彼が横たわるベッドの脇に座ったままで…まんじりともしない朝を迎えた。

枕元に身を乗り出して…眠ったままの横顔を覗き込む。

双の瞼は閉じられて、ほんの僅かさえ動こうとはせず…

もしも…このまま、目を覚ます事がなかったら――。

言いようのない不安に包まれた。

…浜で、彼と会った時。

別人のように弱々しい目が、私が掴んだ腕の力を拠り所にかろうじて息づいていた、あの瞬間。

“拓”は確かに此処にいた。

此処に…いたのだ。

――お願い…。

身体に沿って置かれたままの、力ない手を握り締めて強く願った。

ここであなたに何かがあったら…みんながきっかけを見失う。

このみちゃんや浩平君や…

智紘君のお母さん、もちろんあなたのご両親。

そして――私も。

ずっと…伝えられなかった事。

伝えては…いけないと思って来た事。

…また、動き出せなくなってしまう。

これ以上、誰かが傷つく事などあってはならない。

けど、それも…あなたが戻らなければ、どうにもならない。

どんなに辛くても…

自分という存在を消してしまいたいほどの、悲しい思いがあったとしても…

あの時、確かに此処にいたあなたの意思は何より尊い。

何も…出来なくてもいい。

誰も…救えなくてもいい。

今の私には、そんな自分勝手を願うしかない。

…

――気が付いた時。枕元に突っ伏していた。

不意の眠気に抗し切れなくなったのか…。鈍い頭痛に耐えて目線を上げる。

拓は…目を開けていた。

ぼんやりとした…生気のない瞳。まるで…何かに、魂を吸い寄せられているかのような。

『次には一体…どんな“拓”が出てくるんでしょうね』

声をかけようとして…有賀の言葉を思い出し、咄嗟にそれを飲み込んだ。

…ここにいるのは、紛れもなく拓自身。

いくら記憶を失くしていても…いや、失くしてしまってるからこそ、何の偽りも思慮もなく、ありのままの自分を曝す彼の姿。

拓を、家族の元へ帰す事を勧めてくれたのは、他でもない並木先生だった。

『自分の責任で潜る以上は、生きて帰って来なきゃ意味ないですから。今のままなら…あいつは一度、ここから離した方がいいと思うんです』

――

楽園の直中にいたというのに…

得体の知れない喪失感は、彼の傍に途切れる事なく存在していた。

この四年間。

拓は拓なりに精一杯、智紘君の死を不完全ながらも受け入れて…折り合いをつけようとして来たのだろう。だからこそ、彼は、智紘君との夢に近づくために島へ渡った。

けれどそれは彼にとっては、二度と会えない死人の影を探し続ける行為に他ならなかった…。

…どんなに深い悲しみも、いつかは形を変えて行く。

それは、“生きている”という事の何より確かな証かも知れない。でも、どれだけの時間が目の前を過ぎても、変えられない事実もあるという事。

智紘君が憧れていたこの海で…人々との新しい出会いに喜びを見出し、自然の美しさに素直に心奪われている自分を感じた時、拓は、確実に時間を進め始めた自分の生を実感し…

――その一方で。

二度とは動く事のない、智紘君の時間との違いを…まざまざと突きつけられてしまったのだと思う。

『悲しい出来事は、誰にとっても悲しいんですから』

電話の向こうで、先生は私にそう言った。

『ありのままに受け止めてしまった方が、ずっと自然だとは思いませんか。どうして、“避けよう”とするのかな…。拓が、それを望んだんですか。傷つきたくないって言ったんですか。今のあいつは、自分がどうして血を流してるのかも判らなくなっているんですよ。誰から、何をされているのかも判らないまま、とんでもなく苦しいだけなんて…そっちの方が、よっぽどひどいって思いませんか』

…

『一緒に悲しんでやればいいと思うんです。大切な誰かが亡くなって、遺された者が悲しんでいる。傍にいてやればいい事ですよ。…キツい事を言うようですが、傷つきたくないのは実は本人じゃなく、周りなんじゃないですか。周りが勝手に気を回して、本人だけが何が何だか判らなくなって。…いいんですかね、そんなんで』

…

確かに私は…

傷つくことを恐れてる。先生のように、強くはなれない。

――智は、死んだ…？

浜で見た、拓の瞳を思い出す。

ありのままを受け止める…。それが出来たらどんなに楽か。

真実を見つめるという事が…逆に、どれほど勇気がいるか。

拓の思いは、本当は…

智紘君が死んだという現実を――

親友が、守ろうとしていた家族の中で、一人…辛い思いを強いられていたという現実を――

閉じてしまいたかっただけではないのだろうか。

たとえ…記憶を失ってでも。

だとしたら、有賀が言う通り、現実を見つめるという事は…そんなにも“立派な”事なのか…。

「…誰？」

とまどっていると、懐かしい声が問いかけた。

あどけない顔。

浜辺で出会った時と同じ、少年の彼がそこにいた。

「さえこ…？」

「えっ…？」

「さえこ、だよね…？そうだよね」

「…」

「嬉しい。約束…守ってくれたんだね」

「約束…？」

「『一緒にいてくれる』って言ったよね。僕のこと、『泣かないで』って慰めてくれた。だから、ここにいるんでしょ？」

「…」

「そうじゃ…ないの？」

私は慌てて笑顔を返した。

「…そうよ。約束、したものね」

拓は安心したように微笑んだ。

「有賀…さんは？ここ、有賀さんの部屋だよね」

「彼は…隣の部屋で休んでいるわ。まだ…朝が早いのよ」

「…」

拓は、身体を起こすとベッドを出た。

私の言葉を確かめるように、薄明るくなり出した窓辺に走り寄って外を見る。

全く何事もなかった様な、余りにも身軽な動きに目を見張る。

「待って！」

彼が部屋を出ようとするのを急いで止めた。

「何処へ行くの？食事は…？喉は、乾いていないの？」

「海へ行くんだ」

「海…？」

「礼と約束しているし…“拓”に『代われ』って言われたら、礼と遊べなくなっちゃうから」

「でも、まだ夜も明けきっていないのよ」

「けど、こんなとこにこのままいたら…有賀さんに――ぶたれるし…」

「…」

「礼はね、学校に行く前にいつも海に来てくれるんだ。だから、浜で待ってればきっと会える。それに、海から昇る朝陽はものすごーく綺麗なんだよ。さえこにも見せてあげるよ。行こう、一緒に」

「…」

そこにいるのは…

紛れもなく一人の少年だった。

親とも離れ…たった一人で、こんな離島にいる事を何ら不安にも感じていない。

…閉ざされた記憶。

“今”にも“未来”へも、決して繋がる事のない記憶。

それなのに、無邪気に私の手を取る姿は、本来の彼の意思よりも遙かに生き生きと輝いて見えた。

“拓”が――消える…。

ここにいるのは…私が知っている彼ではない。

私が…願い、封じて来た想いを伝えたいと願う彼ではない――。

咄嗟に、取られた手を振り払う。

震える指先を必死に伸ばして、彼の肩を抱きしめた。

「さえこ…？」

「行かないで」

「…え？」

「お願いだから…此処にいて。私の話を聞いてほしいの」

「…」

「あなたは“拓”なの。他の誰でもない、あなた自身が“拓”なの」

「…」

「あなたが、ここでいなくなってしまったら…悲しむ人が大勢いるわ。あなたが、智紘君を失って悲しいように…せっかく歩き始めた道さえも、見失ってしまう人たちが此処にはいるの。あなたと同じに…それ以上に、辛い思いをすると思う。あの智紘君が、そんな事をあなたに望んでいたと思う？」

「…」

「…あなたが知ってる智紘君は、いつもどんな顔であなたを見てた…？思い出して。どんな風に、あなたに接してくれていた…？」

拓は黙った。

伏せた目の奥。別の彼が息づいて来るのを微かに感じる。

「彼が大切にしていた人たちを…悲しませたりしてはいけないと思うの…。それが誰でも。もちろん、あなた自身でも」

「『彼が大切にしていた人たち』…？」

拓の口元が冷たく歪む。

「…智は、誰も大切になんて思ってないよ。だって、あいつは…誰にも助けてもらえなかったんだよ？」

「…」

「あいつは親父に、『自分の子供じゃないんじゃないか』って疑われてさえいたんだよ。浩平が生まれて、少しはそれもなくなったけど…それは疑いが消えたせいでも何でもなくて、ただ単なるあきらめで。祥子おばちゃんは、庇おうともしなくてさ。…そんなんで――智紘自身が誰にも大切にしてもらえなかったのに、どうして誰かを大切になんて思えるんだよ」

「そんな事ない…。智紘君は、みんなを大切にして来た筈よ。だから、このみちゃんも浩平君も彼を慕って…」

「冴子だって同じだよ？」

「…えっ」

「冴子はどうなの？おれの事、本当に大切だって思ってた？」

…穏やかな声。

柔らかな笑み。

何かで胸を突かれた様に、返す言葉を見失う。

「思っていないでしょ？思っていたら…こんな仕打ちはしないよね」

「…」

「おれは冴子を大切だって思ってた。冴子の事を、ずっと…ずっと求めてた。『叶えてあげる』って言ったよね…？『私が、あなたの夢をかなえてあげる』。だから、おれはそれを信じて…冴子と一緒にいたんだよ」

「…」

「冴子は…智とおんなじなんだよ。誰にも大切にされなくて、誰にも愛してもらえなかった。だから自分の手は全然汚さずに、有賀さんや並木先生に厄介事ばっかり頼んでさ。それがどれだけ、おれを傷つけて来たか判ってる？」

「…拓」

…判ってる。

その事は…誰より、私には判ってる。

『…心の痛みに気付くこと。

癒されたいと…

救われたいと…

感じている自分に気付くこと。』

救われたいと…願っていたのは私自身。

大切な人を利用してまでも…自分の居場所を守ろうとしたのは――この私。

でも――

それでも…私は…

刻まれた過去は決して消えない。

だとしたら…そこから、始めるしかない。

四年前。

私が封じ込めてしまった拓の時間。

…本当だったら、彼がして行く筈だった“喪への作業”を、ここから…始めてもらうしか。

――傍にいるから。

今度こそ…ありのままを見つめる、あなたの傍に。

「拓。今は…あなたの話をしているの」

「…」

「…私があなたにして来た事は、決して許されていいとは思ってないわ。だから…あなたの傍にいてはいけない――。ずっと…そうして逃げて来た。けど今は…あなたの事を私も一緒に考えたいの」

「…」

彼の頬から笑顔が消えた。

「それが私が、あなたにしてあげられる事だと思っているの…」

「冴子が…おれに…？」

…うなずいた。

「…あなたにとっては…とても辛い作業になると思う。でもね…」

「…」

「大切な誰かと『一緒にいたい』と願う事。…それがどんなに大事な事か…私に気付かせてくれたのは“拓”だったの。だから、あなたが智紘君を失った時、私には、その時のあなたの気持ちが少しだけ…判るような気がしてる」

「…」

「智紘君は…お父さんに、そんなに辛く当たられてまで、どうして此処にいたいと思っていたの？」

「…」

拓は黙った。

「それは…あなたが――いたからじゃないの…？あなたや、このみちゃんや浩平君や、みんながいたから…だから、此処にいたいと思って…だから、辛い思いもしたけれど…お父さんにもう一度、頼んでみようとしたんじゃないの…？」

――もし本当に、現実から逃げだそうと思っていたのなら…智紘君なら、きっと出来た。

大切な友人と、近づきたいと思う夢もあって…

無理矢理にでも、そこに踏み出そうと願いさえすれば。

でも、彼はそれをしなかった。

どんな場所でも…

彼は誰より…

此処にいたいと願っていたのだ。

“拓”と一緒に。

「そしてあなたは…それが続くと信じてた」

「…」

「だから、辛いんでしょう？…突然何の予測もなしに、全てを失くしてしまったから…だから、どうしていいか判らなくて、苦しくなっているんでしょう？」

「…」

「あなたがそんなに辛いのも…自分を消してしまいたいと願う程に悲しいのも…みんな、あなたのせいではないの。拓は…何にも、悪い事なんてしてないの」

「…“拓”は何にも…悪くない？」

声の調子が…再び変わった。

「あいつは…全部を祥子おばちゃんのせいにしたんだよ？」

「…」

「“拓”は言ってた。『全部あいつが――祥子おばちゃんが、何もしてくれなかったからだ』って」

「あなたはどうなの？あなたも今も、それをそうだと思っているの…？」

「…」

「『好きにしたら？』って…拓は、許そうとしたじゃない…？それは、このみちゃんへの押しつけでも何でもない。祥子さんが、悩んでいたのが判るから――智紘君と…彼の近くでずっと一緒に、そういう祥子さんを見てきた“あなた”だったから――だから、彼女を赦そうと…感じ始めていたんじゃないの…？」

「そうだよ…。“拓”はあいつを許そうとした。…だから――みんながすごく怒って…」

「…みんな？」

「ここにこうしている、みんなだよ！」

拓の声が悲痛に響く。

「…“あいつ”は、何も…出来なかったのに…」

「…」

「“拓”は智に…何にもしてやれなかったのに…。ここで“あいつ”が戻ったって…何にもならない筈なのに…」

「それくらい…“あなた”には大切だったの…」

「…」

「何かをしてあげたいと…そんなに強く願うほど――“あなた”にとって智紘君は、本当に大切な人だったの」

「…」

「だから彼も…“あなた”と一緒にいたかった。どんな場所より、“拓”と一緒にいたかったのよ」

「…」

――

拓の瞳から涙がこぼれた。

嗚咽がもれて…やがて、絞り出すような泣き声に変わる。

…あふれる思い。

こんなにも長い時間と引き替えに…やっと外へ吐き出す事を許された、とてつもなく大きな、深い悲しみ。

今は、それを見つめるしかない。私も。彼も。

…四年前。

拓にはそれさえ許されなかった。…というより、出来なかったのだ。

目の前に、突然突きつけられた喪失を…悲しみ、という感情に置き換える事が出来なかった。

智紘君を失った現実を心の内に受け入れ切れていないまま…

彼は、私たちと出会って更に傷つき…流されるままに過ごして来た。

生ある中で…

全てが美しければ美しいほど…

失ったたものの大きさと、その感情がなんなのか…それさえ判らずとまどう自分と…

息づく命や出会いに感動し、いつしかそれに素直に癒されてさえいる自分とに挟まれて…彼の心は裂けたのだ。

あの日の――

恐怖にも似た突然の喪失を、空港で有賀と再会した一瞬に拓は思い出していたのに違いない。

埋め切れないまま過ごしてしまった過去へ引き戻されて行く中で…それがあの時の彼に判断出来た、唯一の防衛手段だったのだろう。

智ハ…イナイ。

何処ニモ…イナイ。

浜で、彼と再会した時。

来る筈のない人を待ち続けていた…少年の声を、その時、私は確かに聞いた。

拓はその場に崩れると…声を放って泣き出した。

…いつの間にか、有賀が起きてそこにいた。

扉の影の柱にもたれて、手にした煙草に火を付ける。

ため息とも…

煙を吐き出したのとも…とれる吐息をひとつつく。

「現実なんか、実感させないまんまの方が…彼には幸せだったかも知れないのに」

「…得体の知れない感情に振り回され続けるのを見てるより…遙かにマシよ」

「貴女って人は…どうしてそんなに次々と、しんどい方へばかり行こうとするんでしょうね」

「彼の感情を閉じこめたままにさせたのは私たちだもの。傍にいてあげる責任があるわ…」

「…」

頬をすべって落ちた滴を…慌てて掌で受け止めた。

有賀は黙って、煙草の煙を吸い込んだ。

「落ち着いたら…拓を海に連れて行ってもらえませんか。礼に会わせてやってほしいんです」

「…礼君は…？」

「まだ寝ています。でももう６時だから…じきに起きると思いますよ」

有賀は煙草をくわえたままで、血の繋がらない我が子が眠る奥の部屋へと戻ろうとした。

「有賀」

「…？はい」

「いいの…？礼君に、今の拓を会わせてしまっても…」

…

昇り始めた夏の陽が、廊下の向こうに透けている。微かに聞こえる波音が、涼やかな風を運んでく来る。

…長かった夏。

それがゆっくり、次の季節へと動き始めているのを確かに感じる。

身体を、半分だけこちらに向けて…有賀の口元が微かに笑った。

――――

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　



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