「宮ちゃんちを出たい、って？」

次の日の早朝。

いつものように、港で海に出かける用意をしている…その時に。

おれがつぶやいた一言を、並木先生はびっくりした顔で聞き返した。

ボートの準備はあらかた済んでる。

肝心の宮城さんは一休み。冷房の効いた待合所で一服していた。

「宮ちゃんちを出て…どうするんだよ。帰るのか、東京に」

おれは首を横に振る。

「泊まるとこは他にもあるし…先生さえよかったら、連絡くれればダイビングには付き合うよ」

「『付き合う』って…言える立場か、お前が」

先生は、拳で殴るマネをした。それを交わして、

「だって、ここでおれをほっぽり出すのは、先生としてもマズいんじゃないの？」

「…どういうイミだよ」

「おれが一緒じゃないって判ったら、写真集の出版どころじゃなくなっちゃうんじゃないかと思ってさ。そういう契約になってるんじゃないの」

「バカぬかせ」

一言、先生は吐き捨てた。

「何のことだよ、契約って。俺が誰と何の契約してるんだ」

「厄介者の面倒見る代わりに、って引き受けたんでしょ。金だけじゃなく、色々特典付きでさ」

「誰が、いつお前の『面倒を見る』なんて言った？」

「…」

「お前は給料もらってるだろ？俺がそれを支払ってるの。他にどんな関係があるんだよ。最初の約束通り、お前はここで俺と一緒に春まで写真を撮るんだよ」

「…」

「――どうも言ってるコトがよく判らないな。何が気に入らないんだ。突然宮ちゃんちを出たいだなんて…」

言いかけて。

初めて会った時から変わらない…この――

察しの悪いクォーターの写真家は、その時大きくうなずいた。

「何だ…。夕べの朋ちゃんとの一件を気にしてるのか」

「それだけじゃない！」

言下に否定。

でもそれをどう受け取ったのかは知らないけれど、先生は妙に得意そうにニヤリと笑った。

Tシャツの袖を肩までまくると、よいしょっと岸壁の縁に腰を下ろした。

「宮ちゃんは俺の大事な友人なんだから。そこを出るにしたって、ちゃんと理由を伝えなきゃ失礼だろ。わざわざこっちから春までおいてほしいって頼んだんだしさ」

「…」

時刻は…八時になろうとしてる。

座間味は今朝も快晴で――

昇ったばかりの太陽が、この日も元気に海の上を照らしてる。

沖縄地方は台風のシーズンに入ってたけど、今年は未だに台風らしい台風に当たっていない。おれ達にとっては、それはありがたい事ではあったけど、お陰で島は深刻な水不足に悩まされていた。

一日おきだった夜間断水が、今晩からいよいよ毎日になる。

そういう状況で…

いくらお客のためとは言え、のんびり浜辺でバーベキューなんかやっていられる所が、いかにもここの人たちだよな…と思う。

外地育ちの朋子さんでさえ、いつもと同じ。

あるがまま。

なすがまま。

自然に逆らったって仕方ない。

そんな…ゆるゆるとした感覚をうらやましく思う時も確かにある。

素朴な島の人たちは、余所者のおれ達とも自然に接し、気を遣ったり飾ったり…そういう所がないだけに、夕べの朋子さんとの一件は何とも言えない後味の悪さを残してた。

明らかに悪いのはおれの方。

勝手に怒って、勝手に突っかかっただけなんだから…。

「仕方ないだろ。朋ちゃんは、お前が東京で何をしてたかなんて知らないんだし」

「そうだよ。だからさ…だから腹が立ったんだ。あの人はおれを知らない。おれがどうして…何をして、ここまで来たかを何にも知らない。なのに、『似合わない』とか言っちゃってさ」

先生は笑った。

「悪口言われたワケじゃなし、何でそんなにこだわるんだよ」

「…」

――悪口言われたワケじゃなし…。

そう。だから…

だから腹が立ったんだ。

いっそ悪く言われた方が…すっきりしたかも知れないのに――。

あの時おれが嫌だったのは、行きずりの女の子と二人で会って話すコトよりも、朋子さんの純粋さ…

無邪気で、何の悪気もなくて…

精一杯の歓迎の意志を示そうとしてくれる温かさ…

そういうコトだったような気がする。

会って…

話して…

キスをして…

相手が望めばその先だって、と…普通におれは思っていたし、実際それを頼まれたら何の苦もなくうなずいたろう。面倒かけてるお礼代わり。もちろんタダで、と…。全く安易に思っていたし。

それに比べて。

腹の中では何を考えているかも判らないお客のために、わざわざ那覇まで――

日に数本の交通機関を使ってまで、お膳立てをしようとする野暮ったさ…

その優しさを…

“うっとおしい”とおれは感じた。

自分なんかには程遠い感覚。

今はもう想像さえも…出来なくなってしまった昔の記憶。

でも…かつてはおれも…

おれの中にも、そういう気持ちも少しはあって…

それのお陰で笑ったり…怒ったり…

傷ついたりもして来た筈の、その感じ。

けど今は、それを思い出したいとは思わない。

寧ろ…それらの記憶は嫌悪に近い。嫌悪というより…それは――もう…

 「二人とも昨日の事なんて忘れちゃってるよ。今更出て行きたい、なんて言う方がよっぽどヘンに思われるぞ」

「…」

「昨日も言ったけど、今日は30m以上潜るんだからな。ぼんやりして、減圧停止忘れたりするなよ」

「判ってる」

宮城さんが待合所から出て来た。他にも何隻か、ダイビング目的のボート達が出発の準備を進めてる。

「…さて。そろそろ行きますか」

「了解。今日もよろしく頼んますよ」

「何だか今朝は流れが少し強いみたいだから、ドリフトして流すのがいいみたいだね」

首から白いタオルを下げて、小麦色の笑顔が向けられる。

並木先生の言うとおり、宮城さんの声はいつもと何も変わらない。

「今年は拓君がいるお陰で、ラクさせてもらって悪いなぁ」

この日も宮城さんは海の中には入らない。カメラや照明なんかの機材は、おれと先生の二人だけで中まで持ってくコトになる。

ドリフトダイビングは元々好きだ。

深く、ゆっくり呼吸しながら、潮の流れに身体を委ねる。

頭を空っぽにして漂って…

眼下を横切る魚の群れや、珊瑚の群落を眺めやる。

そのうちに、宙に浮かんでいるような不思議な気分になって来て…

写真も何も、どうでもいい気分になって来る。

特に今朝は…本当に――

無音の中にいられれば、それだけで十分だったのに。

「拓」

先生が呼んだ。

「午後は、今夜のナイトダイブの下見に行くか」

「下見？」

「珊瑚の産卵場所。大体の位置だけでも確認しといた方がいいだろ」

「まだ少し早いとは思うけどね」

宮城さんが言った。

「まあ、こればっかりは自然のなせるワザだから」

「夕べ見た場所はテーブルサンゴが群生しててさ、それを見るだけでも十分だよ。たまには、仕事から解放されたダイビングもしたいしな」

…何だ、先生もおんなじコトを考えてたのか。

「ねえ、先生はさ」

「うん？」

「先生は、どうして海の写真を撮ろうなんて思ったワケ？」

宮城さんが笑った。

「この人はね、元々は人間を撮ってたんだよ。オカの上で」

「それは知ってる」

「色々あってね、人間不信になっちゃったのさ」

「うるさいよ、宮ちゃん」

「お魚は人と違って裏切らないからね」

「うるさいっての」

確か、先生は今年40歳だって聴いていた。

結婚の一度くらい…

もしかしたら、子供の一人くらいいたって不思議じゃない。

人間不信か…。

もしも今、宮城さんが言ったのが本当だったら、バツイチとか。

でもって子供も相手に取られちゃったとか。

そんなんだったりするんだろうか。今まで一度も考えたコトもなかったけれど…。

「この辺で…海底遺跡で話題になった場所なんてあるの？」

ボートにボンベを積み込んでいる、並木先生の動きがぴたりと止まった。

「…何だって？」

「遺跡だよ。海底遺跡。ダイビングの雑誌とかでも取り上げられたりした場所らしいけど…ほんとなの？」

「ああ。与那国島だね」

先生の隣から、宮城さんが答えてくれた。

「人工物か自然物かって今でも論争になってるらしいねぇ」

「与那国島…」

『…えっとね･･･確か与那国の――』

いつか夢で見た、智の言ってたのは本当だったんだ…。

一種の予知夢、だったのか…？

与那国には、おれはまだ一度も行ったことはなかった。

座間味のある慶良間諸島から更に南西。日本最西端の土地が与那国島だ。

「それが…どうかしたのか」

並木先生が訊いた。

その顔を見て、あれ…と思う。

さっきまでとは全然違う。極力感情を殺してるけど、おれがどうしてそんなコトを突然言い出したのかって、事の真意を確かめたい一心なのが伝わってくる。

「別に…どうもしないけど。ちょっと何かで聴いたような気がしたからさ」

「与那国の海も綺麗だよ。流れが速いから、初心者にはあんまりお勧めでない印象があるけどね、ちゃんと初心者向けのポイントもあるから大丈夫。拓君、行ったコトないの？せっかくだから、今度一度行ってみる？」

「宮ちゃん」

先生の声がした。

いつにない鋭さをそこに感じる。

「まだこいつには早いって」

「…そっかなぁ。そんなコトないよ。ここでだって、相当な場所に潜ってもらってると思うよ。ねぇ」

宮城さんの言葉に、けれど先生は大きく首を横へと振った。

「そんなに難しいポイントなんだ」

「難しいも難しい。遺跡周辺は流れも速いし、潮の向きがすぐ変わる。エントリーしたらただちに30mは潜らないとあっという間に流されて、何処にいるかも判らなくなる」

「へぇ…」

「どにかく、慶良間の海とは性質も何もかもが全然違う。――というワケで、お前にはまだムリ」

「西崎の夕陽なんかも綺麗だよ。日本で一番最後に日が沈む所だからね。後はハンマーヘッドシャークとか有名」

「――宮ちゃん」

先生の声がたしなめた。

宮城さんは小さく肩をすくめると、慌てて操縦席へと入っていった。

…与那国、島――か。

そんなに見所のある島とは知らなかった…。

ナルちゃんと潜っていた時は、出かける先は大体おれが決めていたけど、それだってついこの間まで、智と約束していた場所を片っ端から廻るのに夢中になってて…

ガイドブックを見るとか、雑誌で情報を掴むとか、ってヤリ方はあんまりしてはいなかった。

いや…。

もしかしたら。

ナルちゃんはこういう場所は結構好きだから、実は以前に、彼に誘われてたりしたかも知れない。

ただ、おれに興味がなかっただけで。

だから、一度も出かけたコトもない場所をあんな形で夢に見たりしたんだな…。

『見てみたくない?どんなんか』

『どうして海底に沈んでしまったりしたのかなぁ。ものすごくでかいんだよ、階段や神殿らしい跡もあるんだって。人工物じゃないんじゃないかとか、結構新聞なんかでも騒がれたらしいよ』

智が言っていた言葉。

思えば…あれってナルちゃんが、おれに言ってたコトじゃないのか。

ダイビングの雑誌か何かを片手に広げて、そんな風に話しかけられたのを気持ち半分で聞いてたコトが…

確か以前にあった気がする。

そっか…。

そういうコトか。

肩から小さく力が抜ける。何故か…少しほっとする。

『――会えるかも』

『そこに行けば…もう一度、会えるかも知れないのに…』

――会いたく…ないのか？

もう一度。

せっかく…智がああ言ってくれているのに。

違う。

あれは夢だから。智は…ここには、いない筈だから――

判るかも知れない。

そこに行けば…あいつが何を考えて――

本当はお前に何を望んでいたのかが、判るかも知れないのにさ。

…

怖いの？

今の自分が、智の目にどんな風に写るのか…それを知るのが。

…

智の望みは――

智ガ、オ前ニ望ンダコトハ…ソレヲ知リタイトハ思ワナイノ？

頬に当たる波しぶき。

先生が、いつもより厳しい目でこっちを見ているのに気がついた。

…判ってますって。

深い所まで潜るんだよね。

ダイブコンピューターもちゃんと準備万端ですって。

「…忘れろ」

船のエンジン音が響いてる。耳元で鳴ってる風と合わさって、先生の声がかき消える。

「えっ？」

「さっきの話だよ。与那国の」

「…ああ」

「今のお前にはまだ早い」

「『まだ早い』って言われても…何がダメだから早いのか全然判らないんだけど」

「ブリーフィング中にぼんやりしてる段階で既に失格ってコトだよ！」

あ…

今、そんなのの最中だったんだっけ。

どうりで、おっかねー顔してると思ったよ。

「さっき…お前の面倒見るなんて誰が言ったって話したけどさ」

「うん」

「面倒見てるつもりはないけど、危険なマネだけはさせないって約束したんだ。妹さんと」

「…このみと？」

「しょっちゅう意識をどっかに飛ばす兄キのコトが、あの子にはどうにも心配で仕方がないらしい。まあ…ムリもないとは思うけど」

風を切ってボートは進む。

海の青が深くなる。

海上は、まだ朝の空気がそこはかとなく漂っていて、次第に強くなる日差しに照らされながらもひんやりしていて心地いい。

おれは着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。

日中の海は紫外線が強いから、大抵Tシャツを着て過ごす。当然だけどむき出しの部分は、この数週間でびっくりする位日焼けした。

例の…モデルのバイトを忘れてる訳ではなかったけれど、こればっかりはどうしようもない。日焼け止めなんかでどうにか出来るレベルを、いともあっさり超えている。

どうせなら…

貴重な自然の恵みを素直に受ける、そんな日もあってもいいだろう。

自分の言葉で…

行動で…それが表せないならせめて――

「お前一人だけなら別に止めもしないけど…そうやって待っててくれる家族がいる以上、危ないってのが判ってて『いってらっしゃい』とは行かないんだよ、おれとしては」

「ごもっとも」

おれは笑った。

「じゃあさ、いつか先生が連れてってくれる？」

「え？」

「ヘタなガイドに頼むより安心だしさ。連れてってよ、与那国の海。今度の時でいいからさ」

予想外の切り返し。先生は、一瞬面食らった顔でおれを見る。

からかい半分。おれは真っ直ぐその目を見つめた。

「…今度って、何年先の話だよ」

先生はどきまぎしながら視線を逸らした。

「でも…まあ、いつかは、な」

「え？何？」

「お前の精進次第では考えてやらないコトもない」

「へぇ…マジで？」

「精進次第で、だぞ。…時期が来たらそのうち、な」

――そのうち、ね。はいはい。そうですか。

またまた、もったいぶっちゃって。

目的の魚に会えた時、すっかり周りも見えなくなって、夢中で追っかけて行っちゃうのは誰でしたっけ。

深度30m以上に潜るって聞いて、心配なのは先生のその“子供っぽさ”の方なんだけど…。

そそくさと操縦室の中に入ってく先生の背中を見送って、自然と笑いがこみ上げる。

「ああ…そうだ。ねえ、先生。おれ、明日出かけてきてもいい？」

「出かける？何処へ」

「那覇まで。ちょっと人と会ってくる」

「人？」

先生は背中越しに振り向いた。

「誰だよ、人って」

「…いいじゃん、別に」

「そうだよ、先生。ヤボな事は訊かない訊かない」

宮城さんが茶々を入れてくる。

「暗くなる前には帰ってくるよ。珊瑚、また見に行くんでしょ」

「ああ…そうだな。今晩の様子次第でだけど――」

先生は尚も言いかけたけど…納得したのかうなずいた。

「判ってると思うけど、お前が戻ってこないからって出発見合わせたりしないからな」

「判ってるよ、それ位」

「それで一世一代の画が見られなくても、俺を恨んだりするなよな」

「はいはい」

…言う事がまるで子供だよ。

「夕飯はどうするね？」

宮城さんが、操縦席の窓から顔を出す。

「とっといてもらっていい？朋子さんの作ったチャンプルーが食べたい」

「はは。了解了解」

宮城さんは何だかとても嬉しそうだ。

ボートは快調に波を蹴立てて進んでく。

白い波間の向こう側。

トビウオの…

数匹ばかりの小さな群れが、青い軌跡を描いて跳ねていた。


･･･To be continued.