陸上部の部室には、監督の他に進路指導の先生がいた。
それを見ておれにはピンと来た。大学への推薦入試の件だ、って。
もうすぐ実技の試験日が発表になるって聞いていた。でも、どうしてわざわざおれを呼ぶんだ？
「森山。お前、合格だそうだ」
「へ……？」
「大学。推薦入学の希望が出ていたな。今朝合格の通知が届いた」
監督が言う。
「先月の記録会。たまたま向こうの陸上部からも見に来ていてね。ぜひ四月から来てくれないかってさ。よかったな」
「……よかったな、って……それ、マジですか？」
「お前と萩原の2人は、特例枠で合格だ。あと小論文があるけれど、特例でひっかかっているのなら、まず落ちる事はないだろう」
ひっかかって、って……何だよ、人を魚みたいに。
進路指導が続けた。
「昨日実家から戻られたんだってね。ついでにご家族に相談してもらえるとよかったんだが、色々連絡が遅れてね。申し訳ないが１、２日のうちにお母さんと相談して、返事をくれないかな」
一瞬、はい、と言いかけて……
その一言を飲み込んだ。
――『ずるいよ、浩平』
目に大粒の涙を溜めてたこのみの事を思い出した。
『いつも……いつも変わらないままここにいたいって思うんじゃない』
……変わらないまま。
……ずっとここに
このみの気持ちはよく分かる。でも。おれは変わりたい。
智兄の分まで、智兄の代わりに、このみの事もおふくろの事も守りたい。
そのために、もっともっと強くなりたいし、前に進みたい。
智兄とは違う、おれはおれのやり方で――。
「進学します。大学に……行きます」
監督の目がおれを見た。
その目はあの日、この学校におれを誘いに来た時と同じに暖かく笑ってた。
「そう言うと思ったよ。小論文のテストは10月21日だそうだ。インターハイのすぐ後で忙しいと思うが……待ってるよ」
「……」
"待ってるよ"
その一言が、すうっと胸に染み通ってく。
……期待、されるってこういう事か。
"待ってるよ。君がここに来てくれる日を"
自分を待っててくれる人がいる。
自分の力を……その存在を、頼りにしてくれる人がいる。
ちょっとだけ、それをまんざらでもないな、って感じているおれがそこにいる。
智兄にも……こんな瞬間があったんだろうか。
不意にそんな事を考えた。
『智紘がいるから、大丈夫よね』
『智と一緒なら大丈夫だろ』
『智兄ちゃんなら、大丈夫』
……
ここにいていいと……
だから、自分はここにいていいんだ、と……
その証明書を手にした瞬間。
自分の生命そのものさえが、とても愛しく思える瞬間。
……
――
部屋を出て、トラックへ戻ろうと歩き出したおれの前に、マネージャーの榎本千晶が現れた。
いきなりだったんで驚いた。
それもいつもより真剣な、ちょっと怒ってるみたいなカオをして、まるでおれが来る事を待ってたみたいに、不意に曲がり角から姿を見せた。
「な……んだよ、何か用か」
千晶は黙って答えない。
いつものこいつらしくない。
マシンガンみたいに飛び出してくる言葉が出ない。言いたいことがありすぎて、何から切り出そうかと迷ってる風にも見える。
「何でもないんなら行くぞ。練習中だから」
「待ちなさいよ」
廊下に微かにあいつの声が残って響く。
いつも通りのカン高い声。上目遣いにおれを見て、一歩踏み出す。トレードマークのポニーテールが、妙に大きく迫って見える。
何かがヘンだ。いつもの千晶の空気じゃない。
「だから、何だって言って……」
トンッ、と軽い衝撃を感じた。ゆっくり下を見る。千晶のポニーテールがおれの顎の下にある。
知らない香り。別のカンジ。
このみと違う別のカンジ。
千晶はおれの胸の中にいた。
ぶつかるように、不意に胸元にとびこまれたから、勢いで抱きしめるみたいにおれの手は千晶の背中に触れていた。慌ててその手を離そうとした時、
「そのままでいて！」
そのままで、って……
「……なっ、何だよ！どうしたんだよ」
「私、森山君の事が好き」
「――は？！」
「今までガマンしてたけどもうやめた。彼女がいること判ってるけど、それでも私、森山君のことが好きなの。自分でも笑っちゃうくらいあんたのことが好きなの」
体中から力が抜けた。
おれを、好きって……？千晶がおれを……？
「ちょっ……ちょっと待て」
「何もいらない。返事もいらない。つきあってほしいなんて絶対言わない。ただ、私の思いを知っててほしいの」
「千晶……」
「初めて会った時からずっと好き。あんた、鈍感なんだもの、全然判らなかったでしょ？それとも……」
「……」
「面倒な事になりたくなくってワザと知らんふりしてた、とか」
「そっ……そんな事あるワケねーだろ！」
千晶は微笑った。
そのまま顔を上げておれを見る。
吸い込まれそうに大きな目が、まっすぐにこっちを見つめてる。
どきり、とひとつ心臓が鳴った。
千晶の手が肩に触れていた。
次の瞬間、すばやくキス。
つま先で立って、おれの肩につかまっている……その手から伝わる力は痛いくらいに強くって……
一体何十分……
いや、何分そこにそうしていたんだろう。
実はほんの一瞬の、まばたきする間の出来事だったのかも知れない。
けれどおれには長かった。
すごく長い時間、そこにそうしていたような気がした。
「お前な」
たまりかねて口を開いた。
「そういうのってどうかと思うぞ。ここまで自己チューなヤツだとは思わなかったよ」
「ごめんね。でも、私後悔していないから」
「……」
「見損なった？」
ネコ目が不敵に笑って見せる。
「ああ。見損なってた」
「よかった」
「……よかった？」
「だって少なくともこれで森山君には、彼女とは違うカタチで意識してもらえたんだもん。言ったでしょ、私彼女になりたい訳じゃないの」
「……」
「突き飛ばそうと思えば出来たのにそうしなかった。受け止めてくれた、って事でしょ」
「……え？」
「初めて会った時から気になってたの。森山君さ、あの時はっきり言ったよね。『インターハイで勝つために来た』って。インパクト強かったんだー。自分の目的はっきり持っててかっこよかった。なのに、どうして肝心のインターハイ出場者を決める記録会サボってまで、彼女に会いになんか行っちゃうのよ」
「サボってなんかない！ちゃんと浅岡さんには許可をもらった！……約束なんだ。毎年みんなで墓参りするのは」
「墓参り……？」
「かっ……カンケーない。お前には！」
「でも、彼女には会って来たんでしょ？会うことも目的の一つだった事には変わりないじゃない。やっぱ大切な彼女なんだね、何だかんだ言ってても」
「……」
ムッとして口をつぐむと、千晶は何とも嬉しそうな笑顔を見せた。
「進学、決まったんでしょ？立ち聞きしてたんじゃないよ。萩原君もそうだって聞いたから、たぶん森山君もだろうと思って。私も一緒に行くからね」
「『行くからね』って……」
「そんなに嬉しそうにしないでよ。あいにく私はあんたと違って学力の方での推薦だけどね。どうするの？こっちに来るの？こ・の・みちゃん」
「……」
やっぱりこいつは好きになれないとその時思った。
「来させるさ。絶対」
千晶は意味ありな目でおれを見た。
「会えるのが楽しみ」
じょっ……
冗談じゃねーよ！！
「言っとくけどな！たかが一回キスしたくらいで……」
そこまで言ってギクリとした。廊下の隅に丁度部室から出てきた進路指導と監督がいたんだ。
『たかが一回キスしたくらいで……！』
……
バッチリ聞かれてたと思う。進路指導がゴホンとひとつ咳をする。
まだ練習中だってのに……
<第一章 了>
・・･To be continued.
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