…遠くに聞こえる波の音。

ゆっくりそれが近づいて…

――目を開けた。

眼下に広がる青い海。

九月も半ばが過ぎたというのに、波間の照り返しは十分に真夏の強さを保ってる。

…いつもの岩場。

というコトは…おれは、智を待っているんだ…。

途切れた記憶。

置かれた状況から今の自分を把握する、このやり方にも随分慣れた。

何故、ここにいる？

どうしてここで智を待つ？

それは、おれが考えるコトじゃない。

ここにこうしているコトが…それだけが、おれの唯一の役割だから。

…

「こんにちは」

背中から聞こえた声に振り向くと…女が一人立っていた。

白い半袖のブラウスに紺のスカート。一目で地元の人間じゃないと判った。

砂浜に立っている足下は、ヒールの踵が根本まで砂に埋まってしまってる。けど、それを気にする様子も全くなしに、彼女は、おれが座ってる岩場の近くまでやって来ると、微笑みながらこっちを見上げた。

「綺麗な海ね」

「普段は…もっと波があるんだよ」

おれは答えた。

「ここはもう外洋が近いから、沖縄の海にしては見かけより、流れも波も荒いんだ」

「そこから見える？」

「何が…？」

「珊瑚礁。沖縄の海では、潜らなくても珊瑚が見えるって聴いたけど」

「場所によるんだよ。海は確かに澄んでるけれど、ここからは…珊瑚までは見えないよ」

「私もそこへ行っていい？」

「え…？」

「あなたの隣。景色がよく見渡せそう」

「…」

ヒールの足で、こんなとこまでどうやって上がってくるつもりだよ…。

…思っていると、彼女は靴をその場に脱ぎ捨てた。

華奢な白い指先が、目の前の岩を掴もうとする。

咄嗟に手を差し出すと、彼女はにこりと笑顔を見せた。

「ありがとう」

軽く身体を引き上げる。

その時だった。

この…香り。

鼻腔を掠めた澄んだ香りに息を飲む。

そんなおれの反応を静かに見つめる茶色の瞳。

…この感じは…何なんだ…？

声が…出ない。

言おうとした事。それが何だったかも思い出せない。喉の奥に、まるでカギでもかかったみたいに言葉が全く出てこない。

愛おしいのに――

何故だかそれを…愛おしいとさえ思うのに…

「ここで…何をしているの？」

彼女が訊いた。

「人を…待ってる」

「人を…？」

「約束したんだ。一緒に、海に潜ろうって」

「お友達…？」

「そう。…いや、どうなんだろう…」

「その人は…いつ、ここに来るの…？」

「判らない。そもそも…ほんとに来るのかどうかも判らないんだ」

…不思議な感覚。デジャビュ、みたいな。

前にも何処かで…こんな風に、彼女と話をしたような気がする。彼女の物言い、声のトーン、そして…ほのかに漂う、この香り。

何処かでおれは…これを知ってる…。

けど、そこまでだ。

そこから先は…おれが考えてはいけないコトだ。

 “拓”なら、きっと知ってる筈の事だろうから…。

――その時。

不意に足下に、誰かの気配を感じて視線を落とした。

そこには、いつの間にか礼がいて…

口を結んで、憮然とこっちを見上げてた。

「お帰り。…どうしたんだよ、おっかない顔して。ランドセルは？一度家に寄って来たのか？」

「…」

礼は黙って隣の彼女に視線を投げた。

…知り合い同士…というワケでもなさそうだ。

おれと初めて会った時もそうだったけど、こいつの人見知りは極端にひどい。育った環境のせいなのか、年頃的に当たり前の事なのか…。

その礼が…

幾ら人見知りするとは言え、通りすがりの旅行者相手にここまで警戒心をむき出しにするのも珍しい。全身の毛を逆立てて、捨て身でテリトリーを守ろうとする小動物みたいだ。

おれは、礼の前へと飛び降りた。

そして、まだ岩の上にいる彼女に向かって手を差し伸べる。

「――拓」

おれの手を取って、彼女が言った。

「迎えに来たの。みんなも心配しているわ。私と一緒に帰りましょう」

…

静かに砂浜に足を着く。それと同時の彼女の言葉に、おれは耳を疑った。

「…何だって？」

「あなたの名前は織原　拓。他の誰でもない、あなた自身が“拓”なの」

「…」

「ここで待ってても誰も来ないわ。智紘君は…何処にもいないの。その事をあなたは他の誰より知ってる筈よ」

「智が――何処にもいないって…？」

「そうよ」

「嘘だ。だって“あいつ”が…」

「…幾らここで待ってても、あなたの望む人は…ここへも、何処へも、決して現れはしないのよ」

次の瞬間。

礼がいきなり彼女の身体を突き飛ばした。

この間のケンカに負けない位のすごい勢い。咄嗟の事に、彼女は大きくよろめいた。

「…礼！」

「そんなの嘘だ！デタラメ言うな！」

大声で喚く。必死の顔で。

おれは礼の頭に手を乗せた。

「…おい。何をいきなり怒ってるんだよ。誰もお前のお母さんの事なんて言ってないよ」

「お母さん…？」

「礼は、この浜辺で母親の帰りを待っているんだ」

「…」

「謝れよ」

礼の視線の高さに合わせて膝を折る。

礼は、ふてくされたように横を向く。

そんなおれ達のやりとりを、何故か彼女は悲しそうに見つめてた。

「ねえ。さっき…智は何処にもいないって言ったよね」

おれは尋ねた。

「ええ…」

「あんたは、あいつの事を知っているのか？」

「知ってるわ。智紘君の事だけじゃない、あなたの事も。あなたは彼にとって、一番大切な存在だったの」

「…」

――チガウ。

頭の片隅で声がした。

――ソレハ、オ前ノコトジャナイ。オ前ナンカガ智ニトッテ『一番大切ナ存在』デアル筈ナイダロ…？

…判ってる。

そんなコトは判ってる。

それに…おれは、そんなコトを思っちゃいけない。それはおれがするコトじゃない。

おれはここで智を待つ。

ずっと…ここで智を待つ。

それだけのモノ。

ただ、それだけのためにここにいて…

「智紘君は死んだのよ。四年も前に。あなたも遺体を確認に行って…あなた達が約束してたのはこの海じゃない。ここでは――ないのよ」

「…」

「あなたが現実から逃げているだけ。いくら何かを期待しても…誰も来ないわ。あなたの居場所は、ここではないの」

――意識ヲ閉ジロ。

また声がした。

いつもと比べて、ひどく慌てているように感じる響き。けれど、それに逆らう事は許されないし、元より出来る筈もない。

せっかく礼がここにいるのに…。

今日も一緒に海に出かけようと思ってたのに…。

渋々うなずく。

すると、それを待ってたみたいに意識が遠のく。糸が切れた風船みたいに、ゆらゆら揺れて消えて行く。

――けど、次の瞬間。

強く腕を掴まれてハッとした。

細い指先。そこから伝わる痛い位の…その力。

痺れるような痛みと同時に――彼女の声が…閉じ損なった意識の隙間に入り込む。

「思い出して。あなたは、どうしてここにいるの？来ない人を待つためじゃない。あなたはあなたの新しい一歩を踏み出すために、並木先生と座間味へ来たんじゃなかったの？」

「…」

――座間味…という言葉。

――並木…という言葉。

何かが心に引っかかる。

「智は…死んだ…？」

「そうよ」

彼女の顔が苦しそうにうなずいた。

「だから…帰るの。このみちゃんも浩平君も、みんなが待ってる。拓の事を待ってる人が大勢いるの」

「…」

腰の辺りに、何かがぶつかるような衝撃が伝わった。

礼だった。

ほんのさっきの、ふてくされたような顔とは打って変わって…

両手でおれの足に抱きついて、今にも泣き出しそうな顔で見上げてる。

「…行かないで」

「…えっ？」

「行っちゃイヤだ。行かないで」

「…」

「『ここで待つ』って言ってたじゃん！何があってもここにいなくちゃダメなんだって！」

「礼…？」

「ここにいてよ！拓の言うコト何でも聴くから！」

必死の声で彼は言う。

「何処にも行かないでよ！ここにいてよ！」

「…」

おれは笑った。

「…ここの他に、おれが何処へ行くんだよ」

きかん気の、真っ黒に日焼けした小さな顔。
澄んだ目から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。

――何処へも行かない。ここで待つ。

それがおれに出来る事。

智のためなら。智の分まで。

それ以外に、おれに出来るコトなんて…

モトモト、ナンニモナカッタジャナイカ…。

――ソレデイイ。

聞こえて来るのは“あいつ”の声だ。

――オ前ハココニイレバイイ。ココデ智ヲ待テバイイ。

智が生きていようが死んでいようが…それは、おれが考えてはいけない事だ。

『父さんには…他につき合ってる人がいる。』

『ずっと…前から。知っていたんだ。』

…

知っていながら、誰にも打ち明ける事も出来ないで――

いつもと何ら変わらずに、ふるまい続けたあいつを思う。

近くにいたのに。あんなにも。

おれには何も出来なくて――

…目の前に――

泣いてる誰かの姿が浮かぶ。

闇の中。

心細げに肩を震わせて…両手で顔を覆ってる。

そのすぐ脇に、同じくらいの背格好の…別の誰かが立っている。

一見…泣いてる相手をなぐさめているようにも見えるけど…そうじゃない。

その口元は、うっすらと…冷たい微笑さえ浮かべてて…

ほどなく消えた一瞬の“画”。

けれどそれが誰なのかは、おれにはとっくに判ってる。

どっちも“拓”。

“拓”…自身だ。

――あなたの名前は織原　拓。他の誰でもない、あなた自身が“拓”なの。

…

――次の瞬間。

まるでヒューズが飛んだみたいに思考が完全に停止した。

辺りは闇に包まれて…

礼の姿も、さっきまでの彼女の声も…あの香りさえ…一瞬にして消え失せた。

…タスケテ。

何もない。誰もいない。

伸ばした腕を取ってくれる何者もいない事なんか、おれが誰より知っているのに。

――

ホテルに戻った。

部屋では並木先生が待っていて…

穏やかな笑顔を見たとたん、堰を切ったように涙があふれた。

「ど…どうしました？」

「…」

『ご自分だけが綺麗なままとは…いくらなんでも言えませんよね？俺と貴女と…彼にして来た事の、一体何が違ってますか』

彼の…言ってる事は違っていない。

こんな私が、何を目的にここにいるのか。

拓をここまで追い詰めたもの。そのきっかけは私と…有賀だ。そして、その有賀に拓を引き会わせたのは…この私。

自らの痛みと引き替えに夢に近づく。

体の良い言葉で近づいて…彼の心に、取り返しのつかない傷をつけさせたのは…

紛れもない、この私。

…有賀に会うという事は、私自身も過去と向き会うという事だ。

心を病んだ相手を前に、自分の愚かさ、無力さを思い知らされる。

覚悟は…していた。それなのに。

この痛みは何なのだろう…。

彼の抱えた傷の深さを、改めて目の当たりにしたからか。

それとも…遅きに失した後悔か。

『智は…死んだ…？』

聞き返した時の彼の顔。

記憶を失くしているとは言え…

辛い現実を一方的に突きつけて、これで本当によかったのか…。また彼を、いたずらに傷つけただけではないのだろうか…。

並木先生は、黙って傍にいてくれた。

「拓に…会えたんですね？」

「はい。彼は、智紘君が現れると信じてそこで待ってる様子でした。…だけど…闇雲に現実を突きつけても、彼を追い詰めてるだけのような気がして…。でも…それでも、進まなくてはいけないんですよね」

「…」

「抜け落ちた階段をそのままにして上へは行けない。だから…今まで逃げて来た事への報いだと思って進むしか…」

「神崎さん。安易に自分を責めるのは止めましょう」

「…」

「このみちゃんも言ってたじゃないですか。大切なのはあなたの気持ち。罪の意識で行動したって拓は戻って来ませんよ」

先生は言った。

「あなたにその気持ちがなかったら、俺だってこんなとこまで仕事をほっぽり出して来ませんよ。あいつの中では、今では過去は、都合の良いように形を変えてますからね。まともに行ったら勝てる相手じゃないんです」

ホテルの窓からは…沖縄の海が見えていた。

何処までも澄んだコバルトブルー。

けどここは、過去の大戦で無数の悲劇が刻まれた場所だ。

死者との対話に、これほど相応しい所もないかも知れない。

「俺は…拓に、もっともっとダイビングの良さと怖さを知ってほしいと思ってます。智紘君が残してくれた遺産を、あいつなりに育てていってほしいんです。それがあの日…あの場所で、俺と彼が出会えた事の、ほんとの意味だと思ってますから」

…出会えた事の、ほんとの意味。

先生らしい、さらりとした言い方が心に響いた。

先生は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「出会いは必然って思うタイプなんですよ。特に…あの２人とはね」

…生前の、智紘君と一番最後に会った人。

そういう人と私が出会い…

拓やこのみちゃんとも関わりを持つようになった事。

そうかも…知れない。

…墜ちて行く飛行機の中で…きっと彼は最後まで、拓やその周りの人々を気遣ったのに違いない。

…残した夢。

友人に背負わせてしまった現実の重さ。

それらに胸を裂かれそうになりながら…

だからこそ、彼がこうして私たちを引き会わせてくれたのだと信じたい。

「しばらく…浜に通ってみようと思います。ゆっくり…そこで少しずつ、拓と話をしてみようと思います」

「そうですか」

「ほんの僅かでしたけど…何かを感じてくれた瞬間もあったんです。彼自身も決してこのままでいいとは思っていない。…割り切れない何かを感じながらも、無理矢理あの場所に縛られている様な気もしました」

先生は、小さくうなずいた。

「座間味にいた時に、世話になってた友人がいます。その奥さんは拓に、亡くなった弟の面影を重ねてて…今も、とても心配してくれてます。写真を送ってもらいました。これを見せたら、何かを掴むかも知れない」

白い封筒を受け取った。

中には数枚の…

並木先生と拓、そしてそのご夫婦達との微笑ましいスナップ写真。

…何故か少し緊張気味にカメラに収まる拓の顔は、私が知ってるどの彼とも違って見えた。

「私…」

「はい？」

「さっき…先生がおっしゃってましたよね。出会いは必然、っていう言葉。私も…そうだと思います」

「…」

「拓が座間味へ行ったのも、この方達と会えたのも、きっと何か理由があったんじゃないかって…」

まさしく彼は、ここで何かを始めようとしてたのだ。

手探りで…

過去を未来へと繋げるために――。

先生は笑うと照れくさそうに、頭の後ろに手を当てた。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　



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