次の日も…浜に行くと拓はいた。

昨日別れた時と同じに…

島に来てから、ずっとそうして来たように…

岩場に座って海を見ている。

一見した様子は、昨日と何ら変わりない。

けれど…

ここにこうしている彼は…私と交わした昨日の言葉を、記憶に留めてくれてるのだろうか。

もしも…何も覚えてなかったら…。

それが彼の心の痛み――傷の深さなのだと判っていても足がすくんだ。

…出発前に、藤沢先生から言われた言葉を思い出す。

一方的に結論を与えてしまうのではなく、共に考える事。

散り散りの思考を整理して…

心の痛みに気付くこと。

癒されたいと…

救われたいと…

感じている自分に気付くこと。

…今の私に何が出来るかなんて判らない。何も…出来ないのかも知れない。

『このみちゃんも言ってたじゃないですか。大切なのはあなたの気持ち。罪の意識で行動したって拓は戻って来ませんよ』

…

並木先生の言葉に背中を押される様にして…私は、彼の前へと足を運んだ。

「こんにちは」

声をかけると、澄んだ瞳が振り返った。

Tシャツと、膝までの丈のアイスブルーのジーンズ姿は、地元の若者のように島の風景にとけ込んでいた。

「昨日は、ごめん」

岩場から飛び降りて拓が言った。

「礼は人見知りが強いから…あなたがおれを何処かに連れて行くんじゃないかって、勝手に勘違いしたみたい」

「…」

「礼の親父さんは島の厄介者でさ…母親も本島に出たまま行方知れずだし…こんな小さな島の中さえ、あいつの居場所は何処にもないんだ」

無邪気に笑う。

その笑顔にほっとした。

「…だから、あなたを慕っているのね」

「えっ？」

「礼君は、本当は判っているのよ。あなたが…ここにいる人ではないんだって。…判るから、それを感じさせるものを拒むのよ。あなたとずっと一緒にいたくても、それが叶わない事を知っているんだと思う」

「…」

拓の瞳が私を見た。

「昨日…『智はいない』って言ってたよね」

「…ええ」

「死んだの…？智は。本当に…？」

小さくうなずく。

「…どうしてあなたはそれを知ってる…？」

「大切な人を失って…辛かった時のあなたを知っているからよ」

「…でも…“拓”はおれには何にも言わない」

「あなたは…彼の心のひとつなのよ」

「…」

「“拓”は他の何処でもない、あなたの心の中にいるの」

…やわらかな風が吹き抜けた。

コバルトの海が静かにきらめく。

拓は悲しそうに目を伏せた。

「…だったら…どうして、おれは此処にいるんだろう…」

「…」

「“拓”は、ここで智を待つコトが、おれの役割なんだって言っていた。けど…智は死んでいないのに…」

「…」

「どうして“拓”は、そんな事をこのおれに…」

「どうしてだと思う…？」

「…」

「いない筈の人を…どうして“拓”は、あなたに待ってるように言ったのかしら…」

「…判らない」

「何でもいいの。思った事を言ってみて」

「…それは、おれが考えたりしてはいけない事だから…」

「…」

「ここで…海を見て…智が来るのを待っていればそれでいいって…それだけのためにおれはここにいて…でも――」

「…でも…？」

「でも…その智が死んでしまってるなら…おれは、ここにいなくてもいいって事なの…？」

「礼君は、そうは思っていなんじゃない？」

「…礼…」

「さっき、あなた自身も言っていたじゃない。彼は、あなたに此処にいてほしいって思ってる。あなたがここにいる理由とは関係なしに、ただあなたに、傍にいてほしいって思ってる」

「…」

「だから…たとえ智紘君が来なくても…あなたは此処にいていいの」

「智が…来なくても…」

「自分の意思で、あなた自身が、そうしたいと思うんだったらそれでいいのよ」

「…」

「他の誰かが決めるんじゃない。あなた自身がそう思うんなら…それでいいの」

「…」

不意に、拓の目から涙がこぼれた。

「…判らない…」

「…」

「おれ自身って…何？おれが決めていいってどういう事…？おれには何も決められない。…智がいないのに…おれは、ここで誰を待っていればいいの…？」

「…」

「誰も来ないって判ってるのに…一人で待ってるなんて、そんなの嫌だ。智は来ないの？ほんとに来ないの…？だったら、僕はどうしたら…」

子供のように、拓はぽろぽろと涙をこぼした。

その時、気付いた。

ここにいるのは…もはや昨日の彼ではないのだ。

前に、並木先生が電話で話したと言っていた、幼い子供のようだったという拓。

彼の思考は一瞬の間に何処かで途切れて…別の人格にすり替わってる。

昨日と…同じだ。

突然に全くの無為となり、礼君に手を引かれて連れて行かれた…あの時と。

大粒の涙が、頬をすべって落ちていく。

悲しみに満ちた少年の顔がそこにはあった。

私が知ってる拓ではない。けれど、ここにいるのは紛れもなく彼の心の一部分。

拓が、心に留めて来たものが結んだひとつの形。

でもそれは、暴走した意識が映し出す「まぼろし」でしかない。制御の効かないエンジンのように…確実に、彼自身の心を疲弊させて行く。

このままでは…いけない。

判ってはいても…何をどうして行けばいいのか――

私に…何が出来るのか――。

あせればあせる程、きっかけさえも掴めない。

「…私も、待つから」

「…」

「あなたと一緒にここにいるから、だから…そんな風に泣かないで」

「…誰？」

拓が訊いた。

「私の名前は、神崎冴子」

「…さえ、こ…」

「私たち、前に…会ったことがあるかしら…？」

「…判らない。けど…“拓”が…前に…」

「…」

「僕が…有賀さんにいじめられていた時に“拓”が助けてくれたんだ。その時に、少しだけ“さえこ”って名前を感じた気がする…。…恐かったから、よく覚えていないけど」

「あなたは…“拓”と会った事があるの…？」

「有賀さんは…僕の事を嫌ってるから…だから、よく怒られて…そうするといつも助けてくれるのは“拓”なんだ。“拓”はすごいよ。有賀さんの事だって殴ったり出来る。“拓”だけだよ、僕を助けてくれるのは」

はやる気持ちを抑えて尋ねた。

「どうしたら…“拓”と話が出来るかしら？」

「冴子は、“拓”に会いたいの…？」

「ええ…」

「だったら有賀さんに頼むといいよ」

「…」

「“拓”を呼んで話が出来るのは、あの人だけなんだ」

…何てこと。

よりにもよって…また、あの男の手を借りなければならないと言うのか。

この期に及んでいても尚――

「あなたから“拓”に伝えてもらう事は出来ないかしら」

私は訊いた。

「私が会いたがっている事を。ずっと、ここで待ってるからって」

「…」

少しの間考えて、拓は答えた。

「さっき…一緒にいてくれる、って言ったよね。信じて…いいの？本当に？そしたら…今度会った時に言ってみる」

「大丈夫…？無理はしなくていいのよ」

「大丈夫。“拓”は僕が礼と遊ぶのもダメだって言うから、冴子が一緒にいてくれるんならすごく嬉しい」

無防備な言葉。

心の壁が取り払われてしまっている分、どんな感情も真っ直ぐに言葉に出来てしまうのだろうか。

…かつての彼にも、そんな所があったように。

『ねえ。もしかして…ワザと遠くにやった？おれの事』

『いらないんならいらないって言ってよ。黙っていなくなるのはイヤだから』

…

大切な存在が、ある日突然いなくなる。

何の準備もないままに…

大切だという感覚を空気ほどにも意識しない、その必要もないほど身近な人が、その日を境に二度とは会えない。…声を聞くことも叶わない。

悲しみさえも湧いて来なくて…

一体何が起きたのか、自分自身にも判ってなくて…

いない、という事。

何処にも「それ」がいないということ。

その事だけが、何度も何度も頭の中を巡り続けて…

四年前のあの時も…

彼の一番近くにいたのは、あの有賀だけだったのだ。

――ウソじゃないの。本当なのよ。

『ITSの未来のためにはどうしても、あなたの事が必要だったの』

…そんな事も、彼にはとってはどうでもよくて――

身体の痛みも、心の傷も…そんなものもどうでもよくて…

それがどんな形でも、彼が求めていた事は――たったそれだけの事だったのに。

失ってみて…初めて判る。

彼の抱えて来た痛み。

求めても…

どんなにその手を伸ばしても…届くことの叶わなかった、悲しい望み。

「冴子は…どうして“拓”の事を探しているの？」

「…傍にいたいの」

「…」

「今度こそ…“拓”の傍にいたいのよ」

目の前の彼。

姿は紛れもなく拓自身。それなのに…伝わらない思いのもどかしさ。

あなたの事を――

私が今、求めているのは紛れもなくあなた自身の事だというのに――。

「それは…駄目だよ」

私を見つめる茶色の瞳。

その奥で、ゆらり…と何かがゆらめいた。

「“拓”は智を救えなかった。なのにどうして、冴子はあいつの『傍にいたい』だなんて考えるのさ」

…はっとした。

「“拓”は…智の思いを知っていた。だから――智のためなら。智の分まで。そうやってこれからも過ごしていかなきゃいけなかったんだ。あいつだけじゃない、智をそんな目に追いやった、あの母親も同じなんだよ」

「…」

「智の時間は止まったままだ。今も…そして、これからも。――なのに、どうしてあいつらは進むコトが許される？智の未来は何処にもないのに、どうして“拓”はあの母親に、新しい生活を始める事を許したりした？」

声は…確かに、聞き慣れた筈の彼の声。

でも…これは誰――？

涙の跡は跡形もなく消えていた。

ついさっきまでの少年の様な無垢な笑顔は、欠片もそこには見あたらず…

双の目は別人の様な、卑屈な光に満たされた。

「“拓”は全部を丸投げしたんだよ？妹に向かって『好きにすれば？』って。…智のためとか言いながら…結局、あいつは現実の重さに耐えられない。杉崎なんてバカ医者に、あっという間に本心までも見抜かれて、泣くほど動揺したりして。…そんなんで、『智の好きだった海にいられる仕事がしたい』？――言い訳なんだよ、そんなもの」

「…」

「“拓”はね、よりにもよって智の前から逃げ出したんだ。約束したのに。ずっといるって。その言葉の持つ重たさに、今になって気が付いたんだ」

口元が小さく歪んで笑う。

「これは罰だよ。“拓”には、ここにいてもらう。ずっとずっと…一人っきりで、来る筈のない智紘を、それとも知らずに待ち続けるんだ」

「…」

「有賀さんとのコトだって…“拓”はね、嫌ってるフリして本当は、おれよりずっと感じてるんだよ。初めてあの人に抱かれた時から、あいつは本当は有賀さんのコトを求めてた。あいつはね、有賀さんに抱かれる度に智を感じているんだよ」

「拓…」

「有賀さんに抱かれるっていう事は、あの日に戻るって事だから。あいつはもう、自分の力で、智の抱えてた辛さを直視出来ないでいるからさ…有賀さんもそれを知っているから、ギリギリまで“拓”を追い詰めてから抱くんだよ。そうするとあいつの意識の中でギュンギュン記憶が戻ってさ、智の幻覚さえも感じられるようになるんだよ」

拓は嬉しそうに微笑んだ。

「仕方ないよね。それもあいつの“償い”だから。それなのに…冴子までそんなヤツの傍にいたいだなんて…」

――困るんだよね。

いたずらっぽくつぶやいて…にこりと笑う。

この上もなく美しい…

天使のようなその笑顔。

陽を照り返して光る海。

コバルトブルーの透明な水。

地上の楽園の真っ直中で…

言葉の刃を、自分自身に向けて突き立てている“拓”の姿が、束の間…見える。

…恐怖と――

…とてつもない無力感。

力で尊厳を奪われ続けてきた人間が抱く、しごく当たり前の絶望感に押しつぶされる彼の姿が。

『私たちはそうやって彼の自律を奪って来たの。有賀と一緒にいる限り、彼にはそこから逃れようとか…誰かに助けを求めようとか…そもそも、自分の心の痛みさえ、自覚出来ずにいるんだと思う』

だから…？

だから…

私に何が出来ると言うの？

ここまで深く傷ついて…自分を失くしかけてる存在に――

それを仕向けた立場の私に――

一体…何が？

「…“拓”に会わせて」

やっとの思いで、乾いた喉からかすれた息を絞り出す。

「そこに…いるんでしょう？彼に会わせて。話をさせて」

拓は笑顔を崩さない。

「お願い！私が会いたいのはあなたじゃない、本当の“拓”よ！“拓”に会わせて！」

「本当の…って何？それじゃあ、おれは本当じゃないの？」

「…」

「冴子にとってのおれって何？ここにいるおれは本当じゃないの？冴子は…一体、誰に会いにここまで来たの？」

「…」

「有賀さんみたいにしてみたら？それが一番手っ取り早いよ。おれを思いっきり押し倒してさ、あいつを引きずり出せばいい」

「やめて…」

「冴子が自分を責めることなんかないんだよ。これはあいつの罰だから。苦痛は全部あいつが引き受ける事になってるんだし…」

大きく首を横に振る。

「智紘君があなたに望んでいたのは…そういう事じゃないでしょう？辛かったと思う。悲しい事もあったと思う。でも、あなたとは…“拓”と一緒にいる時だけは、そんな思いだけではなかった筈よ」

彼の顔から笑顔が消えた。

「…祥子おばちゃんと、同じ事を言うんだね…」

「…」

「冴子は何も知らないクセに」

「拓…！」

「ほんとの“拓”の事なんか、これっぽっちも知らないクセに。『傍にいる』って？ふざけるな。智はいつだって一人だった。ずっと一人だったんだ」

「そうよ。だから彼はあなたと一緒にいたかったの」

必死の思いで…言葉を繋いだ。

ここで逃がしてしまったら…二度とは会えない。そんな気がした。

あと少し。

もうあと少しで手が届く…。

私の言葉に反発しつつも、彼は自分を自分の言葉で語り始めてる。藤沢先生が言っていた事とは違ってるかも知れないけれど…拓の言葉に、今までのような余裕がなくなって来ているのは確かだと感じた。

「智紘君は、確かに一人だったかも知れない。でも…あなたといた時はそうじゃなかった。だから、誰にも話せなかった家族の秘密を打ち明けて…あなたに聞いてほしかった。“拓”なら…傍にいてくれるって信じてたから。誰かに何かをしてもらおうなんて、智紘君は最初から全然考えてなんていなかった」

「…」

拓は黙った。

それと同時に――

私は彼の両腕を力の限りに思い切り掴んだ。

「行かないで！お願いだから話を聞いて！」

「…」

「あなたを待ってる人がいる。あなたがずっと…ここで彼を待ってたように“拓”の事を待ってる人が大勢いるの。その事だけは…どうか判って」

「…」

私の声など、彼に届くとは思っていない。

けれど…

それでも――

不安を隠して、私に全てを託してくれたあの子のために…

拓のこれからを、一緒に考えようとしてくれているあの人のために…

彼をここに、このまま残しておく事はどうしても出来ない。

礼君には申し訳ないけれど…彼が慕っている拓の姿は、拓自身のほんの一部分に過ぎないのかも知れない。そして彼には…

全ての人格が統合された、本当の拓と出会ってほしい。もう一度。

出会いは必然…。

並木先生が言っていた、その言葉がもし本当なら…きっと二人は出会える筈だ。

私と彼が…

かつてそうだったのと同じに。

…

空を見つめたままの拓の瞳に、ごくごく微かに…淡い光が浮かび上がった。

ささやかだけれど…ひどく懐かしいその光。

掴んだ腕を決して緩めまいと力をこめた。

おびえたような弱々しい目が、掴んだ腕の力を借りてかろうじて輝きを保ってる…。

まだ…

ここにいたいと思う――

それでも…ここにいたいと願う――彼の意思をその時感じた。

…華奢な背中を抱きしめた。

両手をそっとすべらせて…懐かしいぬくもりを確かめる。

ほんの少し注意が逸れて…迂闊に力を込めたりしたら、きっと壊れてしまうだろう。

それほどに脆くて、儚い存在。

追い詰められて…

傷つけられて…

自分、という器の中でさえ、その存在を消されようとしていた悲しい心。

私の頬に頭を預けて…“拓”は、静かに目を閉じた。

――

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　　　



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