初めて見る…沖縄の空。

真っ白な雲。

底抜けに青い、空と…海。

明るい日差し。

優しい風。

ゆったりと葉を茂らせた街路樹と…色鮮やかなハイビスカス。

お店で見かける外貨換算表や…英語の看板。

明るい南国の空の下では、元気な色がよく似合う。

こんな気持ちで、ここにこうしているコトが…申し訳ないような気持ちで一杯になる。

着いた日は、冴子さんの用意してくれた那覇市内のホテルに泊まった。

本当は、すぐにでも出発したかった。

けど、空港に迎えに来てくれた並木先生は、

「とりあえず今晩はゆっくり休んで。今から発った所で、向こうに着くのはどうせ夜になっちゃうからね」

って笑ってくれて…

真っ黒に日焼けした、健康そうな先生は沖縄の太陽そのままで…

私は咄嗟に、深く頭を下げていた。

冴子さんは、わざわざ自分が乗る予定だった飛行機を遅らせてまで、一緒に那覇へと渡ってくれた。

出発の朝も家まで迎えに来てくれて…

この人が、今回のコトでどれだけ自分を責めてるのかが痛いくらいに伝わって来る。

私が突然兄キのとこへ行く、なんて言い出して、もちろん両親は揃って反対したけれど、それを説き伏せてくれたのは、祥子おばちゃんだった。

何をしても、しなくても結局後悔するんなら、思いついた事は行動した方がいいって、私の背中を叩いてくれた。

「その代わり…絶対ムリはしないこと」

にっこり笑ってくれたその顔は、智兄ちゃんにも浩平にも、驚くくらいよく似てた。

親子なんだもの…

そんなの、当然すぎるコトなんだけど…。

「このみちゃん」

ホテルのラウンジ。

夕食をみんなで一緒にする約束をして…並木先生を待ってる間。

冴子さんが話しかけてきた。

何の気なしに顔を上げて、無防備に冴子さんの顔を見て…

瞬間どきん、と息を飲む。

きりっと結んだ口元と、真っ直ぐに見つめる目の奥に、いつもと違う何かを秘めて…

お兄ちゃんを“ここ”に戻すと言ってくれたあの時と、おんなじ位の強い目の色。

「並木先生に会う前に…聴いてほしい話があるの」

「…私に？」

「そう。…これから向こうに渡ってしまったら、私たちが二人で話せる機会もそんなにないと思うのね。だから…その前に、どうしてもこのみちゃんと二人で話したかった」

「…」

「前に、あなたに『大切なのはこれからのコト』って言われた時…確かにそうだと思ったわ。大切なのは今。…そして、これからのこと。…けど、過去にけじめをつけるのは決して無駄ではないと思うし、そこから開ける未来だってあると思うの」

冴子さんは、綺麗に揃えた膝の上でそっと両手を握りしめた。

「私は、拓が好きよ」

「…」

「傍にいたいし…大切にしたい。心からそう思ってる。でもね、あなたを…傷つける事になるかも知れない」

「…」

「こんな話をしている事自体、もう、そういう事になってしまってるのかも知れないけれど…もっと――ひどい仕打ちも私は彼にして来たの。その事実を避けてたら、ここから先あなたを連れて行けないと思った。有賀に会うという事はそういう事なの」

「…」

「ごめんなさいね。ここまで来て…今更、こんな話もないわよね」

肩の黒髪がさらりと滑る。

「大丈夫」

私は言った。

「私が冴子さんと知り合って、まだ幾らもたってないんだよ？私の知らない冴子さんがいたって不思議じゃないし…いくら兄妹だからって、私がお兄ちゃんの全てを知ってるワケもない。そんなの当たり前だし。心配しないで、冴子さん」

「…このみちゃん」

「冴子さんが、お兄ちゃんを好きでいてくれる。私には、それが一番大切」

大切な誰かのために、この人がここに来てくれた事。

その存在のために、近くにいたいと思ってくれてる事。

それが今は一番大切…。

冴子さんはほんの一瞬ためらって…それから、優しく笑ってくれた。

――

「実は、ついさっき有賀から電話があったんだ」

ラウンジのソファーに腰を落とすのもそこそこに。並木先生は、開口一番そう言った。

「明日の夜、会ってもいいって言ってきた」

「お兄ちゃんは？お兄ちゃんも一緒ですか？」

「いや。たぶん、それはないと思うよ」

「…」

冴子さんは、黙って先生の話を聞いていた。

「それにしても…あの有賀ってヤツは、一体何なんですか」

その時のやりとりを思い出したのか、先生の声が不機嫌そうに低くなる。

冴子さんは微笑むと、

「彼は以前、私の店でフロアマネージャーを勤めていたんです」

「貴女の店って…拓がアルバイトしてたっていうT’sのコトですか？」

「ええ。もっとも…それは表向きで、裏ではITSに関わることも色々手伝ってもらってました。拓がT’sに出入りするようになってからは、彼には辞めてもらいましたけど」

「裏で？そっちが表ではなくて？」

冴子さんがうなずく。

並木先生は私の方を少し見て、小さくコホン…と咳払い。気を遣ってくれているのか、何だかとても話しにくそう。

私のことなら、気にしなくてもいいのにな…。

「あの…」

たまらなくなって口を開いた。

「私も一緒に行ってもいいですか？」

「えっ…？」

よっぽどびっくりさせちゃったのか、先生は大きく目を見開いた。

その拍子に瞳の中が、私の真っ正面に広がって…

――並木先生の目って…茶色じゃないんだ。

拓兄も、時々カラコン入れてたりなんかしてたけど…この人のは、もちろんそれとも違ってる。

灰色がかった…茶色の目。

当たる光の加減によっては、うっすらとブルーも混じってる。

そう言えば、フランス人とのクォーターなんだって前に兄キが話してたっけ…。

「一緒に行くって…有賀に会いに行きたいってコト？」

「うん。だって、そのためにここまで来たんだし…」

「…」

「先生。お兄ちゃんは相変わらず何も思い出してくれないんですか？先生のコトも？その時、電話に出たのは有賀さんだけ？」

「有賀からの連絡は、いつも拓の携帯電話からかかって来るんだよ」

「…」

「ヤらしいだろ？そういう所。あんまり、まっとうな大人の思考とは思えないんだよね。まあ…今更と言えば今更だけど」

「お兄ちゃんのケータイで、って言うことは…じゃあ、私でも有賀さんと話が出来るってコトですよね？」

「えっ？」

「私が、私のケイタイからお兄ちゃんに電話をすれば…有賀さんが出てくれるってコトでしょう？」

先生はハッとした。

「ダメダメ！そんなの！ミイラ取りがミイラになるって言葉、知らないワケじゃないだろ？！」

「そうだけど…例えば有賀さんの目的とか…何を考えてるのか知りたいし…この先、どうするつもりなのかとかも聴きたいし…」

「…」

「とにかく兄キと話がしたいの。記憶を失くして…どんな様子でそこにいるのか――それだけでも知りたいんです」

先生は、冴子さんと視線を交わした。

――ここに来る前。

お母さんが、警察から受けた報告を祥子おばちゃんに話していたのを偶然聴いた。

拓兄は有賀さんと、与那国島から少し離れた小さな島で、地元の人たちにとけ込んで、一見とても穏やかに過ごしているように見える、って。

そこには“強制”とか、“侵害”と言った暴力の匂いは薄くって…

いくら拓兄が記憶を失くしていたとしても、それを的確に証明出来るような事実は警察の手を持ってしても、すぐには浮かばなかった、って。

それに…

ここで有賀さんを追いつめるのが、必ずしも今の兄キにとって得策だとは思えない、って…。

「お願い、先生。私も一緒に連れてって」

「判ってるとは思うけど…今の拓は、君が自分の妹だっていう事も覚えてないかも知れないよ」

「…」

「それに…どんな理由があるにしろ…あいつにとっての有賀という人間は、再会を望むような相手じゃなかった。なのに、あいつは自分から会いに行っているんだよ。…残酷な言い方かも知れないけれど…“ここ”にいるより、有賀といた“過去”に拓の気持ちがあったからじゃないのかな」

「…」

「このみちゃんの気持ちはよく判る。君らにとって、拓がどんなに大切なのかも知っている。でも今は、却ってそれがあいつを追いつめる事になるかも知れない」

冴子さんが心配そうにこっちを見てる。

先生の言葉は静かだけれど…

投げかけられた言葉は全て、何処かで覚悟していたコトだけど…

ずきんと重たく胸に響いた。

「…だから――有賀がここに…拓のすぐ近くにいるというのが判った時、何とかしなくてはと思ったの…」

冴子さんが言葉を継いだ。

「私が動けば…彼はイヤでも拓が近くにいると悟るでしょう。だから…迷った。陽ちゃんにも相談して…拓に全てを話して、沖縄へ発つのを止めさせようとも思ったの。けど…」

「あいつにとっての“有賀”の名前は、禁句にも近いキーワードだ。過去を知っているからこそ、簡単には口に出来なかった――という訳ですか…」

冴子さんは、微かにうなずいた。

並木先生は、改めて私の覚悟を確かめるみたいに視線を向けた。

…私――

…私たちは何て暢気で…

何てお気楽に…ここまで過ごして来ちゃったんだろう。

冴子さんと拓兄のコト。

拓兄と智兄ちゃんのコト。

そして…祥子おばちゃんのコト。

私ってば…

私こそ…

自分のことしか、見えてなかった。

『お前はどうだ。大丈夫か？』

浩平が、萩原君と勝負するって言い出した時。

思えば…あれが始まりだった。浩平が自分の生き方を自分で決めた…小さいけれど大きな一歩。

『浩平は判りやすいから。白か黒かはっきり出来る場所が、見つけられればいいなとは思ってた。そうすれば、きっとあいつは答えを見つける。だけどこのみは…そうじゃないだろ』

そうだよ…。

私はいつもそうだった。

割り切れる思いなんて何にもない。それを見つけられる術もない。

だから…何もかも全部、連れて行こうって…そう決めて――

大好きだった智兄ちゃんの思い出も、何もかも。

忘れられないものなら全部、一緒に連れて行こうって、そう決めて――

『いいんだぞ。ムリヤリ理屈くっつけて、ケリつけようとなんかしなくったって』

『忘れたくない。いいじゃんか。いつまでもみんなで智に会いに行けばいいじゃんか。そっちの方がよっぽど判りやすいだろ』

未来へ向かって…歩き始めた浩平を近くで見てて――

不安で不安で一杯で――

割り切れない思い。たくさんの思い出。

私自身のコトまで、あいつにこのままおいて行かれてしまいそうで。

けど、あの一言があったから…

私も自分のヤリ方で、気持ちを決めていいんだって信じられた。

時間が過ぎても…

あいつは何にも変わってなくて…

あの日の事を思い出として話せる機会が少しずつ増えて…

そうやって色んなものが変わっても…変わらないものは、やっぱり近くにそのままあって

――

「…私――」

考えて…

少しの間考えて…

それでも、上手い言葉は見つからなくて…

先生と…冴子さんの目が、私を見つめた。

先生達の言ってる事は…判ってる。

拓兄が、自分から有賀さんに会いに行ったのも…理由はどうあれ、それがあの人の弱さだからだ。

智兄ちゃんを思う事で、智兄ちゃんの思い出を必死に刻みつけて来た――

文字通り、痛みを痛みと感じられなくなるほどに、自分の心を傷つけて。

そうする事で自分の中に、智兄ちゃんの存在を留めて来たんだ。

それがいいとか…

悪いとかじゃなく…

私や浩平や…祥子おばちゃんや…みんながそれぞれ自分自身のやり方で、四年という時間を過ごしたように、それがあの人のやり方だった。

でも。

これ以上…智兄ちゃんの思い出を、辛いだけの記憶にはしたくない。

“あの日”から…やっと時間が流れ始めて…

失くすコトばっかりだった時間の中に、やっと少しずつ積み上げられるモノが見えた気がして…その矢先。

ここでまた…誰かを失くしたりしたら――

考えたくない。そんなコト。

だからこそ浩平が、「行ってこい」って言ったんだから。

…ほとんどゴリ押し。

強行突破もいい所だったけど、並木先生は何とか納得してくれた。

「勝手に有賀にアポ取って、出かけられたりされたら目も当てられないからね」

苦笑して、私の頭をおっきな掌でくしゃっと混ぜた。

――

有賀さんが指定した場所は那覇市内。

国際通りから少し外れたとこにある喫茶店だった。

並木先生と冴子さん、一番後ろから私が続いて…お店のドアを引き開けた。

九月とはいえ、外は30度を越えている。

クーラーから流れる冷風が、ひんやり頬を掠めてく。背中を伝って流れる汗も、みるみるうちにひいて行く。

店内はそんなに広くない。ごくごくありふれた喫茶店。

5、6人がけのカウンター。僅かばかりのボックス席…。

沖縄とは言え…何もかもが東京と違うってワケじゃないんだな…。

私ってば、当然の事に妙にしみじみ感心してる…。

明かりを落としたカウンターの一番奥に、男の人が一人座ってた。

もちろん…他にもお客さんはいたけれど、何故だか直感。瞬間的に、私にはそれが有賀さんだってすぐに判った。

並木先生もやっぱり同じ。

冴子さんが足を踏み出したのに続いて、私たちもその人の近くへと進んで行った。

Tシャツに…モスグリーンのキャップをかぶってる。

黒のサングラスをかけたまま、手元のケータイを退屈そうに開けたり閉じたり。

――その時。はっとした。

携帯電話の、そのボディ。

皮の細紐に、細かな細工の入ったビーズを通したストラップ…。

それは――サイパンのおみやげで…

自分のだけが、みんなのよりも凝ったデザインになっていて…

私も、お母さんも「ずるいよね！」って文句を言って…

それを涼しく笑って聞き流してた――拓兄。

サングラスの奥の目が一番最初に捉えたのは、傍らに立った冴子さんの事だった。

…薄く笑うと立ち上がる。

思っていたより、ずうっと長身…。

きっと、並木先生と同じくらいだ。

冴子さんは、『T’sのフロアマネージャーだった』って言っていたけど…

この人だったら…きっと、さぞかし頼りになるマネージャーさんだったのに違いない。

持ってたケータイをするりとジーンズのポケットに滑らせて…

紳士的だけど、物腰は鋭い。

T’sのあの黒服も、もの凄くよく似合ってたんじゃないのかな…。

並木先生が、私のことを有賀さんから庇うみたいに小さく一歩前に出た。

「怒ってます…？」

軽く会釈した後で、穏やかな声。

「でもね、これは彼が望んだ事だから」

「勝手な事を言わないで」

冴子さんが鋭く答えた。

「『二度と会わない』。そう約束したじゃない」

「俺が彼を呼んだんじゃない。彼が俺に会いに来たんだ」

有賀さんは、サングラスを外すとにこりと笑った。

「あの時、拓も空港にいたんですよ。こんな偶然ってありますか？」

「…」

「まさしく、あの瞬間の再現でした。彼は何も変わってなかった。あの時のままそこにいた。感謝しましたよ、貴女には。お陰で…彼の時間はあの日から、全く進まないままだったんだから」

「そうじゃないでしょう？あなたがそうさせたんじゃない。あなたが彼に、そういう記憶を散々植えつけて来たんでしょう？」

「『あなたが』…ですか？」

「…」

「それを言うなら、私たちが、の間違いですよね？」

「…」

「ご自分だけが綺麗なままとは…いくらなんでも言えませんよね？俺と貴女と…彼にして来た事の、一体何が違ってますか」

口調は…穏やか。

けどその裏に…

研ぎ澄まされたナイフみたいな…ちりちりとした痛みを感じる。

…判ってる。

逃げてちゃいけないのは判ってる。

けど何か…得体の知れない“怖さ”を感じる…。

それが、いったい何なのか…よく判らない。けど――

もしも…

もしも兄キがこの人と、今も一緒にいるのだとしたら…

記憶を失くした兄キの様子が、どんなんなのかは判らないけど…やっぱり早く――

出来るものなら少しでも早く――

何とかしなくちゃいけないんじゃないかとその時思う。

…無意識に、先生の大きな背中にそっと身体を寄せていた。

 


･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　



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