| Ｓｙｎｃｒｏ 〜第八章 §8 |
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…身体が――揺れた気がして目が覚めた。 小さく聞こえる波の音。 遠くに聞こえる話し声。 息を吸い込もうとして…その瞬間。いきなり激しく咳き込んでしまう。 まるで何かに咽せたみたいに、気管の奥からこみ上げる何とも言えない不快感。 反射的に背中を丸めて膝を抱える。 その間も、喉への刺激は止まることなく…大きく身体が震え出す。 「おいおい。大丈夫か」 背中を軽く叩かれて…やっとの事で少しずつ喉から空気が入って来た。 口の中の塩辛さ… それに気付いて、はっとした。 横向きに、身体を丸めてうずくまっている… 寝かされてるのは板張りの――濡れた床。堅い気配に飛び起きる。 ――真っ赤な夕焼け…。 辺り一面の鮮紅色。 見慣れた筈の…座間味の色とは何処かが違う。頬に当たる夕暮れの風。走るボートのモーター音。全て知ってる。知ってる筈の…音ばっかりだ。 なのに――違う。明らかに。 「全く…びっくりさせるなよ。せっかくのデートであわや遭難なんて洒落にならないよ」 夕陽に背を向けている…影になってる男の顔はここからはよく判らない。 起き上がりはしたものの、床に座り込んだまま… 額から次々流れて落ちる水の滴の冷たさに、だんだん意識が繋がり始めた。 「ダウンカレントに巻き込まれちゃったんだよ。ブリーフィングで言ったのに。聴いてなかったろ、拓」 有賀は、濡れた前髪をうっとおしそうにかき上げた。 「与那国の海は潮の流れが速いから、とっとと潜行しないとさ。まあ…なかなかスリリングな経験だったよ」 「…」 笑うと立ち上がり、ヤツはボートの操縦席にいる別の人影の方へと歩いて行った。 恐らく…岸へ向かうつもりだろう。 ボートはゆっくり旋回し、次第にスピードを増していく。 …海水を少し飲んだみたいだ。喉の奥が、ひりひりしている。 ダウンカレントに巻き込まれた、って言ってたな… 一体どの位深みに引き込まれたんだろう。 頭が痛い。指先が軽く痺れてる。軽い減圧症にかかったのかも…。 両手をゆっくり開いて閉じて…痺れの具合を確かめる。 ――ターミナルで有賀と会って… 話して… そこから先の記憶が切れてる。 身につけているウェットスーツは当然自分の物じゃない。…フィンは脱がされていたけれど、角に片づけられた道具は全て心当たりのない代物だ。 視線を船縁から向こうに馳せる。 辺りは一面のオレンジ色だ。 夕陽とは言え、差し込む光はまだ強い。座間味の優しい夕陽とは全く違ったその強さ。 波を蹴って進んでくボートの風を受けてると、奥から有賀が戻って来た。 ウェットスーツの半身を脱いで、手にはビールの缶を持っている。 大人しくそこに座ったままのおれを見て…嬉しそうに隣に座る。 「どうだった？…っつっても、ほとんど見えなかったかな、遺跡の中は。あと少しでテラスまでたどり着けたんだけど」 「…」 「大体ね…ここを一日足らずで潜ってみようっていうのが無謀なんだよ。拓に見せてあげたいんだけどなぁ…もっともっと色々なとこ」 潜っている時の記憶も残っていない。 何を見たかも… 巻き込まれたというカレントの勢いも、その恐怖さえ、頭に何も残っていない。 なのに… 有賀は何の違和感も感じてる様子はなさそうだ。 おれの記憶にはないけれど…その間もおれはこいつと話し… ごく普通のやりとりをして…ここにいたってコトなのか？ 「やっぱ帰っちゃうの？今晩」 ヤツが言う。 「明日もきっといい天気だよ。そしたら朝イチでさ、もう一回ここにトライしようよ」 「…」 ――どういう成り行きでここまで来たかは知らないけれど…こいつとここにいる現実が、どうしようもない嫌悪を募らす。 こいつの声。話し方。全てが“あの時”へと繋がっていく。 二度と…思い出したくない“あの時”へ。 咄嗟にそこから立とうとすると、有賀の腕が素早く伸びて引き戻された。 「怒るなよ。ムリにとは言わない。今日帰るってのは約束だったしね。お目付役が待ってるんだっけ」 掴まれた腕に力がこもる。歯を食いしばって振りほどく。 「あんた、何か勘違いしてるんじゃないの」 「え…？」 「おれはあんたとはもう会わない。ここにも来ない。さよなら、って言ったよね」 有賀は不思議そうな顔をした。 「面白いコト言うね、拓は」 「…」 「付いて来てくれたのは君の方からだったのに。『遺跡が見たい』って言うからさ。わざわざボートも、道具だって、店長にムリ言って借りて来たんだよ」 操縦席にいる別の男が、ちらりとこっちを振り返る。 真っ赤に染まる辺りには、もちろん他の船影もない。 「まるで、もう一人…別の拓がいるみたいだね」 有賀は楽しそうに微笑んだ。 「それはそれで掴み所がなくて…君らしくていいけどね」 ――もう一人…別の拓がいるみたいだね。 有賀の声が波の様に打ち寄せる。 その意味を考えようとしたけれど、重たい頭痛がそれを拒んだ。 ――イインダヨ。ソンナノ何モ考エナクタッテ。 ――“拓”ハ、ソコニソウシテイレバイイ。今ハマダ、ソウシテルダケデイインダヨ。 … 有賀が勤めるダイビングショップで、シャワーを借りて…着替えを済ませた。 何人かの旅行客がいて、インストラクターと明日の予定を確認したり… ツアーの相談に来たりしている。 ごく当たり前のショップの風景。 …身体がだるい。 時間にすれば…昼の休憩をはさんで半日足らず。並木先生と一緒の時は、一日海にいたってこんなに疲労する事なんか有り得ない。 両手の痺れはだいぶ軽くなってはいたけれど… まだ、いつもの感覚とは違ってる。 出されたコーヒーを飲む気にもなれず…そっと両手を握り締める。 「送って行くよ」 スポーツタオルを濡れた頭に引っかけて、ヤツが出て来た。 「手、痺れてる？一応減圧停止は十分しながら浮上したつもりなんだけど…あっという間に30mは沈んだからね。ほんとに危ないとこだったんだよ」 「…」 時刻は５時を回ってた。 今から…飛行機で、那覇まで戻れる便があるんだろうか。確かそんなに本数は多くない筈だったけど…。 今晩は並木先生と、例の珊瑚の産卵を見にナイトダイビングをする予定になっていた。 このままじゃ、とても間に合わない。 「残念ながら、那覇までの直行便は週3本しかないんでね。フェリーももう終わっているし…飛行機で一度石垣まで出るしかないね。どっちにしても、ギリギリ間に合うかどうか」 車のキーを小さく振って… 人の気持ちも知らないで――元よりそういう期待はなかったけれど――ヤツは気楽にそう言った。 さっそく有賀の車で与那国空港へと向かう。 石垣島まで…飛行機で約30分。そこから那覇まで小一時間。更にそこから座間味まで… 果たして足があるんだろうか。 「――どうだった？与那国の夕焼けは」 とっくに慣れた道なのだろう、有賀は片手でハンドルを握って話しかけた。 「慶良間の風景とはまた全然違うだろ？もっと男性的でさ。海もおんなじ。潮の流れも複雑だしね、そこがまた何ともいいんだよ」 「…」 …こいつがこんなによくしゃべる男だったとは知らなかった。 こっちは時間が気になって、話の半分も聞いちゃいない。先生にメールをしておくか…。ヘタしたら石垣で一泊か…那覇の泊港で足止めだ。 それにしても、一体どうして… 与那国から座間味まで、そう簡単に行き来出来る距離じゃないコトはおれならとっくに判っている筈――。 その時、気付く。 おれなら…とっくに―― その言葉が持ってる違和感に。 おれじゃ…ないから？ 有賀から、与那国行きの航空券を見せられて…それを受け取ったのが“おれ”じゃないから…？ だからダウンカレントにも気付かずに… ブリーフィングの有賀の言葉も理解出来ずに、巻き込まれたりしたっていうのか？ … 「拓はいつから座間味にいるの？」 有賀の声に我に返った。 「…何？」 「…何だよ、もう。さっきから全然人の話聞いていないだろ。いつからいるの、って言ったんだよ。今、座間味にいるんだろ」 おれはどきりと隣のヤツの横顔を見た。 「…どうしてそれを」 「『どうして』じゃないって。自分でそう言ってたじゃん。写真家の並木哲史といるんだろ？冴子お嬢さんのお言いつけでさ」 「…」 記憶にない。それも全く。 ――おれじゃ…ないから？ その一言がリアルに浮かぶ。 ――何だ…？一体何なんだ…？ おれの中で…何が起こって… 車が止まった。信号待ちか…。 混乱してる思考を持て余す。気分が悪い。吐きそうなくらい。 今考えかけたコト。 続きを整理したい一心で、何とか意識を集中させる。けれど何を何処まで考えてたのか、押し流されて消えそうになる。 必死に何かにつかまって… 流されないように踏ん張っている…。 それさえひどく心許ない。 もし、あともう少し…この流れが強くなったりしたら、また流されてしまいそうだ。それ位、自分を支えてるのがかったるい…。 「何だか、ずいぶんしんどそうだね。車に酔った？」 おれは首を振る。 何でもいい。 何でもいいから…早くここから――離れたい。 有賀の、薄い笑顔の奥に…別の何かが見え隠れする。 判ってるのに…意思が身体に伝わらない。 「…早いもんだねぇ、四年だなんて」 タバコに火を付けながら有賀がつぶやく。 「あの頃は、いじらしいまでに自分を責め続けていたけどさ、それからどうなの？彼は、もう拓のコトを許してくれたの？」 どきり、と小さく身体が震える。 「…なワケないか。もしもそうなら、おれの事、そんな風に拒否ったりしないもんな」 「…」 「ダメだよ、辛いからってここから逃げようとしたりしちゃ。ずっと一緒だって決めたんだろ？彼はここにいたかった。その思いを打ち明けられたのは、拓一人だけだったんだから」 「…」 「大切な存在だったんだもんね。ここで拓が時間を前に進めたりしたら、彼は独りぼっちになっちゃうからさ」 左手の窓に、夕闇に包まれ始めた海が広がる。 ライトグリーンの水面の上に、水平線近くに残る橙色、その少し上の赤…そして青、紫。 上空は既に漆黒へと変わり始めてる。 都会にはないダイナミックなグラデーション。 座間味の夕陽も綺麗だけれど…ここの景色はそれだけじゃない。 切り立った崖。 美しい風景に隠された数々の悲恋や悲惨な伝説。 明るさだけでは語れない、この島の歴史が存在してる。 おれじゃない…。 ここにいたかったのは――おれじゃないのに。 『ねえ、拓。夏休みにさ、沖縄行かない？体験ダイビングとかやらせてくれる店が一杯あるってここに出てるよ』 遠い夏。 弾んだ智の声を思い出す。 『父さんと…話してみようと思って』 ――お前が行ったからって何になる？ 悪いのはお前の両親で…お前じゃないのに。 ――でもさ。 別の所で声がした。 …拓は許したろ？母さんに再婚してもいいよ、って。 過去を忘れて…新しい自分の生き方をしていいんだよ、って。 … それは、全てを拓が負ってくれるって事だよね？拓だけは、僕を一人にしたりしないよね？ ――ここにいたかったのは僕だから。 君がいたかったのは…ここじゃ――ないよね？ 思わず両手で顔を覆った。 それを見ながら、有賀の声が淡々と続く。 「だから拓は、俺を避けたりしちゃいけないんだよ。俺といたろ？あの時も。一緒の時間と引き替えに、夢に近づこうとしていたろ？」 …忘れていない。 忘れられる筈が…ない。 「だったら…ここにいなくちゃ、さ。彼が見たかったのはここの海だよ。お優しい座間味の海じゃなく、ここの海。拓を深みへと引きずり込んだこの海だ。ずっと待っていたんだよ」 「…」 顔を覆ってた手が除かれる。耳元に近づいて来る声は、抗う術もないままに全てが意識に流れ込む。堰き止めるものは何も…ない。 逃げなきゃいけない…こんな場所から。 判っているのに…動けない。 ―― 『あれはすごいぞ。真近で見ると鳥肌がたつぞ。何しろ、地球上最大の生き物が“跳ぶ”んだからな。一度見たら病み付きになる』 …何処かで聞いた声がする。 あれは――誰の声だっけ…？ 『判ってると思うけど、お前が戻ってこないからって出発見合わせたりしないからな』 ――判ってるよ、それ位。 『それで一世一代の画が見られなくても、俺を恨んだりするなよな』 ――はいはい。… 『あんたはねー、もっとそうやって笑った方がいい』 ――え…？おれ？ 『そんな綺麗な顔して生んでもらって、綺麗な海に潜るんだしさー、海は生命の源だから。幸せそうにしていれば、もっと大きな幸せ、生まれて来るかもよ』… 身体にかかるヤツの重みのせいだけじゃない。息が…出来ない。 前に、クリニックを出たとこで起こった感じとおんなじだ。 頭の中が回り出す。呼吸を継ごうとあせるほど、それは空しい徒労に終わる。 Tシャツの下。するりと滑り込んでくる冷たい手。 シートが静かに倒される。 苦痛の閾値が振り切れる。 『拓。お前、珊瑚の産卵って見た事あるか？』 ――珊瑚…？ 『珊瑚ってタマゴを産むんだぞ。知ってたか？』 … 何処かで…誰かと交わしたやりとり。誰だっけ… そこにいたのは誰だった…？ …タスケテ。 思い出せない―― 見えない誰かに伸ばした腕は、あえなく掴まれ、封じ込まれる。 静寂が、意識の全てを包み込み… 辺りは闇に包まれた。
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