| Ｓｙｎｃｒｏ 〜第九章 §9 |
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何処までも続く水平線。 陽を受けて…コバルト色に揺れてる波間。 『それくらい…“あなた”には大切だったの…』 『何かをしてあげたいと…そんなに強く願うほど――“あなた”にとって智紘君は、本当に大切な人だったの』 … それが…何処にもいない、という事。 『左手だけ、機体の陰になってて助かったんだ』 唯一の遺品はムーンフェイズの腕時計。 それは動きを止める事なく、“今”を刻み続けてた。 まさしく奇跡。 持ち主は…まともな遺体さえ帰っていないのに。 その瞬間にあいつが何を考えて…何を思いながら逝ったかも…教えてくれる術もないというのに――。 『僕にはどうにも出来ないコトなのかも知れないけど、このままじゃ母さんも辛いし…浩平だって――何も知らないままなんだ。…このままにしてはおけないし…』 あの時…どうして。 どうしておれは、あいつを止めなかったんだろう。 お前が行ったからって何になる？ …そうだよ。だから―― だから、あの時… …おれが、あいつを止めてれば――。 抱えてた膝に顔を埋める。 涙が…止まらない。胸の奥が、えぐり取られるみたいに苦しくなって… 泣いたって、どうにもならないと判ってるのに… なのに、涙が止まらない。 微かに風が流れて止まる。柔らかな気配に目を上げた。 冴子が隣に座っていた。 最後に彼女と会ったのは何時だったろう。思い出せない程の長い時間が、おれ達の間にはあった気がする。 ずっと… 会いたいと思ってた。 それが、彼女の望みでなくても… 求める事が、彼女にとって、どれほどの苦痛なのかを知ってても…。 いつも…求めてばっかりだ。 彼女の望みの切れ端さえも、おれには与えてあげられない。 それでも…彼女に伝えたい。 今の自分を。 得体の知れない苦しさや…息を小さく吸う度に、容赦なく身体を裂いていく痛みの事を。 やり場のない…後悔を。 どうか…傍にいてほしい。 一人に…しないでいてほしい。 これは罰。 あいつを助けてやれなかった、おれへの罰だと判るから。 彼女の頬にも、涙の滴が伝わっていた。 それを見た時…初めておれは理解した。 この…思い。 胸から背中へ、頭の先から足先へ身体全体を強張らせ、痺れとなって抜けて行く――これが…一体、何なのか。 冴子は、静かにおれを見た。 ――ない。 いない。 何処にも…いない。 どんなにそれを求めても…二度と会う事は叶わない。 どうして…？ 何故…？ 返るはずのない答え。 確かなのは、智紘は…もう、何処にもいない事――。 歴然とした現実だけだ。 『そしてあなたは…それが続くと信じてた』 そう…。信じてた。疑う事など微塵もなかった。あいつはいつも傍にいて…それがいなくなるなんて… なくなるなんて… 全然考えてもいなくって…。 おれだけが、こんな風に残されるなんて…全然考えてもいなくって…。 そっと頭を抱き寄せられた。彼女の白い…頬のぬくもりが伝わって来る。 …赦されたいとは思っていない。 救われたいとも思っていない。 けど今は… 今だけは… 何ものよりこの時を…愛おしいと…ただ――願う。 目を閉じる。 一転、そこは…吸い込まれる様な漆黒が、深く冷たく広がっている。いつでもそこへ――降りて行こうと思えばすぐ出来る。 何故しない？ そうしない？ 肌を通して伝わって来る彼女の僅かなぬくもりが、かろうじてこの楽園の、光の中に引き留めている。 どうして…おれはここにいる？ いたかったのはおれじゃない。ここに…いたかったのはおれじゃないのに。 つぶやきに答える術も見つからない。 何の償いも出来てない。 なのに…おれはこんなにも、「ここ」にいたいと願ってる。 智は…何処にもいないのに。 ―― サンゴの砂を踏みしめて近づいて来る足音がした。 小さな気配。 冴子に促されて目を上げた。 一人の少年が立っていた。 浅黒い肌。大きな瞳。すんなり伸びた細い手足。 少年は黙って立ったまま…おれと冴子を見つめてた。 …小学校3、4年生くらいだろうか。 その時、気付いた。 意思の強そうな茶色の瞳（め）には、何故か僅かに見覚えがあった。いや。見覚え…などと言う程のはっきりとした記憶じゃない。けれど…確かに、おれは彼を知っている。 記憶の角に…何かのイメージが浮かびそうになっては消えて行く。 ぼんやりとした霞みがかかって… そのイメージは、とてつもないピンボケのまま…みるみるうちに消えそうになる。 頭の芯が鈍く痛んだ。 …少年は唇を噛みしめた。 「拓。礼君はね…」 冴子が言った。 「お母さんの帰りを待っているの」 「…」 「ここで、毎日、お母さんが帰ってくるのを待っているのよ」 「…」 …礼、という名前。 一瞬、何かを感じたようにも思ったけれど、やはり記憶は繋がらない。 「拓は…？！」 すがりつく様に身を乗り出して、少年がおれに訊いて来た。 「拓は…もう、待たないの？ここで大切な友達が来るのを、ずっと待つんじゃなかったの？！」 凛とした瞳。切羽詰まった甲高い声。 明らかな詰問口調の問いかけなのに…何故か、懐かしいとその時感じる。 きっと… この少年がこんな風に感情をあらわにする事は、そうある事ではないんだろうな。 おれは、それを知っている。 この子が、きっと本当は…年上の友達とも取っ組み合いのケンカをする位、向こうっ気の強い事。 たぶん…彼が待っているという母親は、この小さな離島へは二度と戻っては来ないだろうと… その事は、誰よりも彼には判ってる事。 少年の頭に手を乗せた。 「待ってるよ」 「…」 「今も…待ってる。ずっとずっと…待ってるよ。けど…」 「…」 膝を折って、澄んだまなざしと向き合った。 ――イナイ。ナイ。何処ニモ…イナイ。 深い…海の中を思わせる褐色の瞳。それを縁取るコバルトブルー。 無防備に視線を合わせて息を飲む。 遠い…日の記憶。 幼いあいつの目の色と、それはゆっくり重なって… 次の瞬間。 突然視界が大きく歪んで…眉間の奥が熱くなる。胸が締め付けられて、苦しくなって… そして…涙が… 大粒の涙が後から後から…堰を切ったように溢れ出す。 押し寄せて来る感情の波。 こみ上げる嗚咽。 咄嗟に掌で口元を覆った。 ついさっきまで…あれほど心地よかった筈の南風が―― 肌に突き刺さる太陽(てぃだ)の光が―― ここに“いる”という思いに繋がる全てのものが、容赦なく胸をしめつけて…嗚咽と涙に変えて行く。 …苦しい。 …ここにこうしている事が、どうしようもなく苦しく…切ない。 そして、今はそんな自分を…どうしていいのか――判らない。 礼は、一歩後ずさりした。 …ここにいるのは、彼の知ってる“拓”ではない。 もう、四年も前の事。 そんな昔の出来事に、未だに決着をつけられずにいる、ちっぽけな“おれ”のほんとの姿だ。 智ハ…イナイ。何処ニモイナイ。 頭の中を無限ループが駆けめぐる。そして、必死に言い聞かせてる。 どんなに飲み込もうと努力しても、喉元を落ちないクスリの様に。 頭の中では判ってる。こんなにも…はっきり感じてる。 あいつは何処にもいない事。 焦げて…ちぎれた左手で…動き続けた腕時計。 全てが―― 受け入れるしかない…現実なのに。 … それから…どれ位の時間がたったのか。 数時間にも思ったけれど…ほんの数分だったかも知れない。 真夏の陽の中にいるというのに…氷のように凍えた指先。 泣きはらした目でそれをたどると、礼の小さな掌がそっと受け止め、包んでくれた。 …頼りなげな、儚い温もり。 …けれどどんな力より…心強くて、確かな存在。 涙で潤んだ光の向こう。 ガラスの様に広がる海が、ぼんやり遠くに浮かんで見えた。 並木先生とは、その日の午後に顔を合わせた。 礼と別れてから… おれは何だかひどく消耗してしまって、その一室で横になっていた。 心の奥が、ぽっかり大きく抜け落ちて… 強い違和感。 自分の身体が――頭の中さえ、自分のモノではないような… 冴子は、傍にいてくれた。 あれほど望んだ唯一の安堵。 確かな温もり。 けどその一方で、目さえ閉じれば、あの暗闇は今でもそこに広がっていて… あの声も…確実にまだそこにいて… 『ダカラおれガ来タンダヨ。おれナラお前ヲ守ッテヤレル。救ッテヤレル』 いっそ…もう一度、それに飲み込まれてしまえたら…。 何も望まず―― 見ないまま…ずっと沈んでいられたら――。 「…拓」 冴子の声がした。 「…起きられる？並木先生が私たちを迎えに来たの」 「…迎え？」 「帰るのよ。みんなのいる場所へ。東京の…あなたの家へ帰るのよ」 「…」 視線をゆっくりと巡らしていく。 口元を不機嫌そうにへの字に結んだ並木先生の顔が目に入る。 「おい。俺が誰だか、ちゃんと判るか」 「…判るよ」 先生は、冴子に向かってにっこり笑った。 「まったく…余計な心配させやがって。…さあ、もうすぐ船が来る。そんな病人みたいな顔してないで…起きろ。歩くぞ、港まで」 冴子が何か言いかける。先生は、今度は真顔に返って口を開いた。 「少し、寄り道をさせてもらってもいいですか」 「寄り道…？」 「座間味に行きたいんです。無理を承知のお願いです。出来れば二日…無理なら、一日でもいい。俺に時間をもらえませんか。拓にどうしても、見せたいものがあるんです」 冴子は、はっとした。 「まさか…拓を海に？」 「ええ」 「…」 「何かの時の責任は俺が取ります。無理はさせません。ダメだと判断したら、すぐ戻ります」 「でも…」 先生は、大きな体を深く二つ折りにして、冴子に向かって頭を下げた。 「お願いします」 「…先生」 「おい、拓」 「え…」 「宮城さんが、ボートを出してくれてもいいって言ってる。お前がイヤだって言うんなら無理にとは言わない。…幸か不幸か、明日は満月の大潮だ。覚えているか、俺との約束。ダメで元々、出かけてみないか」 満月。 大潮…。 さびた記憶の歯車が、頭の中で大きく軋む。 「ちょっと待って下さい」 冴子が言った。 「先生のお気持ちは判ります。このままで拓を帰したくない、その思いは私も一緒です。けど、今は…。ご家族も本当に心配してて…本当に、心から、彼の帰りを待ってるんです。どうか今は一刻でも早く、彼を帰して頂けませんか」 「今のままで帰った所で、状況は何も変わりませんよ」 「…」 「このままじゃ、何のためにここまで来たのか判らないじゃないですか。全部失くして、それだけで――それを思い知るためだけに、こいつはこんな所までやって来たのかって事ですよ」 「…」 「せっかく過去を見据えようとしてるんだったら、ここから――この場所から始めたいんです」 先生の目が、おれを見た。 「智紘君の見たかった海じゃない。お前が見る海だ。でなければ、今度の旅でお前の意思は、最後の最後まで何処にもなかったって事になる。違うか」 「…」 …智紘君の見たかった海じゃない。お前が見る海だ。 どうして…おれは此処にいる？ 此処にいたいと願ってる？ 智との夢。 智の望み。 そんなものだけを考えて…ここまでやって来たけれど… それも…あいつが消えた隙間を埋めるための言い訳で… だとしたら。 こんなに自分が不安になるワケ。 大海に、ほっぽりだされた小舟の様に不安に振り回されているワケが…判る気がする。 ――おれが見る、海。 おれが…自分で決めなきゃいけないんだ…。浩平が、自分の居場所を自分の力で開いたように。 このみがそんな浩平に、ついてく事を決めたみたいに。 例え…あいつがいなくても。 でも…おれに――そんなのが見つけられるのか…？ 「…判った。行くよ」 心配そうな冴子を他所に、先生は携帯電話を取り出すと、さっそく宮城さんに連絡を始めた。 この間まで…おれは、この人と座間味の海を潜ってたんだ…。 その時見えていた風景や…出会った魚…水の感触。 全てがぼんやりとしか思い出せない。 “智紘”というキーワードが過去へ流れたのとおんなじに…そこから派生していた記憶はみんな、一気に過去へと流されて…モノクロームの写真のように切れ切れに、遠くおぼろに感じるだけだ。 …おれが、見る海。 からっぽな心。 何も感じ取れない記憶。 今更、という思いとか…どうでもいいのに…という気持ちとか、その時のおれに全くなかったワケじゃない。 ただ…海は―― もしかしたら、あの中でなら――何かを感じられるかも…。 けど逆に、あるのは「辛さ」だけかも知れない。 智が行きたかった場所。魚と泳ぎたいと願っていたのは、おれじゃなく…智紘の方だったのだから。 それならそれで…あの中で、どうにかなってみるのも悪くない。 そんな事で…この思いから、永遠に解放されるなら。 並木先生は携帯電話のフタを閉じると、厳しい顔でおれを見た。 |
