浩平たちのおじいちゃん、おばあちゃんが眠ってるそのすぐ隣に、祥子おばちゃんは智兄ちゃんとおじさんが一緒に眠るお墓を建ててもらった。
わざわざ新しいお墓を建てたのは、大切な初孫と大切な長男を同時に亡くした森山の家からの心遣いなんだって。
秋には紅葉。春には桜の花びらが降り注ぐその場所は、生前の智兄ちゃんの穏やかなイメージそのままだ。
浩平達のお父さん・伸一さんはいつも仕事で忙しくて、なかなか子供達と一緒の時間がとれなかった。
祥子おばちゃんも看護婦さんで、三交代してバリバリ仕事してたから、必然的に子供二人で過ごす時間が多くなる。
私が物心ついたときには、浩平も智兄ちゃんもいつも私の傍にいて、まるで家族も同然にお夕飯とか食べてたから、あんまり考えたこともなかったけれど、あれだけ両親が揃わない家も滅多にあるもんじゃないと思う。
……本当に。
祥子おばちゃんと伸一おじちゃんは、いつ顔合わせていたんだろ。
おじちゃんは浩平達の運動会にも……入学、卒業式にさえ来たことがない。
……ううん、一回くらいあったかな？
商社勤めで、出張も多くて、仕方がないって言えばそうだけど。
――
『いいよね、このみちゃんとこは。』
風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。
そう。あれは小学生の時。
四人でいつものように、学校に向かって歩いてた。
お母さんが私に忘れ物を届けてくれたんだ。玄関に置き忘れてた絵の具のセット。
「ばーか」
意地悪く笑う浩平の横に智兄ちゃんがいた。
いつもと同じに優しく笑って、ポンッって私の頭に触れた。
「いいね、このみちゃんとこは」
……そうだ。
あの時、智兄ちゃんは制服着てた。中学の……詰め襟。
私の横には、同じ制服の拓兄キがいて……
……
「いたっ」
前を歩いていた浩平が急に立ち止まるもんだから、私は浩平の背中に思いっきりハナをぶつけてしまった。
「何よぉ……」
文句をあっさり聞き流して、浩平は前を見つめて立っている。
智兄ちゃんの墓前には、拓兄キがいた。
供えたてのお線香から、静かに白い煙が上がってく。
……
お兄ちゃんは、黙ってそこに立っていた。
心の中で、智兄ちゃんとどんな話をしてるんだろう。
ここへ来る度、泣いてばかりいたあの頃。
私も兄キも浩平も、智兄ちゃんの思い出に胸が押しつぶされそうになって、苦しくて……
それがもう、思い出という形でしかない事が、どうしようもなく悲しくて……
けれど今。
兄キの顔に涙はない。
涼しい瞳は、穏やかに智兄ちゃんを見つめてる。
まるで、今でもそこに智兄ちゃんがいるように。
……
お兄ちゃんは、智兄ちゃんが好きだった。
今でもこの人の心には智兄ちゃんが住んでいる。
一応”恋人”はいるけれど、四年がたった今でも……お兄ちゃんの心にいるのは智兄ちゃん。
あの通り、テレビＣＭに出るくらい見た目が目立つ人なんだから、言い寄ってくる相手なんか困るコトもないんだろうに。
――
やがて兄キは、私たちがいるのに気がついた。
「……ったく、墓参りに行くってのに花も持たずに何やってんだか」
霊園のすぐ入り口までやって来て、お前ら花は？、って気がついたのがこの人だった。
肉親なんだし、って事で浩平が花買いに行かされて、私がそれにつきあわされて、拓兄キが一人、一足先にここに来た。
浩平は買ってきた花束を、私は午前中に焼いたケーキとポットに入れたコーヒーを、そして兄キは、火をつけたタバコを各々墓前に供えた。
兄キは……いつもここに来るとタバコを供える。
おじちゃんはタバコを吸わない人だったから、それは智兄ちゃんのためにあげてるものなんだと思う。
……それにしても。
「智兄ちゃんがタバコ吸っていたなんて、私全然知らなかった……」
「智はこのみの王子様だったからな。イメージ大切にしてあげたかったんじゃない？」
「……何よ、それ」
兄キは、にこりと受け流す。
「おれだって一回だけだな、智兄がタバコ吸ってるとこ見たの。夜、ベランダに出て、一人で星見ながらさ」
浩平が言う。
「頬杖なんかついちゃって。けっこううまそうに吸ってたぜ」
「どーせお兄ちゃんが教えたんでしょ」
「あ、またそーいう言い方を」
「そうでもなきゃ智兄ちゃんが、そんなことするワケないじゃない」
「バカ。あいつだって人間なんだぞ。たまには空気抜きたいって思う事だってあるさ」
浩平はハッとしたように兄キを見た。
「やっぱ……そうなのか」
「……？何が」
「智兄さ。やっぱたまには空気抜きたいって思う位……がんばってたってコトなのか？」
「……」
兄キは、じっと浩平を見る。
「おれ……智兄と同い年になっても、やっぱあいつはえらかったって思うよ。えらかったっていうより……何ていうのか・・・あんまりにも"兄キ"すぎた、っていうかさ」
「そりゃあ智兄ちゃんだもの」
「だからさ。智兄が智兄としてじゃない、森山智紘としておれ達に接してくれた事ってどれだけあった?」
「……え?」
「いつだって智兄は智兄だった。しっかりしてて、何でも出来て。まるでそうでなくっちゃいけないみたいに」
「……」
「あいつだって人間なんだぜ。失敗したり怒ったりしたって当たり前じゃん。だけど智兄にはそれがなかった。いつも智兄は智兄で……」
兄キはタバコに火をつけた。
白い煙をくゆらせながら、言葉をつなぐ。
「あいつはあいつで必死だったんだよ。浩平にとっては親代わり、祥子おばちゃんにとっては相談役。智が智でいられる時間なんて、そうたくさんあった訳じゃない。周りが自分に求めてるものが、感覚的に判るヤツだったから……」
何か言いかけた浩平を遮るように、兄キは浩平の方を見た。
「勘違いするなよ。だからってそういう自分を窮屈だって思ってた訳じゃない。あいつはそれが自分の役割だって事、十分理解してたから」
「役割……？」
「自分が必要とされてる、って手応えを一番感じ取れる場所だったんだよ、そこにそうしていることが」
必要とされてるって……
役割って……
「それじゃまるでそうする以外、智兄ちゃんが必要とされてなかったみたいじゃない」
「……」
私の言葉には答えずに、兄キは小さくタバコの煙を吐き出した。
何だか……
今の兄キの言葉は、聞いてて妙にじれったい。
霧の中を、ぼんやり見えてる何かに向かって必死に手を伸ばしてる時みたいに、見えてきそうで見えてこない。
本当はもっと大事なことを……
核心に触れる一言を、この人は心の奥に隠してる。
そんな歯痒さが伝わったのか、浩平も憮然としたカオで兄キを見てた。
「それはそうと……どうなんだよ、こっちの方は」
兄キは両手を腰に当て、走り出すような仕草をした。
「もうすぐだろ？インターハイ。出られそうなのか」
「たぶん……大丈夫だとは思うけど。これからなんだ、出場選手決めるの」
兄キがワザと話題を変えた事、もちろん浩平は気づいてる。
だけど、敢えて何も言わない。正面切って言ったところで、巧くはぐらかされちゃうのは目に見えている。
「ちょっとはホネのありそうなヤツ、いるのか？」
「まあまあかな。全体で50人近くいるんだぜ。全員と走った訳じゃないしさ。でもまあ、おれと雅巳はトップクラスかな」
「雅巳……？」
「萩原雅巳。寮のルームメートなんだ。何かホワンとしてるくせに、足は結構早くてさ。おれの一番のライバルなんだ。今んとこはね」
浩平は不敵に笑って見せた。
今の学校に転校するきっかけになった浩平のキロクは、100m10秒50だった。
これが全国タイだって判って、一気にこいつの周りがにぎやかになった。その時のキロクが彼・萩原雅巳クンが出したものだったんだって。
「萩原って……もしかして兄キがいるだろ。大学生で、ハイジャンやってる」
「知ってんの？拓さん」
「おれと同期だもん。学部は違うけど」
「オヤジさんも陸上やってて、陸上一家なんだって。幼稚園に入る前から、体操教室行ってたんだってさ」
「絶対負けんじゃねーぞ、浩平」
「……なーんかみょーに力入ってない？拓さん」
「弱い方って応援したくなるじゃん、やっぱさ」
浩平は、兄キのボディにパンチを入れる真似をした。
「さて……と。智への報告も終わったし、どうする？何か食う？」
兄キの提案に、さんせーい！と私が手を挙げる。
「わりぃけどおれ、ちょっと行きたいとこあるんだよ」
浩平が言う。
「前の学校のグラウンド。今日陸上部が練習中なんだ」
私と兄キは顔を見合わせた。
「三日も何もしないでいるワケに行かないんでね」
……
浩平は、今まさにスタートラインに立っているスプリンターの様に、きゅっと唇を引き結んだ。
……そうなんだ。
去年までのあいつのように、楽しく走っているだけじゃいけないんだ。
勝つために……
インターハイで勝つために走らなきゃならない。
改めて、厳しい場所に望んで行った浩平の気持ちを考える。
私は……私も……
浩平の走ってるとこが好きだった。
小さい頃からすばしっこくて、鬼ごっこだろーが缶ケリだろーが絶対最後までつかまらなかった。
浩平が運動会で、一等以外のリボンをつけるのなんか見たことがない。
いつもにこにこ楽しそうに、風の様に走ってた。
ここにいた方が、そのまま楽しくやって行けたかも知れない。
せっかく帰って来たっていうのに、たった三日間の休みの中でも勝つために、って考えてなくっちゃいけない。
仕方ないのかも知れないけれど……
浩平は変わった。
……改めて、私はそう思った。
――
兄キの運転で、私たちは半年前まで浩平も通っていた（つまり、今私が通っている）学校にやってきた。
ほどなく、着替えを済ませた浩平がトラックに姿を現すと、それまで各々の練習をしていたみんなが、浩平の周りにやって来た。
ついこの間まではチームメートだったんだ。
どの顔も浩平を見て、懐かしそうに笑ってる。
「ついでだから見て行くか、浩平の走りっぷり」
「うん！」
兄キは車を、校庭の全景が見渡せる土手へと移した。
「ここに来るのも久しぶりだな」
兄キは、ここの学校の卒業生じゃない。
隣の町の、もうちょっとだけ偏差値の高い学校を出た。
それは、智兄ちゃんもおんなじだ。
一見いい加減で、見た目もこんなんだからカルそーに見られるんだけど、昔っから頭は良かった。いつ勉強してるのかわかんないのに、学年で片手の順位から下がったことがない。
――
そんな兄キが一度だけ、このまんまじゃ留年するかも、ってくらい学校に行かなくなったのが、智兄ちゃんの事故の時。
誰とも一言も口きかなくなっちゃって、一週間も家に帰って来なかった。
その後も学校に行ってるフリをして、実は行ってなかったり、夜も遅くまで帰って来なかったり……
本当に……大変だったんだ。
元々細身の人だったけど、もっと窶れちゃってたし、祥子おばちゃんが心配して、何度も家に来てくれて……。
そんな兄キを助けてくれたのが冴子さんだった。
冴子さんは、
――拓には、ビジネスとして声をかけただけよ。
なんて、クールに言ってくれちゃうんだけど、兄キが、智兄ちゃんとの夢だったダイビングを始めて、色んな海に行けたのだって、冴子さんのお陰だった。
冴子さんは、兄キがバイトしてるT'sってバーの他にも、たくさんのお店のオーナーやってて、正真正銘のお嬢様なんだけど、そんな人とウチの兄キがどうやって、何がきっかけで知りあったのかは教えてくれない。
だけど私は、冴子さんとウチの兄キが出会えてほんとによかった、って思ってる。
あの時の兄キを助けてあげられたのは、死んだ智兄ちゃんしかいないって思ったし、私も哀しかったけど、兄キを見てたら心配で……
このままじゃ、この人も体壊しちゃうんじゃないか、って本当に本気で思ったし……
だからって、何をしてあげればいいのかもわからなかったし……。
――
今日の兄キは、Ｔシャツにジーンズという、ごくごくありふれたシンプルスタイル。
それでもこうして外に出て、車に寄っかかって校庭に目を馳せている姿は、すらりとバランスがとれていて……
確かにグラビアの1ページみたいに人目を引いた。
「……？何だよ」
「あのね。前から言おうと思ってたんだけど……どうせモデルの仕事するんなら、女装なんかやめればいいのに」
「何で？」
「何で、ってさあ……」
「まさか、あれがお前の『兄キ』だなんて、気がついてるヤツいないだろ」
「そーいう問題じゃなくてね……」
うまい言い方が見つからない。
ただ、あんな風に姿を誤魔化してまでしなきゃならない仕事じゃない筈だった。
そもそも兄キにとってのモデルの仕事は、冴子さんに頼まれて片手間に始めたアルバイト（あくまでも）だったんだから。
兄キは笑った。
「いいんだよ。見た目にしか関心のない連中に、本当の自分を見せる必要なんかない」
「……そういうもん？」
「仮にさ、おれが素顔を公表した所で、今更何か変わるコトがあるか？」
「……」
「紘子には何の中身もない。ディレクターに言われるままに笑って、応えて、ポーズを作る。そんな女で十分なんだ。あいつらが求めているのはね」
笑っているけど、そんな兄キの言葉には冷たい棘が含まれている。
小さい頃からキレイとか、さんざん言われ続けてきた人だから、そんな風に思えちゃうのも仕方ないんだろうけど、『紘子』の周りにいる人全てが、彼女の見た目だけに魅かれてるワケではないと思う。
駅地下で見た、雑誌の『紘子』の特集ページには"彼女"の存在感も確かにあったし、撮ってくれてるスタッフの熱意も見えた。
……
こういう時。
智兄ちゃんが逝ってから、兄キも変わったなって思う。
兄キなりに智兄ちゃんの死を受け入れて、戻って来てはくれたけど……
表向きは今までの、拓兄キには違いないけど……
こんな風に、自分の周りにカベを作る人じゃなかった。
少なくとも……
自分の周りにいる人が、自分の外見だけに魅せられて来てるなんてこと、言い切っちゃうような人じゃなかった。
「あんまり深入りしたい世界じゃないよ。コネとか評判とか、そんなものばっか気にしててさ。金がいいからやってるだけで、今度のCF撮ったらやめようと思ってんだ。あんまり忙しくなるのもやだし」
まっちゃんの言うとおり、『紘子』は、今や時の人には違いない。
素性も何もかも未公開。プロフィールも明かしていない。
その人が、今度のCFを限りに引退、なんて・・・もしも誰かが聞いたりしたら、ブッとびもんの特ダネだ。
「ああ……そうだ。このみに報告したい事があったんだ」
兄キは、思い出したように口を開いた。
「おれさ、卒業したら家出ようと思って。並木先生のとこに世話になろうと思ってる」
並木、って人は確か……
海の写真撮ってるカメラマン。
前に兄キに写真集見せてもらった事がある。クジラやイルカを追いかけて、遠くの海まで行ったりしてる。
その人がお兄ちゃんに、自分のアシスタントをやってみないかって言ったんだって。
意識したワケじゃないけど、自然と口がへの字に曲がる。
「……あ。やっぱ反対？」
「……まだ何も言ってないってば」
「判るよ。このみは思ってる事がストレートに顔に出るから。カメラマンなんてうさん臭そー、って」
「……冴子さんは？知ってるの？」
「知ってるよ。T'sを辞めるって事も伝えたし」
「大丈夫なのぉ？そんな……よく知りもしないおじさんとこに、いきなりくっついて行ったりして」
「冴子も勧めてくれたんだぜ。いつまでもおやじ相手に体売ってても仕方ねーだろ、って」
「……お兄ちゃんっ！」
「これなら、智が好きだった海にも仕事として潜るコト出来るしさ」
兄キは、静かに微笑みながら言葉を繋ぐ。
私は、はっとした。
「水中写真撮るのに、丁度ダイブの出来るヤツ探しててさ。興味があるんなら色々教えてくれるって言うし。智との約束果たすのには、丁度いいんじゃないかって」
「……」
「こないだナルちゃんとサイパンに行って……思ったんだよ。智に出会えてなかったら――あいつと、そんな話してなかったら――ここにいるコトもなかったんだなぁって。おれは、やっぱりあいつと向かい合って行かなきゃな、って。浩平もがんばってることだしさ。なあ、このみ」
「うん?」
「浩平のヤツ、かっこよくなったよな」
「なっ……何よ、いきなり」
「向こうへ行って、半年ぶりに会ったけど……走るとこも全然違うよ、ここにいた頃と」
黙ってしまった私を横目で見やって、兄キは涼しく笑って見せる。
お兄ちゃんは……
浩平が転校してからの私のイライラを知っている。
浩平が自分で決めた事だもん。
納得行くまでがんばってほしいし、応援したいって私も思う。そうでなくっちゃいけないと思う。
でも、何かしっくり来ない。
走ってる時の浩平は私も好きだし、兄キに言われるまでもなくかっこいい。
私といるときとは違う、別のあいつが確かにいる。
浩平の行った学校は、陸上のレベルでは超高校級とも言われてて、この間のオリンピックで、日本人で初めて200mの決勝に出た人もその学校の出身で……
そんな所にいるんだもの、当然浩平の頭の中は、走ることだけで一杯で……
『試してみたいんだ。自分がどこまでやれるのか』
……
「ねえ。お兄ちゃん」
「ああ……?」
「お兄ちゃんはさ、不安じゃないの？冴子さんが世界中飛び回って仕事をしてて、どこかでステキな人と巡り会っちゃったりしないかな、とか」
「……何でおれがそんな事で、不安にならなきゃなんない訳？」
「だって……」
兄キはくすり、と笑った。
「浩平は、一生懸命お前の想いに応えようとしてるよ。大丈夫だって。」
「……他人事だと思って、簡単に言わないでよ」
「そんなことない」
兄キは今度は真剣に言うんだ。
「おれには義務があるからな。お前らの事、智の分まで見届けなくちゃ」
兄キは軽く片目をつぶると、タバコを取り出して火をつけた。
・・・To be continued.
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