Ｓｙｎｃｒｏ 〜第八章 §7 |
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スタートラインに両手をついて、呼吸を静かに整える。 昇ったばかりの太陽が辺りを白く照らし出す。 全天候の赤いトラック。フィールドの緑と…客席の青。 早朝の練習場にはおれ以外、まだ他の誰も来ていない。それを狙って最近は少し早めの時間にここに来ようと決めていた。 監督に連れられて、初めて来た日を思い出す。 まるで…公式大会の競技場みたいだと感じた設備と広さ。 それが今では何処よりも落ち着く場所になっている…。 スターティングブロックを力一杯蹴り出した。 25mほどを全力で走って、スタートダッシュを繰り返す。 …感じは、大分掴めて来た。 夏休み後半は、浅岡さんの言葉に従って筋トレ重視でやって来た。 今までこんなに真剣にマシンと格闘したなんて、きっと一度もなかったと思う。元々好きじゃなかったし…成果を実感出来た試しもなかったし。 けれど、それも今年は違う。 今月末から始まる国体にはインターハイで優勝したリレーだけじゃなく、100と200にも出場する。転校してから、100と200ではまだ公式大会で相応の記録を出したワケではなかったけど、インターハイでの実績と連盟の特別推薦を受けての事だって監督がおれに教えてくれた。 出場種目は全部雅巳とかぶってる。 もちろんあいつは最初から、実力を買われた上での出場だ。 今までは格の違う存在だったあいつの事を、初めて目標として意識した。 他にも速いヤツはいる。 だとしても。この大会で、おれの目標は雅巳に勝つこと。 『ごめん。思わず本気出しちゃった』 あの日の事は、思い出す度ハラが立つ。 今なら判る。こんな近くに…あんなにすごい相手がいたコト。それに気付かず過ごしてたコト。 だから勝ちたい。 堂々と、今ここにいるあいつに勝って…智兄に――真っ先にそれを伝えたい。 小さく弾む息を整え、スタートラインに戻ろうとして… 脇のベンチに―― 榎本千晶が座っているのに気がついた。 「おはよう」 千晶が笑った。 新学期が始まって今日で三日目。制服姿のこいつと会うのは久しぶりだ。 トレードマークのポニーテールが小さく揺れた。 条件反射的におれはその場に立ち止まる。 「なーに警戒してるのよ」 …ふつー警戒するだろ。 お前といると、いつもロクな事がないからさ。 「森山君、変わったね」 千晶が言う。 「こういう地味な練習は、嫌いな人だと思ってた」 「…みんなやってるだろ、こんなコト」 「だから嫌いなんだと思ってたの。やっと自分の足下が見えて来た、かな」 「うるさい！何が言いたいんだよ、お前！」 「怒らない怒らない。図星指されて怒るのは子供の証拠」 千晶は、楽しくて仕方ないって顔で笑い出した。 …一体どっちが子供だよ。 6年間の片思いされてるなんて、全然何も知らないクセに。 「あ。そうだ」 千晶が思い出したように声を上げた。 「森山君に見せたいモノがあったんだ」 手に持っていた小さな紙片を広げだす。それは、雑誌か何かの切り抜きだった。 片手の平に乗っかる程度の小さな切り抜き。 載ってる写真には見覚えがあった。 ――あの店だ。 会田のいる… このみがケーキを作りに行ってる“フリーズキール”。そしてその前に、白いエプロン姿で並んだ二人―― 「高校生が作ったケーキが話題のお店なんだってよ」 千晶が言う。 「『会田友貴君と織原このみさん』って写真入り。すごいじゃない？この雑誌、全国誌なのよ」 千晶はおれの顔色を盗み見ながら視線を流した。 記事によると… “フリーズキール”で秋の新作として売り出したチーズタルトは、地元は元より近県でも口コミで話題になってるらしい。 元々地元では「美味い」って評判の店だった。 このみが“5th.Avenue”の三村さんから聞いてきて… 近所だし…前から知ってはいたけれど、それからは更によくあいつが通うようになった店。 会田がそこの跡取りだって知ったのは、全くの偶然らしいけど…。 このみのヤツ…何にも言ってなかったな。 まさかおれがこんな雑誌を見るなんて、思ってもみなかったからかな。 会田の助けがあったとしても―― こんなに小さな記事だとしても… 全国誌に載るなんて、それなりに認められたってコトだよな…。 ――可哀想ですよ、このままじゃ。 …なるほどね。 あいつにも少しは根性があったか。 おれにとってこれでまた一人、勝たなきゃならない相手が増えたってワケだ。 改めて、その切り抜き記事に目を落とす。 昔から… このみは色んなモノを手作りしてた。 流しに背も届かない頃からおばちゃんの隣にひっついて、専用の踏み台を自分で運んで…クッキーの型抜き。バン作り。そしてケーキやデザート作り。 大方は、“智兄のため”って名目付きではあったけど…すごく楽しそうだった。 夕食後には、四人でそれを囲んで… どーでもいい話で笑ったり、何かの取り合いでケンカになったり。 何年も何年も… 当たり前みたいにおれ達は、そういう時を過ごして来た。 だからかな… この間食べたチーズケーキも… “5th.
Avenue”で食べた新作のタルトにも… いつもの“フリーズキール”の味とは少し違った、懐かしさ…。安心出来る何かがあった。 もしもここに智兄がいたら、きっと同じように感じたと思う。 こうして離れて初めて判る。 あいつの作ったケーキには、おれ達の過ごして来た時間が息づいている。あの頃と何も変わらない…いや。変わったコトも全部含めて、今のおれ達に繋がっている。 それはきっと昔から――。 『ここにはいない智兄を、忘れるのでもなく…嘆くのでもない。そこから始める。ゼロにするんじゃなく連れて行く。』 …何のことはない。このみが一番判ってるんじゃん。 うかうかしてるとこっちが置いて行かれそうじゃんか…。あいつはとっくに自分の力で一歩を踏み出し始めてる。 「これ…もらってもいいか？」 千晶が、えっ？って顔で聞き返す。 「お守りの代わりにしたいんだ。何だかすっごく効きそうな気がする」 「これを？お守り代わりに？」 「そう。いいだろ、もらっても」 「…」 千晶は一瞬面食らったような顔をして、 「別に…いいけど――」 何考えてんの？とでも言わんばかり。ぎこちなくうなずく。おれはそれを、さっさと畳んでポケットの中へとしまいこんだ。 「やっぱ…変わったね。森山君」 それを見て、何故かムッとしたように千晶が言った。 「？…何がだよ」 「…」 …さっきまでケタケタ笑っていたクセに。今度は突然ふくれっつらかよ。 全くワケの判らないヤツ…。 そろそろ他のチームメートも姿を見せる。その前に、もう何回かだけでも練習しとくか。 気持ちを変えて。 おれは千晶に背を向けた。 ―――― 夕飯のテーブル。 「暑い夏こそ温かいメニュー」が信念のお母さんの今日の献立は、夏野菜をふんだんに使ったカレーライス。香草のサラダにブロッリーと春雨のスープ。 お兄ちゃんと祥子おばちゃんのコトがあってから… お母さんは何となく家にいる時間を増やしてる。 以前はテニスに出かけたり… そこで知り合ったお友達とカラオケや買い物に出かけたりして、夜もいない時もあったのに。 二人で食器をダイニングに並べた。 お父さんからの帰るコールはまだ来ない。 対面式のキッチンなんだから、二人っきりの夕食だったし、カウンターで食べてもよかったんだろうけど、お兄ちゃんが座間味に出かけてからも今まで通りにダイニングで食事を取っている。 習慣、って言うか… 何となく、それを崩したくない思いが私にもお母さんにもあって… お兄ちゃんが使ってた草色の麻のランチョンマット。 この間帰って来た時に使ってたのが、そのまんま畳んで置きっぱなしになっている。 ホントはこれ、私が使う筈だったんだよなぁ…。 自然っぽい色が気に入ってたのに、上手いコト言って取られてしまった。 「拓がいない間だけでも借りちゃえば？それ」 お母さんが言ってくれだけど…私はううん、と首を振った。 「いい。“貸してやってる”って思われるのも憎たらしいし」 「ねえ、このみ」 「何？」 「その…拓のコトなんだけどね」 私が差し出したお皿を受け取りながら、お母さんが言った。 「並木先生に全てお任せするみたいになってしまったけど…本当にこれで良かったのかしらね」 「…どういう、コト？」 「夕べ…お父さんとも話したんだけど、ホントは少しずつでも祥子さんと話しをしてもらった方が良かったのかな。もちろん…今すぐにじゃないけど」 「…」 「祥子さん、再婚の話、断っちゃったらしいの」 「ええっ？！」 「相手の先生は北海道に転勤も決まったし…そうそう結婚を先延ばしにも出来ないしって、結局お断りしたって。先方は『考えさせてほしい』ってお返事だったみたいだけどね」 「…そんな」 「ウチの方は気にしないでって何度も言ったんだけどね。祥子さんってば『今更、急ぐ話でもないし』って。『今は拓君の心の方がずうっと大事でしょ』って、逆に心配されちゃって。私たちも…拓の気持ちとか考えてはいたつもりだったけど…言われてみれば、あの事故以降みんなでゆっくりそういう話、したコトってなかったし」 「…」 「…もう遅いのかも知れないけど、みんなでもっと話しなきゃいけなかったのかな。お互いの気持ちだとか…そういうの」 渡したお皿にたっぷりと夏野菜カレーのルーをかけて… お母さんは珍しく、ため息なんかをついたりした。 「でも…お兄ちゃんが座間味に行くのはクリニックの先生も知ってるんだよ」 「うん。けどね…家族の問題なんだしね」 「…」 「並木先生だって、どんなにいい方でも所詮は他人なワケだし…私たちとしか分かり合えない気持ちっていうのも、きっとあると思うのね」 「…」 「拓はこのみのお兄ちゃんだし、私たちの家族だし…もっと、こう、家族みんなで何かしなくちゃいけなかったんじゃないのかな」 …お母さん達はお母さん達で、やっぱりショックだったんだろう。お兄ちゃんが祥子おばちゃんをあんな風に見てたコト。 あの事故が誰かのせいだなんて、考えたコトもなかったけれど――もちろん飛行機会社の整備不良とか、後から発覚したやり切れない原因は幾つも幾つもあったけど――智兄ちゃんが心にしまって来た思いとか…祥子おばちゃんや、お兄ちゃんの中に取り残された現実の重さを思う時… たくさんの後悔や、誰かを責める思いが生まれたとしても不思議じゃない。 ただ…それに囚われてしまうのは辛いと思う。 お兄ちゃんにも、それはきっと判ってる。 判ってるから…智兄ちゃんの憧れてた海に、ここから離れて…出かけてみようって思ったんじゃないのかな。 「ねえ…お母さん」 「うん？」 「私ね…大学行くのやめるかも」 お母さんは特別驚くでもなく、いつもと同じにやんわりとその言葉を受け止めた。 「まだ、はっきり決めたワケじゃないけど…フリーズキールでスタッフとして働こうかなって。私、この街にいたいの。出来れば…ずっと、これからも」 「そう…」 「浩平やお兄ちゃんが帰って来た時に、『お帰り』って言ってあげたいし…智兄ちゃんは、やっぱり今でもここにいるって思うから…みんながいなくなってしまうのは、何だか…かわいそうな気がするし…」 「…」 「どこにいたって新しいコトは始められると思うんだ」 お母さんは、にっこり笑った。 ――もしよかったら、卒業後はウチでスタッフとして働いてみませんか。 友貴君のお父さんからそんな風に言われたのは、ほんの数日前のこと。 “フリーズキール”で…スタッフとして働く。 憧れのお店だったし… 最初は信じられなかったけど、例のチーズタルトをきっかけに取材を受けたり、色んなお客さんやスタッフの人たちとも話をして… モノを作るって、やっぱりいいな…って。そんな気持ちが固まり始めた。 お店の人たちは、一個一個の商品をとても大事にしていたし… 全部が手作り。個数も限定。そうでなければ一定の味は保てない。そういうこだわりも持っていた。 楽しいだけじゃない真剣さとか…素材の扱い方の奥深さとか… ここでなら、私の知らない知識をたくさん学んでいけるような気がした。 「余り深刻に考えないでいいですよ。進学されると伺ってるし…アルバイトのつもりで、気軽に遊びに来て下さい」 迷う気持ちを察したみたいに、友貴君のお父さんにそんな風にまで言ってもらえて… 今の自分がやりたいコトって、一体何なんだろうって考えてみた。 ――今は…ここに、まだいたい。 拓兄も浩平も、知らない土地でがんばっている。 もちろん私も、いつかはここから…離れる時がやって来る。 けど今は…みんなの思い出が一杯の…この場所にいたい。 そういう選択もあり、だよね…。 みんながここを離れてく、その中で私だけここにいたいと思っても…それは許されるコトなんだよね…。 「そうね…。安心して帰れる所って、誰にとっても必要かもね」 お母さんがしみじみつぶやく。 「あの子が、一番誰かに近くにいてほしいって思ってる時に、私たち以外の他の誰かを選んだってコトも…子離れなんだって、思っちゃっていいのよね」 「きっとね」 心配顔のお母さんに、うんと大きくうなずいて… 「それに…並木先生は、お兄ちゃんに危ないコトはさせないって約束してくれたよ。冴子さんが信頼してる人だもん、大丈夫だよ」 香辛料の香りが鼻をくすぐる。盛りつけを済ませて、いそいそとテーブルの椅子につく。 「さっ。食べよ、お母さん」 いつもだったら、私がこうしてお母さんに励ましてもらってるのに。 今日は逆。 『拓はこのみのお兄ちゃんだし、私たちの家族だし…もっと、こう、家族みんなで何かしなくちゃいけなかったんじゃないのかな』 お母さん達のその気持ち、きっと拓兄にも伝わってると思うよ。 私たちはここにいるから。 みんなの帰りを待っているから。 |
