Ｓｙｎｃｒｏ　 〜第八章　§10

←Back　　Home　　Next→

うつむいて… 口元を堅く結んだままの冴子さんを見ていたら―― 前に、拓兄が言ってたコトが頭の片隅に浮かんで来た。   ――実は…おれも待っているんだ。彼女がここに来てくれるのを。 …     ――自分がさ、どれだけ相手に思われてるのか、試してみたくなるコトってないか。ずっと傍にいてくれる、それだけじゃ満足出来なくて…もっと、はっきりとした形が見たくなってくる。自分がどれだけ相手に思われてるのか、形で示してほしくなる。   ――「夢」とか、そんなんじゃなくってさ。   …       私は…冴子さんと兄キの出会いを知らない。 冴子さんが、お父さんの会社のために社会的に正しいコトだけをして来たワケではなかったコト。智兄ちゃんの事故の後、傷ついた兄キの心を利用して…更に傷つけて―― そういう行為もあったコト。 二人はそれを過去として…割り切ったんだと思ってた。 けど、今の冴子さんを見ていたら、やっぱりそれは違うのかな、って…   冴子さんは、まだまだ拓兄にとっては遠い人で… 手を伸ばしてもすり抜けて行く風船みたいに、ふわふわと心許ない存在で… 有賀さんって…人のコトだって、冴子さんは“古い知り合い”って言ったけど… 今、拓兄と一緒にいてくれているその人は、そんな時からの“知り合い”なのかな。 だとしたら。 そういう人が、今の兄キの傍にいるっていう状況は… 必ずしも安心、だなんて…してちゃいけないんじゃないのかな…。       …長い沈黙。 ううん。 長いように感じただけで、本当は大した時間はたってなかったのかも知れない。 冴子さんが、気持ちを固めたみたいに目を上げた時。 私は咄嗟に、大きく首を横へと振った。   「…このみちゃん」 「…冴子さん。私…やっぱりこれって違うと思う」 「…」 「過去の話ならもういいの。知りたいのは今のコト。これから何をすればいいかってコト。そうじゃない…？」 「…」 「あのね…兄キのヤツ、前に冴子さんの髪のコト、私に話してくれてたの」 「髪…？」 「『冴子の髪、伸びたんだよ』って。『肩の少し先までね』って。元々、私が髪切ったのだってすぐ気がつく様な人だから、全然不思議でも何でもないんだけど…でもね、そういうのって、今の冴子さんを見てなかったら気がつけないコトだと思うんだ」 「…」 「…兄キの頭の中は、いつも智兄ちゃんの思い出で一杯だから…冴子さんのコトも、もしかしたらおんなじに…止まったままなんじゃないかって思ってた。けど…そうじゃなかったんだね。兄キはいつも冴子さんのコトを見ていたし…時間は流れて、変わってくんだって…ちゃんと気がつけていたんだもんね」 冴子さんは、はっとした。   「みんな…変わってく。当たり前だよね、そんなコト。時間は進んでくんだもの、智兄ちゃんがいなくても、浩平もおばちゃんも、私だって、いつまでも前のまんまじゃいられない。…冴子さんだって…みんなそう。兄キにも判ってたんだと思う。だからせめて自分だけは、って。智兄ちゃんとおんなじ場所にいて…ずっと、傍にいてあげたくて。…そんなの、出来るワケがないのにね」 「…」 「兄キにだって…判ってた。出来るワケないって判ってたんだ。だから…自分で決めたんだもの、並木先生と一緒に行くって。智兄ちゃんとの約束にはなかったけれど、座間味に出かけてみようって。そうやって少しずつ…自分の気持ちに折り合いをつけようとしてたんだと思う」   …ゆっくりゆっくり少しずつ。   祥子おばちゃんが言っていた。 みんなで現実を見てくしかない。少しずつ。 残酷かも知れないけれど、自分の気持ちと折り合いを付けて、ゆっくりゆっくり受け入れて行く。 「今」を重ねて「未来」へ繋ぐ。 それしかない。   私と浩平。そして、祥子おばちゃん。 拓兄はきっと誰よりも、“あの頃”とは確実に変わってくみんなのコトを感じてたのに違いない。 そして、それとは別の所で… 智兄ちゃんの思いの欠片をずっと… ずっと大切に…感じてたのに違いない。だから…   ――智のためなら。智の分まで。それしかおれにはもう出来ないし。   判るけど。 その気持ちは判るけど…お兄ちゃんの悪いクセだよ。いつもそうやって自分だけ。 智兄ちゃんの思いを知らされてたのも―― 今の自分の、せめぎ合ってる思いのコトも――誰にも何にも打ち明けないで。 あの時の…浩平の気持ちがよく判る。 取り残されてしまったみたいな… 勝ち逃げされてしまったみたいな… 悔しいような…そういう思い。     冴子さんはうなずいた。 「ただ…ね、このみちゃん。私は、どんな手段を使ってでも拓をあなた達の元に戻すつもりよ。こうなってしまったのは、全て私の責任ですもの」 「…冴子さん」 「ご両親が戻ったら警察にも連絡をするわ。有賀は…何もかもを知ってるの。拓の思いも、智紘君との約束も。だからそれを利用して、彼を自分の元に縛りつけておこうとしてる。拓が記憶を混乱させた原因は…きっと、有賀のせいだと思う」 「…」 「ここに来る前、藤沢先生とも話をしたの。出来る限り早急に二人を引き離す必要があるわ。早く…安全な場所で、心を休ませてあげないと…」 静かだけれど、言葉の端々に感じる強い意志。 これだけは絶対譲れない… 冴子さんの強い意思。   『心を休ませてあげないと…』   もしも、それが出来ないと兄キはどうなっちゃうんだろう。 ずっとこのまま…？ 殊によったら、私たち家族の事も忘れて…ずっとそのままになっちゃうの…？ 訊いてみたい。けど…言い出せない。 もしも、うなずかれてしまったら―― 拓兄が拓兄でなくなって―― そのまんまになってしまうとしたら…     …その時だった。 ダイニングにある電話が鳴った。 聞き覚えのある大きな声。 それは並木先生からだった。   「明日、与那国島に行って来るよ」 開口一番。先生は私にそう言った。 「あの…その後、お兄ちゃんから何か連絡は…」 「あったよ。何度も」 「何度も？」 「スキューバの道具を取りに来たいって言うんだよ。どうやら完全に向こうに腰を据えるつもりらしい。…ねえ、このみちゃん」 「はい…？」 「俺の印象が違ってなければ…あれは、拓じゃないよ」 「えっ？」 「妙な言い方なんだけど…少なくともここにいた、俺が知ってるあいつじゃない。もっと…幼い、子供みたいな雰囲気だった。てんで悪気がなくて無邪気でさ。何処かに遊びに連れてってもらってる小学生みたいだったよ。ほんとにあいつ、全然何も覚えてないんだ、俺の事」 「…」 「普通の状態だったらともかく…そんなんなっちまったのは、あの有賀とかいうヤツとつるんでからだし…早く連れ戻した方がいいと思う。場合によっては、警察とかにも頼んだ方がいいかも知れない」 「…」   冴子さんと…おんなじ事を言っている…。 その事が、事態の重さをリアルに伝える。 …気配で察してくれたのか、並木先生は言葉を切った。 「…ご、ごめん。君にこんな話して。ご両親は留守なんだっけ？また…改めて連絡した方がいいのかな」 「…ううん。いいです。大丈夫…。戻ったらウチの親から連絡させます」 「…」 冴子さんが心配そうに私を見てる。 『電話、代わろうか？』と仕草で伝えてくれるのに、小さく首を横に振る。   「先生…。私、今猛烈に後悔してる。ムリヤリにでも兄キを止めれば良かった。自分でクリニックに行ったりするくらいなんだもの、ほんとに…具合が悪かったんだと思う。…智兄ちゃんが逝ってから、記憶を失くしたりなんていうの一度だってなかったし…今度のは本当に…本当に心細かったんだと思う」 「でも、それでどうするか決めるのは、所詮はあいつ自身でしょ？」 電話の向こう。 並木先生はさらりと言った。   「あの…有賀ってヤツも言ってたけどね、拓は自分の意思で出かけてるんだよ。結果何が起ころうと、それは全部拓自身の責任なんだよ」 「でも…」 「ダイビングもね…いや、それだけじゃない、山登りでも何でもさ、自然相手のスポーツってみんなそうだと思うんだけど…一瞬の緩みが大きな事故に繋がりかねない。だから本気で取り組むんだし…拓みたいなやり方は元々危険なんだよ、もの凄く」 「…」 「あいつは、海の中に死人(しびと)の影を探してる。…そういうのって…恐いとか、考えられなくなるからさ。無造作に何でも出来ちゃうんだよ。この先も…もしもあいつがダイビングを続けるつもりなら、そのことだけはちゃんとしとかないといけないと思ってたんだ」 「…」 「自分の責任で潜る以上は、生きて帰って来なきゃ意味ないんだよ。あいつはもっと自分の目で、しっかり周りを見ないといけない。地面に足の裏くっつけて生きなきゃいけない。今まで何とか無事に済んだのは、運以外の何モノでもないんだって――その事を、がつんと自覚させないといけないんだ。俺とした事が…お恥ずかしい。いささか甘やかしすぎちゃったよ」 「…」 「ごめん。せっかく信頼してくれてたのに…裏切る結果になっちゃったね」   …冴子さんが―― 並木先生に兄キを託したワケが、何となくその時判った気がした。 隣で、気遣わしそうにこっちを見てくれている冴子さんに笑顔を返す。     「今回の件ではっきりしたよ。俺も含めて、この責任はちゃんと取るからね。もちろん、拓本人にもきっちり取らせる」 「…ありがと。先生」 うなずくと… 並木先生も安心したのか、受話器の向こうに優しい笑顔が見えた気がした。 「私は…私も兄キには、しっかり“今”を生きてほしいって思ってる。きっと智兄ちゃんも、それを一番に望んでいたと思います」 「――そうだね」 先生はその後、明日の朝、一番の便で与那国島へ発つつもりだと言葉を続けた。 「あ…！ちょっと…ちょっと待ってて下さいね」 私は咄嗟に、受話器の口を片手で塞いで隣の冴子さんの方を見た。   「冴子さん。並木先生、明日の朝、与那国島に行ってくれるって」 「そう…」 冴子さんも、安心したように微笑んだ。 「冴子さんも…行けない？一緒に」 「えっ…？」 「お願い。先生と一緒に行ってくれない？兄キのとこに」 冴子さんの頬から笑顔が消えた。   ――判ってる。 自分でも、何てムリで唐突なお願いをしてるのかってコト。 けど… けれど今だけは…   「…私も、ずっと不安だった。浩平が向こうの学校に行くって決めて…ここから、離れて行くって決めて…あいつのそういう気持ちは判ってたけど…離れるコトが恐かった。どんなにあいつが一緒にいるって――『気持ちだけはずっと近くにいるからさ』って言ってくれても…すごくそれが恐かったんだ…」 「…このみちゃん――」 「兄キが…私とおんなじかどうかは判らないけど…もしかしたら、『余計なお世話』って笑われちゃうかも知れないけれど…でも――やっぱり私なら、好きな人には、いつでも近くにいてほしい。心の中とか、思い出とか…そんなんじゃなくて、ちゃんと近くにいてほしい…」   …冴子さんは黙ったままだった。 そう…だよね。 そんなに簡単に、うなずいてしまえる現実だったら…ここにこうして冴子さんが来たりなんてする筈ない。 とっくに全てを投げ出して…飛行機に飛び乗っている筈だもの…。       ――その時だった。 冴子さんの手が、私の持ってた受話器を静かに取った。 「もしもし…？神崎です」 しっかりとした… 大人の…女の人の声。 「…このみちゃんから聴きました。…ええ。どうもありがとうございます。あの、私もご一緒させて頂いてもいいですか…？朝一番の便というのはムリだと思いますけど…明日中には、先生と合流したいと思います」 「…」 ――私は…びっくりして冴子さんの顔を見つめ直した。   「拓は…先生の事を忘れてしまっているんでしょう？私が行くしかないと思います。…ええ。私の事も…忘れてしまってるかも知れません。藤沢先生とも話をしました。今と…過去の間で裂かれた気持ちの結果でしょう、と…。いいえ、先生の責任じゃありません。有賀が近くにいる事を知っていながら、有効な手を打てなかったのは私ですから…。それに――」 冴子さんは澄んだ視線を、ほんの一瞬遠くに馳せた。 「…彼の帰る場所はここですから。誰が何と言おうとも」   肩先で揺れる黒髪が凛と光った。 静かだけれど… 内に強い意志を秘めてる冴子さんの気持ちそのままに。     …電話を切って、冴子さんは私に向かって微笑んだ。 「約束。したものね。ここに拓を戻すって」 「ありがとう…。冴子さん」 「ううん。お礼を言うのは私の方。このみちゃんには、いつも背中を押してもらってばっかり」 「お兄ちゃんはね、ああ見えてもすっごい寂しがりやなんだって。前にナルちゃんが言ってたよ。私たちの前ではいつもクールにすましてるけど、家を出ようとしないのだって本当は、一人暮らしが寂しいからなんだって」 冴子さんは楽しそうに笑ってくれた。   「このみちゃん達も一緒に行く？飛行機は用意出来ると思うし…ご両親だってその方が…」 「大丈夫。ここでみんなが帰るのを待とうって、さっきお母さんも言ってたし」 私は言った。 「私もね、卒業したら浩平のとこには行かないで、ここでケーキ作りの勉強をしようかなって思ってるんだ。智兄ちゃんがいた所だし…みんなをこの場所で迎えたいの」 「そう…」 冴子さんは穏やかにうなずいた。   「このみちゃん。私が、並木先生に拓の事をお願いした理由はね…」 冴子さんは、その笑顔を崩さないまま話してくれた。 「あの人は、智紘君の事を知ってるの。事故に遭う前の――ううん、遭う直前の…たぶん今、拓の周りにいる人の中で、一番最後に智紘君と会って、話をしてる人なのよ」 「え…っ？」 「全くの偶然。…ううん。もしかしたら、このみちゃんの言うように、智紘君は本当に…拓の“今”を最後まで気にかけてくれていて…だから、私たちと並木先生を引き会わせてくれたのかも知れない」 「お兄ちゃんは…？お兄ちゃんはその事を…？！」 冴子さんは、ううん…と首を横へと振った。   「…ごめんね。私には、今はここまでしか言えないの。ただ…先生はちゃんとそれを拓にも…もちろんこのみちゃんにも、いつか話してくれると思う」 「…」 「先生と智紘君がそこでどんな話をしたのか…私もまだ教えてもらってないけれど…たぶん、それは他愛のない…何の気取りも変哲もない、気軽なやりとりだったと思う。だから先生は、今の拓を傍で見ていて何とかしなきゃって…思ってくれたんじゃないのかな…。私は…智紘君とは直接話した事はないけれど…彼はいつも拓の傍で楽しそうにしていたし…このみちゃんが前に言ってた通り、彼自身、自分の言葉がこんな形で親友の心に残るなんて、全然考えてもなかったと思う…」   すがる思いで… まさしくそんな一途な気持ちで… 冴子さんの言葉に耳を傾けた。 まるで…智兄ちゃんがそこにいて、冴子さんの意識を借りて… 何かを伝えようとしてるみたい――   『ごめんね…このみちゃん』   ――大丈夫。 拓の事は…大丈夫だよ。   涙が出そう…。   智兄ちゃんの懐かしい声。 頭の奥に、静かに聞こえたような気がして…   「智紘君はこの場所で…あなた達に囲まれて…不幸なんかじゃ決してなかった。…辛い現実はあったけど、彼はきっと幸せだったし…精一杯に生きていた。このみちゃんの言う通り、大切な友人の不幸を願うなんて事、絶対ないって私も信じて――」 冴子さんが言葉を切った。 「…このみちゃん」 大粒の涙。 後から後からこぼれて落ちて…いつの間にか、大きく肩が震え出す。   「…ごめんなさい。…私――」 「…」 「…私…」     お願い…誰か――   冴子さん。そして…並木先生も… 誰でもいいから―― お兄ちゃんにそれを伝えて…。   “今”を全部切り捨てて… “過去”に迷いこんで行こうとしてるあの人に… お願いだから…それを伝えて。   待っているから。 …いつまでも。 “ここ”で私たちは待っているから… ＜第八章　了＞ ･･･To be continued. 　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(C) Copyright 2004 twin All right reserved.