Ｓｙｎｃｒｏ　 〜第九章　§2

「あっ…！逃げた！」 「ほらっ、そっち！そっちへ行ったぞっ」   真っ青な空。 真っ青な海。 観光客用のビーチから離れた岩場の影に、無邪気な声が響いてる。 引き潮で出来た、たくさんの潮だまり。 ふじつぼだらけの大きな岩が太陽の光を照り返す。 住処を追い立てられたカニ達が、慌てふためいて岩の隙間を逃げ回る。 容赦なくそれを追いたてるのは、真っ黒に日焼けした地元の小学生たちだ。 4人ほどの男子達。3〜4年生くらいだろうか。 不器用な友達のおどけた仕草に、彼らの中で勢いよく笑いが弾けた。   そこから離れた岩場の上で、礼は、じっと彼らを見ていた。 すらり、というより…針金みたいに、ひょろりと伸びた腕と足。 健康的な浅黒い顔。小さな顔に大きな瞳。 この地方独特の目鼻立ちのはっきりした顔立ちも、向こうにいる同級生達と比べたら四年生としては幼く見えた。 礼はさっきから何回も、断固として彼らを無視し続けた。無視し続けようとした。 けれど、知らず知らずに彼の視線は弾けた声へと引き寄せられて…今ではほとんど凝視と言ってもいいくらい、意識を集中させて彼らを見ている。 礼の意識は、今は向こうの仲間と一緒に岩場のカニを追いかけている。 笑いが弾けた瞬間に、礼の頬にもうっすらと透き通るような笑みが浮かんだ。   「気になるんなら…一緒に行って遊べばいいのに」 おれが言うと、礼は慌てて笑顔を消して、大きく首を横へと振った。 「何なら…代わりに言って来てやろうか？」 更に大きく首を振る。   数日前。 ささいなコトでケンカして以来、礼は彼らと口をきかなくなっていた。 何が原因かは言わないし… 子供が時に大人以上に残酷なのは今に始まったコトではないし… 敢えておれもそれを聞こうとはしなかった。   礼は、父親と二人でこの集落のはずれに住んでる。 母は昨年、本島に仕事に出たまま連絡が絶えた。 頼りの父も、大きな声では言えないようなヤバイ仕事に手を出しているって噂もあった。 人口数百のちっぽけな島。 個人の家の秘密なんて、あってないようなものだったし… 両親達の生き方が、子供にまで色濃く及んでしまうのもある意味仕方がないのかも知れない。 唇を噛んで…礼は、青い海を見た。 じりじりと肌を焦がす南国特有の強い日差し。 生暖かく頬を掠めて渡る風。 どこまでも深く…透明な水。   「少し…泳ぐかな」 言うと…礼は、こっちを振り向いた。 傍らに置いてたシュノーケリングセットに手を伸ばす。 「礼。こないだ案内してくれた場所、もう一回教えてよ。あのサンゴの森の場所」 「やだ」 「何でだよ」 「なんでも」 礼は、むすっと口元を結んだ。 「その代わり――知ってるよ。もっと…サンゴのすごいとこ」 「へぇ…マジで？」 「この間より、ずっと沖の方だけど…」 ――余所者のクセに、ついて来られる？ …言わんばかりにおれを見る。   「今日は、もう待たないの…？」 礼が訊いた。 「ああ…。今日は、もういいや」 「…ホントに来るの？この場所に」 「…たぶん。約束したからね」 「…ほんとかよ」 「待っていたいんだよ。来るとか来ないとか、結果なんてどうでもいいの。おれが待っていたいだけ」 「…」   礼は、いきなり立ち上がった。 魚が海面を跳ねるみたいに…綺麗な弧を描いて海に飛び込む。 あっという間に泳ぎ進んだ数十m向こうから、こっちへ向けて手を振っている。 さすがは島んちゅ。 陸（おか）の上より動きも早いし、何と言っても生き生きしてる。 礼の後を追いかけて、マリンブルーの光の中へおれも大きく体を投げた。     座間味と同じ、のんびりとした島の人たち。 有賀は、力でおれを拘束する気はないらしく… 日中はこうして外へも出れたし、地元の人々と接するコトも何ら制限しなかった。 都会の喧噪を離れて離島で暮らし始めた物好きを装い、有賀は上手に島の空気にとけ込んでいた。昔から…ヤツはそういうやり方には長けていた。   与那国島へは、日に数本のボートが定期的に通ってたから、それを使ってここから出ようと思えばいつでも出られた。 けど、それを実行しようという気にはなれないでいた。 有賀と一緒にいるコトは、変わらず苦痛でしかなかったし… あいつがおれに求めるコトは、以前と何も変わってるワケもなかったのだけど…   ――ダカラ、言ッタダロ？意識ヲ閉ジロッテ。   ――恐怖モ苦痛モ、オ前ガ一人デ背負ウ必要ハナインダヨ。チャント上手クヤッテヤル…。   いつだったか… 頭の中で、あの声が言っていた通り… そういう時には強制的に…意識のチャンネルが切り替えられて、記憶は全て消えていた。 本来の… ”織原　拓”と呼ばれていた人格が、今何処に、どうしているのかはおれも知らない。 もしかしたら、このチャンネルを切り替えられる―― 切り替えるのを許されている「ヤツ」だけが―― それを知ってるのかも知れない。   おれの役目は、ここで“智”を待っているコト。 島の子供達と遊ぶ時には別のおれが出ていたけれど…礼と２人だけでいる時は、何故かおれの出番が多い。時折見せる彼の寂しげな目の色は、どことなく智紘と似ている気がして… 一緒にいるのはイヤじゃない。 少なくとも…おれは、ここでの暮らしに不満はなかった。 部屋に戻って。シャワーを浴びて。 カウチに横たわって時間を過ごす。   …今日は、礼とずいぶん遠くまで泳いだ。 あんなに立派な珊瑚礁には、沖縄でもそうはお目にかかれない。 “拓”はスキューバをやってたようだけど…あいにくおれにはそれは出来ない。 シュノーケリングなら、そこそこやり方を知っていたので、あんな沖まで出て行けた。 何度も何度も…息を大きく吸い込んで海に沈んで…礼と魚を追いかける。 澄んだ青。 人を恐れるコトを知らない魚。 エサを片手でちぎってやると、すごい数が寄って来て… それまで沈んでた礼の瞳が、みるみる無邪気な笑顔を取り戻してく。 …智にしてやれなかったコト。 一方的に、彼に重ねてる自分に気付く。     リビングの窓の向こうには…夕陽が沈みかけていた。 神々しいほどのオレンジが、辺りを一面染め上げる。 その陽を浴びているうちに―― 突然に。 吸い込まれるような眠気を感じた。   あんなにたくさん泳いだんだから…疲れたのもムリないか…。 明日は礼と…何処へ潜って遊ぼうか――。   抗う気力も、その理由も浮かばない。 海に体を投げ出す時の浮遊感によく似た空気が身体を包む。 間もなく… 有賀がここに帰って来たら、やるべきコトは決まってる。だとしても…それを引き受けるのはおれではないし… その時の苦痛や屈辱を、おれが覚えているワケじゃない。 ――目を閉じる。 辺りはゆっくり闇の中へと沈んで消えた。       …薄暗い明かりに照らされたテーブルの上。 何杯目かの古酒のグラスを傾けて有賀は笑った。 「食べないの？」 開け放された窓からは、真っ暗な海と今にも落っこちて来そうなほどのたくさんの星が見えていた。 カーテンを掠めて、優しく吹いて来る南風。 向かいの椅子に、膝を抱えて座ってる…僕は首を横へと振った。 「今日も、礼と一日一緒だったんだって？」 何処へ出かけてるのかは知らないけれど、ヤツは昼は島にはいない。 なのに、“拓”が何をして… 誰とどんな風に過ごしたか…いつでもびっくりするほど知っていた。   そっか… 僕は、昼間は礼と一緒だったんだ…。   僕も…遊びたかったな、礼と。 ずるいよな…いつも“あいつ”ばっかり。 誰が礼と遊んでいいとか…そういうのって、一体誰が決めるんだろう。みんなで一緒も楽しいけれど、僕は本当は、礼と二人が好きなのに。 約束…したのに。 『また一緒に遊ぼうな』って――。     お腹も空かない…。 島豆腐もチャンプルーもおいしそうではあったけど…全然食べたいとは思わない。 有賀と二人でここにいる。 …サイアクだ。 しかもヤツは、酒、飲んでるし。 やがて。 ガタッ、と大きく椅子が動いた。 抱いてた膝を更に固く抱きしめる。有賀が隣にやって来た。 …僕は――思いっきり強く目を閉じた。   肩を抱かれて、いきなり顎を持ち上げられてキスされる。 必死に口を結んだけれど、息が苦しくなって継いだとたんに舌が無理矢理入って来た。生暖かい水が流れ込む。   …気持ち悪い。   ヤツの体を両手で向こうへと突き放す。力比べではかなわない。そのまま椅子ごと床の上へと押し倒された。 甘いような… 辛いような… ヘンな香りで口の中が一杯になる。吐き出そうとしたけれど間に合わない。むせながら…仕方なしに、その液体を飲み下す。   「…お前は誰だ？」 涙を浮かべながらむせてると、有賀の低い声がした。恐怖で体が凍り付く。 「…“拓”じゃないな？」 「…」   …おれは―― 僕は――“拓”なんだけど…   答えたいのに言葉が出ない。 それがヤツの怒りを更にあおってしまうと判るから…。 唇を震わせたまま黙っていると、有賀は古酒の瓶へと手を伸ばし、大きくそれを一口あおった。次の瞬間。大きな体が、覆い被さるようにのしかかる。 両手で肩を掴まれて… 必死にもがいてるうちに、突然首を絞められた。 「ひっ…」 頭の芯で、心臓が大きく波を打つ。 血の流れ… 空気の流れ… 全ての流れが行き場を失くして、すごい勢いで回り出す。 金魚のハナ上げみたいに口をぱくぱくさせてると、また口移し。古酒を大量に注ぎ込まれた。 両手で首を絞められて―― 飲み下すコトはもちろん、吐き出すコトも…全然出来ない。 意識が遠のく。 少しずつ、ノドに流れ落ちようとする酒で咳が出る。 今まで感じたコトもない、もの凄い痛み。 ――やだっ！ いやだっ！   ――何で？！ どうして…僕がこんな目に――？！ …僕は何もしていない。ここにこうしていたのだって、僕が願ったワケじゃない。 僕は… 僕はただ…！   「いるんだろう…？そこに。聞いてるんだろう？俺の声」 指が喉元に食い込んで行く。――有賀が耳元で囁いた。 「がっ…」 「さっさと出ておいで。さもないと、ほんとにこの子、殺されちゃうよ？」 「…」   ごほっ…   最後の空気の塊が、酒と一緒に飛び出した。 閉じこめられてしまった空気が…パンパンになって頭ん中でふくれてる。 目の奥の方が真っ赤になって…パチパチへんな音がする。   ――誰か…助けて…   そして――最後のキーワード。 「『何をそんなにイヤがる事がある？』」 「…」 「『君だって、ほんとは彼にこうしてもらいたかったんだろう？あの…いつも一緒にいた同級生にさ』」 「…」 何を… 何を言われてるのかも判らない。辺りがだんだん暗くなる…。 その瞬間。 “僕”の奥で何かが弾けた。       ――右の掌に、ぴりっとした痛みが走った。 目の前に薄い笑みを浮かべてヤツがいる。 うっすらと赤く染まった頬をかばおうともせず、有賀は何故か嬉しそうにおれを見た。   床に仰向けに倒れてる。脇にはダイニングの椅子が転がって… それだけで、大体の状況は見て取れた。 有賀の体を押しのけて半身を起こす。 大きくその場で咳き込んだ。喉の周りがずきずき痛む。 頭の奥が、まるでダイビングの時の酸素切れみたいに鈍くて…重たい。 胸がムカついて…気分が悪い。 「優しいんだね」 ヤツが言う。 「小さい子供がいじめられてるのを、見ていられなかったというワケだ」 「…何の話だよ」 言われてる言葉の意味が判らない。 有賀は、ふふっと含み笑いでおれを見た。   …ここは…一体何処なんだ？ 時刻は…外の暗さからして夜か…。 微かに聞こえるのは――波の音？ おれは、咄嗟に隣の有賀の方を見た。 「ここはね…与那国からは少し離れているんだよ。…何日たったと思う？もう３日…４日目になろうとしてる所だよ」 「…４日目、だって…？」   ――ウソだ。そんなのあり得ない。 だって… おれがここに来たのはついほんの… 何時間か前だった、筈…。   混乱しているおれを他所に…ヤツはジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。 それを見た時…ハッとした。 紛れもなく、それはおれのケータイだ。 取り返そうと延ばした指は、あっさりヤツにかわされる。 「返せよっ！それはおれの…っ」 「ついさっき電話があったんだ。神崎のお嬢様からね」 「…冴子から…？」   何で…？ 更に混乱する記憶。 まるで錆びた歯車みたいに意識の奥が軋んでる。 「拓と話がしたいんだって。お嬢さんだけじゃない、君の妹と…そうそう。例の写真家先生も。並木哲史だったよね」 「…」 「話がしたいって言われても…ねぇ。こっちにだって都合はあるし」   隙を見て… ケータイを取り戻そうとリトライした手を、有賀は同じく余裕であしらう。 「『来るな』とでも連絡するつもり？それはムリだね。こんなコトになってしまって、たぶんあの人は相当責任を感じているだろう？ただ…妹さん――高校生だったっけ。こんな所まで連れて来ちゃっていいのかな。ますます拓を追い込むだけだって、どうして気がつかないのかな」 「…余計なお世話だ」 「このままじゃ俺一人だけが悪人だし…向こうが話したいって言うんなら、『どうぞ』って迎えようとは思ってるけど…拓はどうなの？どうせ、戻るつもりはないんだろ？」 「…」 「だったら答えは簡単だ」   有賀の腕が、肩越しにするりと首に巻き付いた。 …今は――そんな気分じゃない。 振りほどこうとしたけれど、次の瞬間――反対の腕で力任せに床に押し倒された。 後頭部をしたたかぶつけて…痛みに耐えているヒマもなく、間髪入れずシャツの下から冷たい掌が滑り込む。   イヤでも…過去を思い出させるその行為。 忘れていたい… もう二度と、思い出したくないその記憶… こいつのヤリ方―― 掌の冷たさ―― 全て…知ってる。悔しいけれど…何もかも―― 「ねぇ…並木哲史には一体何を話したの？」 「…」 「君の過去の話もしたの？俺との事とか…例の、”お友達”の話とかさ。彼は、それでも力になってくれるって？」   身をよじってそこから逃れる。逃れようとする。けれど、もちろん逃れ切れる筈もなく… 必死に目を見開いた。 渦に飲まれたくない一心で。 闇の中。 景色がぐにゃりと大きく歪んで…ゆっくり…そのまま回り始める。 激しい頭痛。胸を突き上げる…強烈な吐き気。 呼吸が浅く…速くなる。 「苦しいの？」 有賀の声が…囁いた。 「誰かに助けてもらおうなんてするから苦しくなるんだよ。拓はこのままでいいんだからさ。そう言ったじゃん…？この前も。そもそも…どうしてあいつでなくちゃいけないんだよ。俺たちがこうしてまた会えたのは、誰のお陰だか判ってる…？」 「…」 「俺は、拓のコトなら何でも知ってる。奴は何も知らないんだよ？なのに、どうして選んだのかな。拓が一緒にいたいのは、”彼”であって奴ではないだろ？」 「…」 「せっかく二人きりでいるんだし…もう少しこのままいてもらってもいいんだけどね…。残念だけど拓にだけは、あの時のままでいてほしいから――」 「…」 「だから…眠らせてあげる、今すぐに」   眠りたい…。 ヤツの言うとおりこのまますぐに… こんな苦痛からも、何もかも――全てを忘れて眠りたい…   体の中心を間断なく這いまわる指先が… 不快―― 苦痛―― どんな言葉でも言い表せない、圧倒的な力となって意識の底を切り裂いて行く。 ほんとにイヤなら… 本当に…有賀のコトを拒絶したいと思うなら… 死にものぐるいで暴れる余力も十分あると思うのに。 …心の何処かで望んでた。 抗えないほどに強烈な何か。理屈じゃないそんな”強さ”をほんとは何処かで待っていた。 それに巻かれて…全てを打ち消す。無理矢理に。   ――智のためなら。智の分まで。   そう言いながら… おれがホントにしたいコト… してもいいと思ってたコト。   ――『おばちゃんに…好きにすれば、って伝えておいて』   大好きだった…あいつの笑顔。 それがみるみる冷たく歪んで…突然に――足下がぽっかり抜け落ちる。   …智。   ――サヨナラ、拓。   伸ばした指は…あいつの背中で空しく空をつかむだけ。 落ちていく… 音も光も…何もない―― 耳を切る空気の音さえもない…闇の中を―― …何処までも。 …       広い背中。 汗ばんだ…胸。 大きく息を吐き出すと…抱きしめていた腕から不意にするりと力が抜けた。 「…君は？」 耳元に顔をうずめたままで声が囁く。 大きな腕で床に組みしだかれたまま…どうにか焦点を取り戻した目で、おれも小さく笑顔を返した。 「“拓”…だよ」 額にかかる軽く乱れた前髪を、指でそっと直してやると… ”有賀さん”の頬にこの上もない、優しい微笑が広がった。 ――   ･･･To be continued. 　　　　　　　　　　　　　←Back　　　Home　　　Next→ 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(C) Copyright 2005 twin All right reserved.