土曜日。
家に帰ると、お兄ちゃんが珍しく起きててリビングにいた。
長い足をソファーの上に投げ出して、本を読んでいたみたい。
「浩平から電話があったぞ」
こっちに向けて、そう言いながら顔を上げる。
「１４時半の新幹線に乗るってさ」
「１４時……！？そんなに遅いの？」
「午前中どうしても、ってテストがあって抜けらんなかったんだと」
「……」
ため息をついて時計を見た。
１４時半の新幹線……。
駅に着くのは１７時過ぎ。荷物を置いて、一息つく間もなく”５ｔｈ．Ａｖｅｎｕｅ”に行かなきゃならない。
……
もうっ！
あいつってば何考えてるんだろう！
半年ぶりに会うっていうのに、少しは気を利かそうってくらい思いつかないのかな。
……もっとも、そんな事期待出来るようなヤツだったら、こんなにイライラすることもないんだろーけど。
「三村さんにＴＥＬしてやろうか？」
察しの早い兄キは、さり気なくそう言った。
三村さんの事だから、たぶん無理してでも予約の時間を変更してくれるだろう。でも、いくら何でもそれは悪い。第一冴子さんにも迷惑かけちゃう。
「冴子のことならいいんだぞ、気にしなくても」
私は首を横へと振った。
「ううん、いいよ。ありがとね、お兄ちゃん」
「何ならホテルもご予約しますけど？」
いたずらっぽく笑う兄キの顔に、クッションを力まかせに投げつける。
……
浩平からは、春休み中には帰れそうもない、ってＴＥＬが来て……
ゴールデンウイークなんか何も言わずに帰って来なくて……
たったのそれだけ。
去年の秋に転校してからこの半年間。ハガキの一枚も来やしない。
まっちゃんの言うとおり、仮にそれが”あいつらしさ”、なんだとしても、あんまりだよね！
あいつを信じてない訳じゃない。
けれど……時々不安になる。
私がこんなに思うほどには、あいつは思ってくれてないんじゃないの、って。
やっと……お互いの気持ちが通って。
お互いが大切な存在だって、確かめあえたと思ったら、浩平の転校が決まっちゃって……。
これで割り切れる方が不思議に思う。
何回も何回も、智兄ちゃんにも話に行った。
……だけど当然智兄ちゃんが、生きてた頃みたいに優しく笑って、励ましてくれるワケでもなくて……
少しずつ、何かが変わってく。
智兄ちゃんが逝ってから、今までずっと止まってた、何かが動き始めてる。
……
判ってる。
いつかはそうなって行かなきゃいけないってコト。
だけど……
どうしてそれが、今じゃなきゃいけないの？
私には、まだ出来てない。それに備える心の準備。
智兄ちゃんがいないコト。その日常が、当たり前に流れてくコト。
四年もたつのに。もういい加減、こんなに時間が過ぎたのに。
……
――
「お兄ちゃん」
「うん……？」
「明日、何か予定ある？」
「夜はＴ’ｓでバイトだけど……」
「智兄ちゃんとこ行こう。浩平も来るし、みんなで行こう。みんなで一緒に」
「？ああ……別にいいけど」
「絶対だよ！約束だからね！」
あんまりしつこく言うもんだから、兄キはちょっと驚いて私のことを見てたけど、いいよ、ってうなずいて笑ってくれた。
その笑顔を見たら……何だかとってもホッとした。
あの頃と変わらない”何か”に会えた……。
今は兄キといる時だけが、"あの時"に出会える瞬間なんだ。
浩平がいない今となっては。
……
――
目一杯ゆっくり歩いたつもりだったのに、予定より１０分も早く駅に着いた。
かなり悔しい。
いつも私ばっかり待たされてるじゃん……。
浩平のこと。浩平の手紙。浩平のＴＥＬ。
……
ホームに向かおうとして足を止めた。
たまには逆になったっていい筈だよね。
１７時２５分着の新幹線の８号車。
別に私が待ってなくたって、あいつが私を待ってれば済む事だよね。
回れ右して歩き出す。
五分……ううん、三分でいい。あいつに人に待たされる気持ち、少しでも判ってほしいだけ。忘れてないぜ、ってシグナルを少しでも送ってほしいだけ。
……
――
地下街の本屋さんに入ってみた。
目当ての本がある訳じゃない。あと五分。時間をつぶせるだけでいい。
……目のはしに、とある雑誌の見出しが止まった。
見たくもないのに……。
見る気もないのに……”ヒロコ”と書かれたカタカナの文字。
今月号の”ＩＬＬＥ”の表紙を飾っているのは、兄キの顔だ。
もっともそうと判るのは、私とまっちゃん、冴子さんくらいのものだろーけど。
キョロキョロ辺りを見回して、手に取った。
どこから見ても完璧なまでの美しさ。
ぬけるように白い肌。形のいい紅い唇。そして何より印象的な、茶色く澄んだとび色の瞳。
それらのパーツのひとつひとつが、非の打ち所のない黄金比率で並んでる。
……これが男だってんだから。
世の中、狂ってるとしか思えない。というより、やっぱりこの人がヘンなんだ。
ページをめくると……あった。
８ページ、三日がかりのカラーグラビア。
アップあり、ロングあり、そこだけ見れば、まるでヒロコの写真集みたいなそのページ。
そして確かに……そこにいる"彼女"は綺麗だった。
これを撮ったカメラマンは、この人の正体を知ってるのかしら。もし知ってたとしたら、男の人をここまで綺麗に撮ってしまっていいんだろうかと、ふと思う。
明らかに女性に”見える”んだけど、女性ではない。
もちろん男に見える訳もない。
そこにいる不思議な”それ”は、抱えきれないほどたくさんのバラを両手に抱えて優しい笑顔を見せていた。
いくら相手を想っても、それは決して報われない。
その人が、ただ傍にいてさえくれれば幸せだった日々。そして、その人が、永遠に失われてしまった瞬間。
このヒロコっていう人は、この世で最高の幸せと不幸せとを知っている。
もし、智兄ちゃんが生きてたら、この人もこの世に生まれることもなかったんだろうな。
……
私の隣で同じ雑誌に手を伸ばす女の人を横目で見やって、そんな事を考えて……
そんな時。
時刻を告げるカリヨンの音ではっ、とした。
やばい！５時５分過ぎ！
雑誌を置いて、大急ぎホームに向けて駆け出した。
約束の１０番ホームには、まだたくさんの人がいた。
浩平が乗ってきた筈の新幹線も止まっていたし、おみやげをたくさん手に提げた人たちが、お迎えの人と話していたり、スーツ姿のおじさんが、忙しそうに出口に向かって歩いて行ったり……。
早足で歩き出しながら、浩平が降りた筈の８号車を探してく。
明日からは三連休。
ディズニーランドにでも行くのかな、おねーさん方のグループが視界を遮った。
……いいなー。
私もまだ２回しか行ったことがないんだよね、ディズニーランド。
浩平はそーいうのあんまり好きじゃないし、こないだは雷雨でパレード中止になっちゃったし……。
こんなんで、彼氏がいるなんて言えるのかな。
……
見るともなしに、そのおねーさん方を見送って……
その向こう。
ホームのベンチに坐って文庫本を広げてる、ポロシャツ姿の男の子が目に止まる。
左手で本を、右手をアゴの下に当てて、ちょっと前屈みのかっこうで、その目はじっと本の活字を追っている。
……浩平だ。
判ったけれど、すく゜には足が出なかった。
だって何だか……
私の知らない、違う人みたいだったから。
あいつが本を広げてるなんて珍しい。
でも、その横顔は智兄ちゃんによく似てた。
健康そーに日焼けして、肩幅もちょっと広いけど、陸上なんかやってる割にすんなり細い体型は１００％智兄ちゃん譲り。
ちっちゃい頃はこいつには何度も泣かされた。その都度智兄ちゃんが助けてくれて
……
そのいたずらぼーずが運動会で、黄色い声援を浴びるようになったのは、一体いつからだったっけ。
……
それは、間違いなく浩平だった。
半年ぶり。
本当に、久しぶりに会う浩平だった。
その時。
浩平の目がこっちを見た。
完全なる不意打ち。
私の頭はまだこいつを浩平だ、って認識するのに精一杯で、呼びかける、とか歩き出す、とかそういう命令を出すには至っていない。
「遅ぇーぞ」
ふてくされたようにあいつが言う。
その一言が合図だったみたいに、私は思いっきり駆け出した。
浩平は読んでた本を無造作に閉じると、脇に置いてあったスポーツバッグの外ポケットに力まかせに押し込んだ。
「珍しーの。本なんか読んじゃって」
浩平は口をへの時に曲げて、
「宿題なんだよ。休み明けに感想文提出」
その一言に思わず笑う。
こいつが本を読むなんて、そんな事だろーと思ってた……。
「間に合うの？まだ半分も読んでないじゃん」
「何とかなるって」
浩平はバッグをよっ、と肩にかけると立ち上がった。
「んじゃ行きますか。予約何時？」
「六時。兄キは、冴子さんと直行するって。……って、やっぱりこのまま行くつもり！？」
「当たり前じゃん。平気だよ、そんな重たくないし」
……そういう問題じゃなくてさ。
こいつの頭の中には、少しは二人で話そうとか、久しぶり……なんて気持ちは、やっぱし全然ないのだった。
――
歩き始めた浩平に、並んで私も歩き出す。
また……少し背が伸びたみたい。
智兄ちゃんより、一つ年上になっちゃった私たち。
智兄ちゃんが生きてた頃は、私たちは中二だったから、当時高二の智兄ちゃんや兄キたちがすごく大人に見えたっけ。
自分がこうして、その時の兄キ達と同じ歳になったのが、未だに信じられないくらい。
「どうなの？ちょーしは」
「まあまあだな」
「……何それ」
「悪くはねーな、って事だよ」
「……変なの」
「何が変なんだよ。どーせ判んねえだろ、お前に細々しゃべったって。１００ｍ１０秒５０っつったってお前に判るか？それがどの程度のもんか」
私はムッ、として口をつぐんだ。
「そんな風に言うことないじゃない！」
「じゃあどんな風に言えばいいんだよ」
「調子はどうなの、って訊いてるんだか、いいとか悪いとかフツーに答えてくれればいいじゃない！」
「ばーか。まあまあって言ってんだからまあまあなんだよ」
……
これが半年ぶりの再会の言葉？！
あんなに慌てて走ったりして損したよ！
５分どころか５０分、ううん５日間だって待たせておくんだった！
私の思い……。
私がこの半年、どんな思いで過ごしたか……
健気にもあんたのことを応援しようって思うまで、どれだけ心の中で葛藤したか……
ちっともこいつ、感じてやしない。
「……感じわるい」
「どっちがだって」
浩平は笑った。
「……ったく。何にも変わってねーな」
「……」
同い年でありながら、こいつの方が年上みたいに、妙に大人ぶった言い方をするようになったのはいつからだろう……。
本人が気にしてないのは判ってる。
ワザと……やってるんじゃないって事も判ってる。
大人ぶってるんじゃなく……
浩平は、自分の進むべき方向を、今ははっきりと見据えてる。
そのために……自分が何をすればいいのか、自分の力で見つけたがってる。
その事が……私の心を重たくさせる。
浩平が浩平でなくなるような……
今までのようにあけすけに、思ってること何でも言い合えて、ケンカしあって・・・そんな事はもう二度と出来ないような……。
「……？どうした？」
訊かれて、はっと我に返った。
「急に黙るなよ。寝てんのか？」
「ばかっ！」
「ばか……って、何だよ、それ！」
人の気持ちも知らないで！
もっとたくさん……
もっと何か・・・話したい事がある筈だった。
これと言って、大きな出来事があったわけじゃないけれど、前の陸上部の仲間達、クラスメートだった仲間達、みんなあんたのこと気にしてて……
やっと、あんたのいない空気に慣れて……
それは私も同じで。
ううん、同じになるはずだったのに。
半年だよ！
半年以上ぶりなんだよ！
もう少し何か考えらんないの！？
どうしてあんたはそんな風にいられるの？！
向こうへ行くって決めた時と変わらない、どーしてそんな、涼しい顔してしていられるの！？
……
ばかみたい。
久しぶりに会ったのに。
どうしてこんなに私だけ、カリカリしてなきゃなんないんだろ……。
・・・To be continued.
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