Syncro9-2

Ｓｙｎｃｒｏ　
～第八章　§9

←Back　　Home　　Next→

――

並木先生から…電話があったのは今朝の事。

いつものように…

お父さんは、朝刊を広げながらトーストに手を伸してて…

お母さんはサラダを作りながらキッチンにいて…

「お父さん、このマーマーレード、フリーズキールで使ってるのなんだよ」

先生と何か話してる、お母さんの様子は気になったけど――

私は、お気に入りのアイス・オ・レを小さく飲んで、目の前の、ラベルも何も付いてないガラスボトルをお父さんに差し出した。

「お店で売ればいいのに、ってこの間友貴君にも言ったんだ。ケーキの材料として使ってるみたいなんだけど、すっごくおいしいの！」

「へぇ…どれどれ」

「ケーキにだけ使ってるのなんて、もったいないよね。今度ジャムも分けてくれるって言ってたよ」

「うん。…なるほど。これはおいしい」

「でしょー？浩平と、お兄ちゃんにも送ってあげようかな。浩平ってば、寮のパンがぼそぼそしてて『うまくねー』ってボヤいてたし…」

いつもと同じ朝の食卓。

新学期が始まって、もうすぐ２週間が経とうとしてる。

日差しには、まだまだ夏の強さが残ってる。

けど…傾く太陽の感じとか――

確実に早くなった日暮れとか――秋の気配を日に日に感じる。

これからのコト。今までのコト。自分なりに考えた…高校最後の夏が、じき終わる。

国体まで、いよいよあと２週間足らず。

一般紙ではまだ取り上げられるコトもないけれど、本屋で時々立ち読みしてる陸上の専門雑誌には、相模高校陸上部のコトや…

そこと同じくらいに実力を持った他校のコトがたくさん出てて…

今度の国体での結果が色んな意味で、あいつにとって大切なんだっていうのはよーく判った。

インターハイではリレーに出ただけだったし、萩原君と違って浩平はまだ、他の個人種目でも目を見張る成果は残していない。

今度の大会は、あいつにとっては試験と同じ。

ううん。

今度の大会だけじゃなく…

ひとつひとつの記録が全て…明日の自分に繋がっていく。

改めて、自分で選んで、厳しい世界に飛び込んでったあいつを思う。

夕飯の時はここに座って…

智兄ちゃんに怒られてはふくれっ面して…

私たちの中の誰より早く、おかわりのお茶碗を突き出していた浩平のコト。

この大会が終わったら…じき、誕生日なんだよね…。

週末だけでも帰ってきたり…なんてのは、やっぱりムリなんだろか。プレゼント、何を送ってあげようか…。

――そんなコトを考えていた時だった。

「あの…ちょっと――ちょっと待って下さいね」

困ったようなお母さんの声。

受話器を手に持ったまま、その顔が不安そうにお父さんを見てる。視線がちょこっと横に動いて、私を見て…何故か一瞬口ごもる。

「…？」

お母さんはお父さんに目配せすると、再び受話器を耳へと当てた。

「判りました。…はい。…はい。お待ちしてます。はい…失礼します…」

僅かだけれど、青ざめてさえ見える横顔に私もお父さんもただごとではない何かを感じた。

「どうした？」

受話器を置くのを待ってたみたいに、お父さんが訊く。

「拓が――昨日の夜から、並木先生のとこに帰っていないんだって…」

「昨日の…夜から？」

「那覇まで…知り合いに会うって出かけたらしいの。夜には先生と海に行く約束もして、それまでには帰るつもりで出かけてて…なのに、本人からの何の連絡もないんだって」

「…」

「先生が冴子さんにも連絡してくれて…冴子さんには心当たりがあるみたいなの。もう少し調べて…また連絡くれるって」

「ケータイは？お兄ちゃんのケータイ、鳴らしてみた？」

私が言うと、

「通じないって。電源、切れてるみたい」

「…」

お父さんは、心配そうに眉根を寄せた。

「取りあえず、次の連絡を待ってほしいっておっしゃってたわ」

「そうか…」

けれど。

10分、15分…時間が過ぎても、先生からの電話はなくて…

お父さんも、そして私も、家を出る時刻も大きく過ぎて…

さっきまでの食卓の穏やかな空気がウソのように冷めてって…

――ヤな予感。

どうしようもなくヤな予感。

『これ、帰ったらまた食わせて』

こないだの、智兄ちゃんの命日に帰って来た時の兄キの言葉。

空っぽになったゼリーカップを持ち上げて見せた笑い顔。

やだ…。私…

どうしてそんなの――思い出したりするんだろ。

壁に掛かった時計を見上げて、お父さんが口を開いた。

「…こうしていても仕方がないし…取りあえず、職場に顔出してくる。連絡あったら知らせてくれ」

「判りました」

お父さんはシャツの胸ポケットの、自分の携帯電話を確かめた。

「このみ…？」

お母さんの声に、びくりと体を震わせる。

「あなたも学校行きなさい。何か判ったら連絡するから」

「…でも――」

「拓のコトだもの、大丈夫よ」

「…」

…拓のコトだもの…大丈夫――。

だから、心配なんじゃない？

…私たち、この間、話したばっかりだよね。兄キをこのまま並木先生に任せただけでいいのかなって。もっと何か…家族として、してやらなきゃいけないんじゃないのかなって。

それに…

それに…兄キは――

「お母さん、忘れたの？お兄ちゃん、最近体の調子がおかしいって言ってたじゃない。時々記憶がなくなってるみたいって。知らないうちに友達の所に行っててびっくりしたって。あんなに嫌がってたクリニックにまで行って、薬もらって…相当不安だったんだと思う」

「…」

お母さんとお父さんは顔を見合わせた。

「そんなんで…ダイビングなんてやったりしちゃいけなかったんじゃないのかな。もしかして…もしかしたら、その友達と海に出て…記憶が判らなくなっちゃったりしたんじゃないのかな」

「このみ…」

「だから言ったのに！ほんとに大丈夫なの、って！そんなんで慶良間まで出かけたりして大丈夫なのって！何度も私…言ったのに！」

「確かな事は、まだ何も判らないんだよ」

お父さんが優しく言った。

「今はとにかく…先生が連絡をくれるのを待ってみよう。心配だったら、このみもお母さんと一緒にいたらいい。その方が気持ちも落ち着くだろう」

「…」

自分でも…みるみるうちに顔が青ざめて行くのが判る。

口元に、無意識に持ってく手が震えてる。

お母さんが、そっと私の肩を抱いてくれた。

鳴らない電話を食い入るように見つめてる。

…どうしよう。

頭を巡るのは５文字の言葉。

…並木先生――

…冴子さん――

おまじないの呪文みたいに…

何度も何度も心の中で…二人の名前をつぶやいた。

それから１時間ほどがたってから。

冴子さんから電話があった。

お母さんが手を伸ばすのより一瞬早く、受話器を取ったのは私だった。

電話の向こう。

気配で察して、冴子さんが小さく息を飲むのがその時判った。

「…このみちゃん」

「お兄ちゃんは？！お兄ちゃんは今何処に、どうしているか判ったの？！」

「…」

「冴子さん！」

…お願い。

お願いだから――何か答えて。

お母さんが心配そうに私の横顔を見つめてる。

「拓は無事よ」

「…えっ」

「大体の居場所も、誰といるかも判っているの。…ごめんね。心配かけて」

「…」

「今日、拓本人から電話があって…並木先生と話したって。ケガも何もしてないみたい。ただ…」

「『ただ…』？…」

「…」

冴子さんが言葉を選ぶ。

その事が…起きてる事態の深刻さをリアルに伝える。

すぐには言葉に出来ないくらい…大変な――何か。

受話器を握って、堅く唇を引き結ぶ。

…ややあって。

冴子さんの声が静かに流れた。

「記憶を…」

「…」

「記憶を失くしてしまってるみたいで…並木先生の声を聴いても全然誰か判らなかったって…」

「え…っ」

「自分の…名前は判ってる。家族のコトも覚えてる。けど…座間味島に来た事も…今、誰とそこにいるのかも、記憶が混乱…してるみたいで」

「…」

「『智といるから』とか…『智が待ってるから』とか…そんな風に言っていたって」

「…」

「私、これからそちらに伺うわね。事情も少し…お話ししたいの」

「うん…」

「本当にごめんなさい」

「…」

「私のせいなの。こんな事にだけはならないように手を打って来たつもりだったんだけど…」

辛そうな…

苦しそうな冴子さんの遠い声。

顔を見なくても判る。

きっと…お仕事を途中でなげうって、こうして知らせてくれてるのに違いない…。

繰り返される『ごめんなさい』の音だけが、切なく何度もこだまする。

受話器を耳に当てたまま、小さくふるふる首を振る。

「ありがとうございます」

「…」

「知らせてくれたのが冴子さんでよかった…。これがもし…もしも、もっと違う人からだったら…警察とか病院とか、その方が――もっと恐かった」

「…」

「…私たちだったら大丈夫。お母さんも一緒だし。お兄ちゃんは取りあえず…ちゃんと生きて…いるんだもんね」

黙ってうなずく…冴子さんの気配が伝わって来る。

その後は…二言、三言お礼の言葉と――

忙しいのに、色々と面倒をかけてごめんなさいって謝って…

受話器を置くなり…急に膝から力が抜けた。

…

お父さんとか…祥子おばちゃんへの連絡は、みんなお母さんがしてくれていた。

お昼のご飯は、お母さんが作ってくれた冷麺を少し食べたけど…

味も何だか判らなくって…

――『智といるから』とか…『智が待ってるから』とか…そんな風に言っていたって。

冴子さんの一言が頭の中をぐるぐる回る…。

兄キはもちろん、色んな人の色んな声も頭の中をぐるぐる回って…

――

『智のためなら。智の分まで。上等じゃん。おれにはもうそれしか出来ないし』

――

『…浩平が寮を抜けてここへ来た時、覚えてる？あの時拓君、私たちに物凄く怒ったでしょう？今、あの怒りは全部、彼自身に向かっているんだよ』

…

『私を赦すって言う事は…彼にはきっと、そういう事なんだと思うんだ…』

智兄ちゃんは…

きっと最後の最後まで兄キの幸せを願ったと思う。

自分の家族の現実を打ち明けて…

例え相手が、何も返してくれなかったとしても…

それを責めたりなんてコト、決して考えたりなんてしなかったと思う。

どんなに辛い出来事も、いつかは過去へと変わってく。

私たちが未来へ向かって進み出すのも、きっと誰かに止められるようなモノでもなくて…

そういう自分を許せずに、心を縛るコトでもなくて…

兄キの…ばか。

どうしてそれが判らないの…？

二人は誰より近くにいたのに。智兄ちゃんが何を思っていたかだなんて、拓兄が誰よりも…

誰より一番、よく判ってる筈なのに。

――

私たち家族と冴子さんがリビングのソファーに揃ったのは、陽が傾きかけた頃のこと。

久しぶりに会う冴子さんは、淡いグレーのタイトスカートに白のブラウス。

玄関で…ウチの両親に深々と頭を下げた時。

さらり、と肩から滑って落ちた黒髪を見ていたら…

その髪が前より少し伸びたコト。

前に…拓兄がさり気なく――本当にさり気なくだったけど――私にそのコトを話してくれていたのを、ふと思い出していた。

「拓は今、与那国島の辺りにいるみたいなの…」

「…与那国？」

「日本最西端の島よ。台湾のすぐ隣、100キロ余りしか離れていない所にあるの。那覇からは直行便も出てるけど数も少ないし、石垣島経由で30分くらい。有数のダイビングスポットね。ただ…拓がいるのは、その与那国本島ではなくて周囲のどこか…。詳しい場所は判らないけど、あの辺には無人島も多いらしくて…」

「…」

「一緒にいるのは、有賀祥一という人よ。与那国島でダイビングのインストラクターをやっていて…正確には…『やっていた』となるのかな。ついこの間、そこは辞めてしまったそうだから」

「有賀…さん」

初めて聴く名前。

ダイビングのインストラクターという事は、最近兄キと知り合った人なんだろうか…。

「あの…その、有賀という人は一体…」

お母さんが訊く。

「私の、古い知り合いなんです」

「冴子さんの…知り合い？」

「ええ」

真っ直ぐに私たちの方を見て、しっかり言い切る。

それを見て…全身から力が抜けるくらいにホッとした。

だって――

冴子さんの知り合いっていうコトは…何の心配もいらないってコト、じゃない？

知り合い、なんだもの。

それも冴子さんの…古い、知り合いなんだから…

「あの…」

冴子さんの声がした。

「…ここからは、このみちゃんと二人だけで、話をさせてもらってもいいですか…？」

「えっ？」

私はもちろん――

お父さんも、お母さんも驚いた。

行方の判らないお兄ちゃんに関する話。

それはきっと相当に大事で重たい話の筈だ…。

それを私一人で聞くなんて…

「…」

冴子さんはうつむいた。

ローズの口紅。その口元が強く…強く結ばれる。

…この人は――

冴子さんにも判ってるんだ。

私にだけなんて…そんな話を、この私にだけなんて、決してしてはいけないって。

ホントはみんなに…

お父さんにも、もちろんお母さんにも、ちゃんと聞いてもらわなくてはいけないって。

けど…それは――

今のこの人には、まだそれは…

お母さんが、そっとソファーから腰を上げた。

「冴子さん。あのね…ひとつだけお願いがあるんですけど、聴いてもらえる？」

「はい…」

冴子さんの目が、尋ねたお母さんの方を静かに見上げる。

「先日…このみとも相談したんですけど…私たち、ここで待ってますから」

「…」

「拓や浩平君が疲れた時や…忘れ物を取りに帰って来た時、家に誰もいないんじゃ寂しいでしょう？だから、いつでもここにいますから」

お母さんはにっこり笑った。

「いくら子離れと言ってもね…たまには顔くらいちゃんと見せてって。拓に、それだけ伝えたいのね」

「はい」

冴子さんはうなずいた。

それを見て、お父さんも立ち上がる。

「席を外すと言っても…この小さな部屋の中ではね。お母さんと買い物にでも出かけてくるよ」

「うん…判った」

「１時間くらいで大丈夫？」

お母さんが訊くと、冴子さんは、はいと答えて、

「…本当に、申し訳ありません」