃうほどの、余裕のスタミナ持ってるのは一体何処のどいつなんだよ。

…ったく。らしくねーったら。

「さっさと帰るぞ。腹も減ったし」

悪いけどこっちは、そーいうコトに余計なエネルギー割いてる場合じゃねーんだ。

学校に戻ったら、浅岡さんに別立てのウェイトトレーニングのメニューをもらうコトになっている。

オーバーワークにならないよう、ちゃんと考えてもらった方がいいってアドバイスをくれたのも雅巳だった。

おれにとって、お前はそういう存在なんだから。

そんな顔してもらってちゃ困るんだよ。

ペダルを踏み込む。

敢えて後ろは振り返らない。

少し迷って――後ろから、雅巳の自転車が追ってくるのを気配で感じた。

――

…さん。

拓さん。

…

名前を呼ばれた気がして、ハッとした。

陽を照り返して輝く波間。

見慣れた筈の風景なのに…何故か小さく目が眩む。

「バディチェック、終わりましたぁ」

正面にウエットスーツを着た女がいる。周りにも他に二人…三人。合計四人のダイビンググループ。

凪の海。視界一面の鮮やかすぎるマリンブルー。

紛れもなく、ここは座間味の…いつもの海だ。

「…どうしちゃったんですか？急にぼんやりしちゃって」

別の女の声がした。

「まさか船酔い？」

「まさかですよねぇ」

笑い声が小さく弾けて風に流れる。

不意に、頭をコツンと叩かれた。並木先生の声がした。めちゃくちゃよそ行きの笑顔をしている。

「はーい。じゃあいよいよエントリーします。ハンドサインはオッケーですかぁ。自分のバディの目印を忘れないようにね」

「はーい」

「よろしい。では行きましょう」

…だんだん――思い出して来た。

沖縄は、ダイビングシーズンの真っ盛り。

宮城さんのやってるペンションも、連日ファンダイビングのお客たちで盛況で…

夏休みも後半のある週末。

並木先生とペアで、初級ダイビングのインストラクターを手伝う事になったんだ…。

ボートから、次々とカラフルなウェットスーツがエントリーしてく。

それを見るともなしに眺めていると、

「――おい。大丈夫か」

先生が言った。いつもより少しだけ怒ったような顔をしている。

「大丈夫…って何が？」

「お前の頭の中がだよ」

「ああ…。別に、大丈夫ですよ」

「…」

何か言いかけて――先生は、むすっと口をつぐんだ。

「…先に行け。俺は後から行く」

「了解」

「相手は初心者だってコト忘れるなよ。てきとーにここらにあるサンゴとか魚でも教えてやれば十分だから」

「はいはい」

マスクを付けて船縁に座る。

ゆらゆらと船が揺れている。

その揺らぎの向こう側。一瞬…“あいつ”の顔が過ぎって消える。

あの後――

何があったのか…幸か不幸か、記憶に何も残っていない。

智と一緒のダイビングが夢だったのとおんなじに、有賀と再会したコトも幻だったんじゃないかと思う。

けど、それだけは夢でも幻でも何でもなくて…

「おい！」

行こうとした時、先生が呼んだ。レギュレーターを手に持ったまま、顔を上げてそっちを見る。

「しっかり集中しろよ！何かヘマしたら、今晩のナイトダイブは絶対連れてかないからな！」

朝食前。

何気なしに見たケイタイに、滅多に使うコトのないスケジュール帳の新しい予定が記録されてたのに気が付いた。

“９時、RACターミナル前”

RACは、那覇を起点に県内の離島をつなぐエアラインの事。

日付は来週。丁度一週間後の今日の話だ。

ただの待ち合わせの約束なのか…それとも何処かへ行くつもりなのか。今となっては知る術もない。

“あいつ”から、何か連絡があるかも知れない。

それならそれで…望むところだ。今更何を動揺したって始まらないし。

有賀が――いる。

それが何処かは知らないけれど…おれの近くに。

次に会っても、気持ちの準備が出来てる分だけ、この間みたいにはならないと思う。

我ながら、不意をつかれると全くもろい。

あの時は…

頭の中で、記憶がギュンギュン音を立てて引き戻された。

怖いけれど…どうにも出来ない。

ソレガ罰。コイツヘノ。

…

唇を小さく噛みしめる。

レギュをくわえて…次の瞬間。

マリンブルーの光の中に、大きく身体を投げ出した。


･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　



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