「こんばんは。並木先生」

ぎくっ、とした。

先生の背中から…肩越しに有賀さんの顔を見る。

…浩平だったら――真っ先に手が出ちゃうんだろうな、っていうタイプのひと。

一見にこにこしてるけど…

お腹の中では、一体何を考えてるのか判らないっていうか…

冴子さんとのやりとりを聴いてても…きっとあいつの、一番大っ嫌いなタイプの相手。

さっきから黙ったまんまの並木先生も、たぶん、それと同じ気持ち…。

「あんたは、一体何なんだ？」

その先生の、真っ直ぐ通る大きな声。

お店の中が、しん…と一瞬静まりかえる。

「目的は何だ。拓を一体どうしたい？」

「…以前、質問させて頂きましたよね…？プロの水中カメラマンのあなたが、どうしてこんな役目を引き受けたのか。単なるビジネス？それとも…」

「有賀」

冴子さんが割って入った。

「取引しましょう」

「…取引？」

「条件を言って。彼を返して」

「ちょっと待って下さいよ。まだ、誰も応じるなんて言ってませんって。それとも…俺には、選択の余地さえない、という事…？」

さっきまで腰掛けていたカウンターの席に置いてあったタバコに手を伸ばす。

「…彼はあんまり、帰りたいとは思ってないようですよ」

「そんなもの、あんたが決めるコトじゃないだろ」

「拓にとっては、あなたといるより今の方が精神衛生上いいような気がするんです」

「あんな状態であってもか」

「言っておきますけど…俺と会ったから、そうなったワケじゃないですよ。あなた達といる中で、そういう風に追い込まれて行ったんじゃないですか。まさか…気がつかなかったワケじゃない、ですよね？」

「…」

「俺と会った時には、既に、拓の心には何人かのあいつがいましたよ。そうでもしなくちゃ自分を保っていられなかったんだろうけど…だとしたら、酷な話だと思いませんか」

「…」

「大体ね…無理矢理現実を見せようとするから、こんな事になるんです。拓は、あのまんまで幸せだったんだ。“彼”のためなら。“彼”の分まで。それがあいつの生きてる理由だったんだから。松葉杖を使ってどうにかこうにか歩いてたような人間から、いきなりそれを奪ったらどうなる？地面に倒れて大けがするでしょ…？」 

…ねぇ？

意味ありな笑みで冴子さんの方を見る。

「…もう、いいじゃないですか、壊れちまったモノは仕方ない。後かたづけは全部引き受けますよ。その代わり、中途半端な罪の意識なら止めて下さいね。貴女らしくないですから。私欲のためなら人心でさえも利用する…。俺たち、実際上手くやってたと思いますよ」

「ふざけるな」

並木先生が怒って言った。

「勝手に人の自由を奪っておいて、後かたづけって一体どういう意味だ！いいからさっさと拓を渡せ！」

「…判らない人だなぁ。会ってどうするんですか。記憶のない彼にとっては、あなたの方が“会った事もない誰か”ってコトになるんですよ。ここで無理矢理連れて帰ったって、彼にとっては強制としか受け止めてもらえないんじゃないですか？」

「…」

「こういう事態を引き起こした責任を少しは感じて下さいよ。真っ正面から受け止めるだけが、強さだなんて勘違いしないで下さいね。そんなもの、現実を直視してはいられないから適当に折り合いをくっつけて、誤魔化してるだけなんですよ。自分を見失うほど辛くても、その辛さこそが、失くした存在があの時確かにそこにいた、確からしさの証明だって実感出来たりするんです。日常に同化して忘れるよりも、本人にはずうっと…幸せだったりするんです」

…その言葉に――はっとした。

「いいとか悪いとかの問題じゃない。生き方も考え方も、人はそれぞれですからね」

吸い終わったタバコをぎゅっと灰皿に押しつけて。

有賀さんは、にっこり笑った。

――――
 

「…私――あの人の言ってるコト、判る気がする…」

ホテルに戻って。

私の部屋に三人揃って集まった。

何となく…食事をする気にもなれなくて――

テーブルには、冴子さんがルームサービスで頼んでくれたアイスコーヒーのグラスが三つ並んだまんまになっている。グラスの周りの水滴が、小さく一筋流れて落ちる…。

「あの人…って、有賀のコト？」

「うん…。『真っ正面から受け止めるだけが強さじゃない』って言っていた…。受け止めて――ううん、受け止めたフリをして本当は、それを考えてるのが辛いから…だから、前に進むんだなんて誤魔化して――」

「…このみちゃん」

「結局は…私たち、智兄ちゃんのコトを忘れようとしているだけ、なのかな…」

「それは違うよ」

「…」

「生きてる限り、時間は未来へ向かって進んでく。間違っても過去に戻るコトはあり得ないし、どんなに楽しい時間もいつかは終わって、過去へ流れる。それが、人が生きてる証拠なんだから。誤魔化してるワケでもなんでもなくて、それが現実。自分を責めて、それで過去の確認作業をしているなんて、幸せでも何でもない。第一、辛さが幸せなんて絶対ヘンだって。君も前に言ってたじゃない。智紘君は、不幸せだけを抱えて逝ったと思っているのかい？」

「…」

「…確かに、あいつも言ってた通り、自分を責めるって言うのは簡単だからね。でも、所詮はそんなの自己満足でしょ？彼が何を思って死んだかなんて、本当に判る人間は何処にもいないんだ」

「私…」

「うん？」

「先生の言ってるコトは判ってるよ。判ってるような気がするだけかも知れないけれど…その通りだって思うもの。けど…お兄ちゃんの辛い気持ちもよく判る。智兄ちゃんがいなくなったコトをやっばりまだ…四年もたつのに――受け入れられていないんだ。何となく…だよ。何となく、だけど…私、自分を傷つけて初めて判る――感じられるコトってあるんじゃないか、って…思ったの。お兄ちゃんを見ていると、何だか、すごく苦しくなって…切なくなる時って何度かあって…けど、その痛みはね、智兄ちゃんがそこにいて、そして今は確実に――どんなモノより確実に、いないんだっていう痛みなんだよね…」

「…」

「なのに…お墓の前でお線香あげても…祥子おばちゃんのとこで写真を見ても…心の何処かで“いない”って事実が信じられない自分もいるの。判ってるんだよ。いないってコトは判ってるんだけど…自己満足でも何でもいいから智兄ちゃんがここにいた――確かに私たちとここにいたコトを力一杯感じたい――そういう思いもすごくあるの…」

有賀さんは…

あの人の本心は見えないけど…それを知っている。

私たちには…“今”をふつうに生きてる人が、まぶしくさえ思える瞬間(とき)があるコト。

プールで必死に手足をバタバタ振り回して…

水をつかもうとしてるみたいに、ちっとも前に進まない自分が苦しくて…

いつまでも辛い過去にとらわれて、変わっていけない自分がイヤで…

でも、それはそれでいいんだよ、って――

辛くても…

胸が痛くても…

そう感じるコトは決して間違ってないんだよ、って――

言ってくれる誰かをずっと…私たちは心の何処かで、探していたのかも知れない。

先生が、私を有賀さんに会わせたくなかった理由が判る。

私には、あの時、あの人が言ってる言葉の意味がすごく判った。

このまんまでいいんだよ。

そのまま、そうして…

そこにそうして…

もがくコトもあがくコトも何にもしないで、そのまんまでいいんだよ、って…

言ってくれてるのがすごく判った。

「こんなコト言ったら…お兄ちゃんのために力を貸してくれている先生や…冴子さんに、ごめんなさいって思うんだけど…確かに今…お兄ちゃんは、幸せなのかも知れない」

「…」

「会ってもいないのに…こんなコト、決めつけちゃいけないのかも知れないけれど…それでお兄ちゃんが幸せなら――」

「このみちゃん」

強い声がした。

冴子さんの声だった。

「拓は決して幸せなんかじゃないと思うわ」

「…」

「何故なら…私たちはもっと別の思いで、彼を縛り付けて来たからよ。私も…有賀も――あの時は、彼の気持ちなんてどうでもよかった。彼の幸せなんて何も考えていなかった」

「…冴子さん」

「今の拓の心にあるのは、もっと正反対の思い。恐怖とか…とてつもない無力感。力で尊厳を奪われ続けてきた人間が抱く、ごく当たり前の絶望感よ」

「…」

「私たちはそうやって彼の自律を奪って来たの。有賀と一緒にいる限り、彼にはそこから逃れようとか…誰かに助けを求めようとか…そもそも、自分の心の痛みさえ、自覚出来ずにいるんだと思う」

――言葉を失くして…冴子さんの顔を見る。

そこにいるのは…間違いなく冴子さん。

綺麗で…

美人で…

優しく笑ってくれた冴子さん…。

その筈なのに――

何だか…一瞬――

ほんの一瞬だったけど…あの人と…

有賀さんの持ってる空気と…何だかすごくよく似た気がして…

「私に…全てを任せてもらえない？」

「…」

「前に進むって言ってたよね…？」

「えっ…？」

「浩平君と、そういう結論を出したんでしょう？無理矢理忘れるのでもない、過去に引きずられて辛くなるだけでもない、一緒に行く、連れて行く――。私も逃げない。打ち消すのでもない。そうして拓を連れ戻したいの」

冴子さんは、並木先生の方を見た。

「俺もね、拓に本当の海の中を見せてやりたいんですよ。智紘君が“見たかった”世界じゃない、あいつに“見せたい”世界が、ここにはまだまだたくさんあるんだ」

「力を…貸して頂けますか…？」

「もちろんですよ」

先生は大きくうなずいた。

「海の中だけじゃない。自分の周りの世界全てを、そんな風にしか見られないんだとしたら…とんでもない不幸だ。あいつが俺と座間味へ行くって決めたのも、たぶん…ここから何かを始めようとしていたからじゃないかと思うし…第一、俺との契約は、来年の春まで残っているんですからね」

――

「…で、結局お前は帰って来たワケ？」

電話の向こうで浩平が言う。

「だって…冴子さんが――」

「ガキみたいな言い訳するんじゃないの」

…だって――

仕方ないじゃない。

あの空気の中で、更に自分もついて行くとは言い出せなかった。

あの日、出会った有賀さん…

そして、冴子さん。

二人の間には私なんかには到底入り込めない“何か”があったし…

そこには、例えば家族、とか…

肉親、なんて言葉はとてつもなくちっちゃく思えて…。

要は、大人の雰囲気に気圧されたってコトになるんだろうけど…

「大丈夫…だよね」

「何が？」

「冴子さんに、任せて来ちゃって…大丈夫、なんだよね」

…一年前。

兄キが横川のまーちゃんの口添えでオーストラリアへ留学するって決めて…

出発当日の空港で、冴子さんと劇的に再会を果たした日。

そこをマスコミの人に嗅ぎ付けられて、無関係の浩平までとんでもないスキャンダルの的にされそうになった時、助けてくれたのは冴子さんだった。

でも…それは――

自分の罪を真っ正面から受け止めて、その上で…捨て身の覚悟を決めてるみたいで…

実際冴子さんは、それまで自分がして来た事を告白するのと引き替えに、拓兄を行かせようとしてたんだ。

あの時はまーちゃんの咄嗟の機転で何とかなったけど…

『私に…全てを任せてもらえない？』

そう言った冴子さんの表情はあの時と同じ、誰にも有無を言わせない強い決意に満ちていて――

「大丈夫だよ」

浩平が言う。

「あの人が自分から『任せてほしい』って言ったんだろ？だったら、悪いようにはしないと思うよ」

「だよね…？そうだよね」

「ああ」

笑ってる。浩平の顔が目の前に浮かぶ。

それだけで…何だかすごくほっとする。

「私ね…家族なんだから、自分達で何とかしなくちゃいけないんじゃないかって思ってた。私たちがもっとしっかり兄キのコトをつかまえて、連れ戻さなくちゃいけないんじゃないかって。でも…こんな風に少しずつ、みんながそれぞれのやり方で、ここから離れて行くのかも知れないね」

「…」

「浩平は…萩原君や榎本さんや、今の自分と関わってくれてる人たちの中で行く道を見つけて行ったでしょ？祥子おばちゃんも杉崎先生と出会って、新しい生活を始めてみようって考えて…。もしかしたら拓兄も、並木先生や、座間味の人たちとの出会いの中で、新しい何かを見つけられるかも知れないよね。いなくなってしまった人は、もちろん大切な思い出だけど…これからのコトを見つけ出すのは、ここでこうして一緒にいてくれる人たちなんだよね」

「お前さ――もしかして、相当弱気になってない？」

「…」

「これからのコトを見つけても、“今まで”がなくなっちまうワケじゃないだろ。冴子さんは拓さんを『連れ戻して』くれるって言ったんだろ。大丈夫だよ」

「…」

「お前は拓さんのたった一人の妹なんだし、あの人の記憶がどうなろうと事実は変わらないんだから。――絶対ここに帰って来るって。それにさ」

「うん…」

「おれが残るって決めたのは、雅巳や千晶のお陰じゃないぞ。おれが決めたの。あくまでも、決めたのはおれ自身なんだからな」

受話器を握って、くすりと笑う。

…判ってるよ、そんなコト。

あいつ特有の照れもあるのかも知れないけれど…

せっかく嬉しい言葉を聞かせてくれたと思ったのにな。

最後の一言があいつらしすぎ…。

指先で小さく涙を拭う。

「拓さんのコトも大事だけど、お前自身の方はどうなったんだよ。目指す目標は決めたんだろうな」

「決めたけど…国体が終わったら教えるね」

「…何だ？それ」

「それが終わったらじき浩平の誕生日だし…その時話すね」

…出来れば――会いたい。

その後、またすぐ海外遠征が控えてるのは知ってたけれど…ここに残る、って――

進学はしないで、フリーズキールでお菓子作りの勉強をしたい、って――

私にとっては大事なコトを伝えるんだもの、電話なんかじゃなくて出来れば…直接会って話したい…。

その選択がいいのか悪いのか、今はまだよく判らない。

けどここで、みんなのコトを迎えたい。

浩平や…拓兄や…

みんなが帰って来た時に、せめて今までと同じに「お帰り」ってここで迎えたい。

それを聴かせたら…あいつはどんな顔をするだろう…。

「監督に訊いてみるよ」

「えっ？何を？」

「国体が終わったら、週末一日でいいから帰らせてもらってもいいかって」

「うそっ！本当に？！」

「返事はおれの結果次第だと思うけどな」

…信じられない！

あいつから、こんな言葉が聞けるなんて。

国体が終わったら会えるなんて、全然思ってもいなかったのに。

「おいっ、あんまりマジで期待すんなよ！まだ監督には何も話してないんだからな！」

慌てて聞こえる浩平の声。

判ってる。そんなコトはとっくに判ってるわよ。

けどね…

私が会いたい、って思った時に、「会おう」って伝えてくれたのは今日が初めてだったんだよ？

浩平が今どんな状況にいるかだなんて、いくら私だって想像はつく。

そういう中で…

「会おう」って思ってくれたコト。

ほんのささいなコトだけど…私には――

今の私には、すごく大きな出来事で――

「会おう」って思ってくれたコト。

あいつが、そう思ってくれたコト。

もしもそれが叶わなくても、とんでもなく嬉しい出来事で…

「ありがと、浩平」

「…『ありがと』って…だから、まだ何も決まったワケじゃないんだってばっ！」

慌てた様子が可笑しくて…

笑った拍子に浮かんだ涙を、もう一度、人差し指でそっとすくった。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(C) Copyright 2005 twin All right reserved.