先生は“寄り道”という言い方をしたけれど…
座間味へ行くというコトは、地理的には寧ろ“戻る”という感覚に近いと思う。

おれ達がいるこの島から、いったん船で与那国へ出る。そこから飛行機で那覇に戻って…高速船で座間味まで。たぶん丸々一日がかりだ。

しかも…与那国から那覇への直行便は、あっても本数は限られる。そして案の定、この日は運休。おれ達はやむなく一度石垣へと出る事にした。

東京で、路線バスを乗り継ぐのとはワケが違う。

先生はツアコンさながらに乗り継ぎ時間の調整をして…

あとは、空港で当日分の座席が取れるかどうか。行ってみるしかないという、行き当たり的な話になった。

与那国島までは、専用の高速船などあるワケもなく…島に日常品を運んで来る定期船に便乗して行く。

元より小さなこの島は、慶良間ほど観光が活発ではない。

海も浜も確かに綺麗で…魅力的ではあったけど、ここらの海は、そのほとんどが一般客には遊泳禁止になっている。座間味のように遠浅でもなく…島の周囲は切り立っていて、崖も多い。外洋が近いというコトもあって潮の流れも早いから、初心者ダイバーには敬遠されてる。

だから結局島の主要な働き手は、石垣や那覇に出稼ぎに出る。

地元で農業などをする人もいるが…それは、先祖代々の土地があるとかの一部の人だ。

あの、礼という少年の母親も…たぶんそう。

『拓は…？！』

『拓は…もう待たないの？ここで大切な友達が来るのを、ずっと待つんじゃなかったの？！』

…淀んだままの記憶の流れ。

身を乗り出して訊いて来た、必死な顔に胸が痛んだ。

彼と、そんな約束をした事も正直はっきり覚えていない。けど…おれの不用意な一言が、礼に余計な期待を繋ぐきっかけを与えてしまったのだとしたら…。

せめて…一言謝りたい。

今更会って、何を伝えようとした所で、それは言い訳にもならないだろうし…彼を混乱させるだけだろうけど。

浜で、おれの掌を包んでくれた小さな手。

…忘れたくない。今度こそ。

今の自分に許される精一杯の願いを込める。

…

桟橋から船へと乗り込んだ。

冴子が先に行こうとするのを制して手を差し伸べる。彼女は、僅かに一瞬とまどってから…嬉しそうに微笑んだ。

「…何？」

「ううん。…何でもないの」

「おれ…もしかしたら冴子にも…ひどい事を言ったりしたのかな…」

「ひどい事？」

「礼に、言ったみたいにさ…おれが覚えてないだけで…」

冴子は笑った。

「…どうしたの？」

「今…おれの手につかまるの、ためらったでしょ。だから、何か思い出させてしまったのかなって思って」

「そんな事…もしもあったら、今頃ここにいたりしないわ」

「…」

「記憶があってもなくても…あなたの優しさは変わらないんだなって嬉しかったの。…それだけよ」

彼女は静かに目線を上げた。

“見て”と言う代わりに桟橋の向こう側へと視線を投げる。

そこには…礼が立っていた。

ただでさえか細い華奢な体が、いっそう儚く頼りなく見える。桟橋を行き交う人々の間を、礼は誰かを捜してるみたいにきょろきょろと視線を泳がせていた。

おれに…会いに来てくれたのか…？

声をかけるか…どうするか。

本気でためらう自分に驚く。…らしくない。こんな事で迷うだなんて。

…傷つきたくない。これ以上。

失いたくない。もう誰も。

そんな思いが咄嗟に体を凍らせる。

並木先生が乗り込んできた。小さな船が僅かに揺れる。

「…ヘタしたら、那覇で一泊かも知れませんね。もう10時だし」

冴子がうなずく。

「ご家族には、先ほど連絡をしておきました。快く了承してくれましたけど…出来れば彼の声を、少しでも早くこのみちゃんに聞かせてあげたいんです」

「そうですね…。石垣か那覇から一度電話をさせましょう。このみちゃんは新学期が始まっているんだろうな…。だとしたら、夕方の方がいいのかな」

二人の会話を聞くともなしにぼんやり見つめる。

おれの話をしてるのか…。

『電話をさせる』って…おれに電話をかけろって事か…。

…頭が重い。

ひとつひとつの判断がスムーズに行動として伝わらない。でもそれを何故か歯がゆいとは感じない。おれの周りだけ、時間が切り離されてるみたいな感じ。

ガラスばりのケージの中に、ぽつんと閉じこめられているような。

そう言えば…このみにも…もう、ずいぶん会ってない。

浩平は…？

母さんは…父さんは…

そして…あの人は…

船底から低く響き始めたエンジン音。ゆっくりと…船が桟橋を離れ始めた。

岸を忙しく行き交う人々。

礼の前には大きな背中。白いTシャツの大人の背中が立っていた。船からのおれの視線はそれに遮られて、彼の姿を捉える事は出来なくなった。

「拓」

先生が呼んだ。渋々そっちを振り返る。

「これ。預かって来たぞ」

渡されたのはおれの携帯電話だ。

「さっき、有賀に返してもらった」

「有賀…」

もう一度視線を戻した桟橋には礼がいて…有賀と並んで、動き始めたおれ達の船を見つめてた。白いTシャツの背中はヤツだったのか…。

冴子が何か言いかけたけど、先生が首を振ってそれを制した。

「二人に、別れを伝えて来たか」

「…」

「お前はここから始めるんだから。誰かに無理矢理引きずられて、自分を見失わなきゃならないような思い出とは、ちゃんとケリをつけて来い。でないと、いつまでたっても同じコトの繰り返しだぞ」

「…」

「抜け落ちた穴を、何で、どうやって埋めていくのかはお前次第だって言ってるんだよ」

…堰き止められてた思いが、一瞬動く。

どうして礼が、あいつといるのか…。そんな事はどうでもよくて――

包んでくれた小さな手。今にも泣き出しそうな幼い瞳。

あんな思いは…もうイヤだ。

取り戻せない時間の中で自分を責め続けるのはもう、二度と――。

――ソレデ片付イタト･･･思ッテルワケジャナイダロウナ･･･？

思わない。そんなコト…ひとかけらだって思ってない。

けれど、時間は動いてる。おれの意思なんかには関係なしに…智をどれだけ探しても、何処に行っても会えないように。

…残った左手。動き続けていた時計。

フラッシュバックに胸の奥が鋭く軋む。

「礼！」

船縁に手を掛け、体を乗り出しておれは叫んだ。

礼は、びくりと肩を震わせてこっちを見た。

 “待っていろ”なんてとても言えない。“此処にいろ”というのも違ってる。…続く言葉が探せない。

有賀の指から細く立ち上る煙草の煙。その風景は、何だかすごく懐かしく…

あいつに“懐かしい”なんて感じるなんて、やっぱりまだおれは…頭がどうかしてるんだろうか。

「また…来るよ」

つぶやくように口にする。

冴子が…

先生が…おれを見た。

礼は、口元を閉じて憮然としてる。船は徐々にスピードをあげ、沖へと進路を進めてく。それに合わせて…礼の視線がゆっくり動いておれの姿を追って来た。

来るから。いつか…もう一度。

もっと…話がしたかった。

色々な事。お互いの事。これからの…事。

初めて出会った時のように…君と話してみたかった。

浜辺で感じた…小さなぬくもり。けれど強くて…確かな存在。

智は、何処にもいないけど…おれを繋いでくれる誰かがいた事。誰かが…求めていてくれた事。

記憶になくても、それははっきり覚えてる。

頬に当たる水しぶき。島影は、みるみるうちに船の後ろへと流れ始めた。

今度ここで会う時は…おれ達の時間はもっと流れて――

きっと、もっと前へと流れて…

その時は――

おれの中でも何かが変わっていたりしてるんだろうか――。

「もしもしっ！お兄ちゃん？お兄ちゃんなのっ？」

受話器を耳に押し当てる。ケータイからかけてるからなのかな…。何だかひどく聞き取りづらい。最初の冴子さんの声は全然そんなことはなかったのに。

キッチンで夕飯の支度を始めてる、お母さんも気にしてこっちを見てる。

お願いだから、もっとはっきりしゃべってよ。

「…あー、もう…。そんなに大きな声出さなくても聞こえてる」

暢気な声。

二日酔いの時みたい、気だるそうな間延びのした声。

けど…判る。確かにそれは正真正銘兄キの声だ。

お母さんと顔を見合わせて、ほっと一息。笑ってしまう。

「心配したんだよ！本当にみんなで、死ぬほど心配したんだからね！」

「…判ってる」

「ウソ。ほんとに判ってるの？！判ってないでしょ？何にも全然判ってないでしょ！」

…人の気持ちも知らないで。

前言撤回。

ホントにいつもこの人は…

いつもいつもこの人は、どうしてこういうヤツなんだろう。

「座間味に戻るんだってね。先生とまた海に行くって冴子さんが教えてくれたよ」

「ああ…。何かよく判らないけど、そういう事になってるらしい」

「…『らしい』って…何なのよ、『らしい』って。他人事みたいに頼りない事言っちゃって」

「なあ、このみ」

「えっ」

「お前らは…すごいな。本当に」

「…何なの、いきなり」

「…自分の足でちゃんと立って、前に進んで。お前らがどんなにすごいか、今度のことでよく判ったよ」

「…なっ、何言ってんの？お兄ちゃん」

「先生に、『お前次第だ』って言われたよ。『抜け落ちた穴を何で、どうやって埋めていくのかはお前次第だ』って」

「…」

「智はいない。それだけでうも十分なのに。“いない”って思い知らされただけで、十分すぎるほどなのに…なのに…先生に『海に行こう』って言われてさ、断れなかった。もういいよって頭の中では思ってるのに、何故かイヤだって言えなかったんだ」

「…」

「おれ…まだ信じてるのかな。そこに行けば智がいるかも知れないなんて、まだこのバカな頭の中で、勝手に思いこんでいるのかな…。自分でも、何が何だか…よく判らなくなって来た」

「…」

「ごめん。…また、ヘンな事言ってるよな…」

とまどうこっちの気配を感じ取ったのか、申し訳なさそうに言ってくる。慌てて首を横へ振る。

「あっ…あのね、浩平が帰ってくるんだよ。秋の国体が終わったから、もうすぐここへ帰ってくるの」

「…」

「みんなで会おうよ！待ってるから。三人でまた智兄ちゃんに会いに行こう。日程はお兄ちゃんに合わせるよ。明日座間味に戻ったら、そんなに何日もいるワケじゃないんでしょ。一度東京へ帰って来てよ」

「…そうか。そうだな…」

「待ってるからね。お菓子作って待ってるから。ここでちゃんと待ってるからね！」

しつこい程に念を押す。

…ほとんど強引。

浩平が帰ってくるのだって、まだ陸上部の監督さんの許可も何にも出ていない。

いつになるかもまだ全然、決まってもいない事なのに。

でも何か…

何かを繋いでおかないと、またこの人は何処かへ流れて行きかねない。

こんな程度の約束でそれが出来るかは判らないけど…

何か言わないではいられなかった。

冴子さんに代わってもらう。今の兄キを海に連れて行くことは、冴子さんも一度は反対したって聞いていた。でも…並木先生の言うのも判る。

『全部失くして、それだけで――それを思い知るためだけに、こいつはこんな所までやって来たのかって事ですよ』

その言葉を聞いた時、冴子さんもハッとしたって言っていた。

今は…ただ、信じるしかない。

ここへ帰るって言ってくれた兄キの言葉と、約束してくれた先生を。

――夕暮れの街。

陽は西に傾いて…辺りはピンク。そして紫。刻々と色を変えて行く。

空は一面のグラデーション。金星が瞬き始めてる。

昔…

まだろくに歩けもしないほどの幼い頃。

時々おれは夕方になると大泣きしては、おふくろをずいぶん困らせたらしい。今となっては、その理由を量る術もないれど…こんな気持ちで、この島の空を見てるのはたぶん初めてだろうと思う。

こんなに綺麗な夕焼けなのに…寂しいような…不安なような。

流れる時間。戻らない過去。

どんなに綺麗な思い出も…留める事は叶わない。明日も会える。また…会える。

…本当に？

根拠も何もない無心な確信。

こんなに何度も…きっと何度も…見ている筈の風景なのに。

…

国際通りから、横道を奥に入ったシティホテル。その最上階から外を見ている。夏休みも終わって…観光客も随分減った。

落ち着きを取り戻し始めた大通りには、この島の日常があふれてる。

行き交う車。テールの明かり。

その上を行くモノレールの窓明かり。

さっきまで自然光ばかりの島にいた…そんな事さえ、遠い昔の出来事みたいだ。

…カウチで膝を抱えたままで…電話をしてる冴子の声を、とぎれとぎれに聞いていた。

話をしてる中身から、それが仕事の件だと何となく判る。

「明日…帰るの？」

受話器を置いた彼女に尋ねると、冴子は静かにうなずいた。

「…ごめんなさいね。本当は、一緒に帰りたかったんだけど…」

「…」

おれと彼女を繋ぐもの。

それが一体、何だったのかと考える。そもそもそんなモノ、本当におれ達にはあったんだろうか…。

綺麗な夕焼け。けどそれを…ほんの一瞬でも留める事は叶わないのとおんなじに。

彼女の言おうとしてる事。

おれに…伝えようとしてる事。

痛いくらいに響いて来る。

抜け落ちた穴。埋まらない心。

智はいない。何処にもいない。打ち消しようもない…リフレイン。

ここで…泣くのはルール違反だ。

おれには――

今のおれには、彼女の抜けた階段を埋めてはやれない。

今のおれ達にはこのままじゃ、何も新しく始められない。

失いたくない。もう…誰も。

でも…それを引き留めておく力さえ、今のおれにはもうなくて――

抱えてた膝に顔を埋める。

冴子の手が、そっと背中に触れて来る。

『お前はここから始めるんだから』

…始めたいなんて思っていない。

このままでいい。

智は何処にもいない事。それは、決して消えない真実なんだと…あるがままに認めてる。だから、もうそれだけで――

それだけで、もう…十分じゃないか。

否定も抵抗もしていない。全面降伏だ。100％打ちのめされてる。

なのに…ここから何を始める？

「私ね…拓を見ていて…思ったの」

「…」

「大切な…誰かがいなくなるっていう事は…心の中に、それが占めてた部分がぽっかり開いて…埋められなくなってしまう事。時には、自然にそれが小さくなったり…何かで綺麗に覆われて見えなくなったりもするけれど、抜け落ちてしまった心は決して消えない。ずっと…残るの」

「…」

「だから…何かで埋めなきゃならない。少しずつでいいから、埋める何かをしなくちゃいけない。先生が言っていた事は…きっと、そういう意味だと思う」

「…」

埋めてた膝から顔を上げる。

背中に触れてる彼女の気配が細かく震える。

「『また来るよ』って…礼君につぶやいていたでしょう？」

「…」

「私にも、そんな言葉を返してくれる…？」

「…」

「あんなに辛い思いをした場所なのに『また来るよ』って。…こんなに長く、たくさんの時間…あなたに辛い思いをさせて来た。…それなのに、ここにいたいって言ってくれるの…？」

思い出す。あの日の彼女の…ローズの口紅。

その脇を、涙の粒が流れて落ちて…
必死に自分の心を閉じこめた――閉じこめようとしたあの夜の事。

「…冴子は、なんにも悪くない。おれが――」

「…」

「おれがただ、見ようとしていなかっただけだから」

「私が…見せようとしていなかった。…それだけかも知れないわ」

「でも…今は知っているから」

「…」

「智は…どこにもいない事。冴子が、おれにして来た事も…全部ほんとだって判るから」

「…」

膝を抱えてる…そこからゆっくり手をほどく。

ルームライトに照らされて…ぼんやり視界に浮かんでる両の蒼い掌を見る。

「…何もなくなっちゃった…」

「…」

「…全部…ここからなくなっちゃったよ」

冴子は、黙って背中からおれの肩を抱きしめた。

伝わる温もり。

伝わってくる精一杯の…彼女の優しさ。

時間が、ゆっくり戻ってく。あの日…向き合えなかった悲しみに。

胸の痛みも…

呼吸ひとつする度に、体を巡る苦しさも…

伝わってくる彼女の微かな温もりが、かろうじて支えてくれている。

だから…我慢しなくていい。何も…抱えなくていい。

智は…ここにはいない事。

もう、何処にもいない事。

その事だけを確かめる。何度も何度も…繰り返す。

あらゆる望み。

微かな予感。

有り得る筈のない希望。

それらが全部…消えるまで。

…

朝。

ホテルのロビーに降りてくと、そこには並木先生が待っていた。

「泊港まで車で行こう」

短く先生はそう言った。

青い空。

雲が…高い。

この島にも確実に秋の気配は近づいていた。

 


＜第九章　了＞

･･･To be continued.