「ちょっと。聴いてる？お兄ちゃんってば！」

お盆休暇の渋滞に巻き込まれた車の中で。

私は後ろのシートから大きく体を乗り出した。

「…？ああ。ごめん、何だっけ」

「『何だっけ』じゃないでしょ！杉崎先生と会ってくれるって言ったよね。時間と場所、確認してるんだからちゃんと聴いてよ！」

智兄ちゃんとおじちゃんのお墓参りが済んだ帰り道。

今日も一日、文句なしの真夏日だった。

沖縄帰りの兄キはまだしも、ドイツの遠征から戻ったばかりの浩平はいささかうんざりした顔で…霊園の中の木陰に入っては、時折吹き抜ける涼しい風をTシャツの背中をパタパタさせて受け止めていた。

夕べの、“5^th.Avenue”での食事の後も…

兄キは何度か冴子さんに連絡を取ろうとしてたみたいで――

返って来ないメールと電話の履歴を見ては、微かに眉を曇らせた。

そんなんだから…

ぼんやりしちゃうのも判るけど、今はとにかく真剣にこっちの話を聞いてくれないと困るんだけど…。

いつものように、お父さんの車の運転席には拓兄が坐ってた。

祥子おばちゃんとウチの両親は、こっちも毎年恒例の遺族会の方に出かけてる。

前は…

私達も遺族会の方にも出てたけど、一昨年辺りからそれを止めた。

祭壇に並ぶ500余の遺影。

その中に、智兄ちゃんとおじちゃんもいて…

当然の事実ではあったけど、それを直視するコトは――何年たってもやっぱつらくて…

私達は私達の悲しみを受け止めるだけで精一杯になってしまって…

あの大きな会場が、言い尽くせない無言の思いで満たされるのを頭の中で思っただけで、何だかすごく苦しくなって。

「…なあ、このみ」

のろのろと、進んでは止まる渋滞の中。前を向いたまま兄キが言った。

「冴子から、何か連絡来てない…？」

「え？」

私は、隣の浩平と顔を見合わせた。

「どういう、コト…？」

「いや…。お前のとこに何か来ていないかなって思って…」

――何だかんだで心配なんだね。

…なんて。

ひやかせる様な空気じゃ全然なかった。

だって、バックミラーに映る兄キの顔は心底本当に心配そうで…

『もうこれ以上、冴ちゃんは自分を傷つけなくてもいいんだよ』

そうだ…。あの時。

三村さんは、きっと冴子さんと話してた。

夕べの食事の時だって、兄キは冴子さんに連絡がつかないコトを気にしてて…それは三村さんも知っていて…

兄キはきっと…知らないよね。三村さんが冴子さんとそんなやりとりをしてたこと。

『拓が望んでいるのは、そういう事じゃないでしょう。冴ちゃんが一番よく判ってる筈じゃないか』

――私…

もしかして、すっごく大事な話を立ち聞きしてしまったんだろうか…。

これを兄キに伝えれば――

三村さんが何か知ってるかもしれないよ、って兄キにここで話してあげれば――

だけど…言ってしまっていいんだろうか。

あの時の三村さんは本当は･･・私に聞かれたくなんかなかったんじゃないのかな…。だってあの後、上手に話をそらされた――そんな気がしたのもそれだから…

「おい、このみ。お前のケータイちょっと貸して」

「えっ？な、何でよ」

「お前からの電話だったら、あいつ出るかも知れないじゃん？」

「えーっ？！」

「…いや。待てよ、これでほんとに出ちゃったら、それはそれでショックだな。おれ、避けられてるってコトじゃんか」

「仕事で忙しいのかも知れないよ」

浩平が言う。兄キは、いや…と首を振った。

「おれが東京に戻ってるってコトは冴子も知ってる筈なんだ。出発前に話したし…丸二日連絡がつかないなんて、今まで一度もなかったんだぜ」

「いいからお兄ちゃん、今は前を向いて運転してっ！」

心配じゃないと言えばウソになる。三村さんとの電話のやりとりを知ってるからこそ、私は一層不安になる。

『拓が望んでること』

『もうこれ以上、冴ちゃんは自分を傷つけなくてもいいんだよ』

一体どういう意味なんだろう…。

「拓さんは、いつ向こうに戻るの？」

浩平が訊いた。こいつは明後日、陸上部の寮に戻るコトになっている。

「う〜ん…そうだなぁ…」

「『そうだなぁ』って、並木先生から、いつ頃帰って来いとかって言われてないの？」

「ないよ。寧ろ、しばらくこっちにいた方がいいかも知れない。台風が近づいてるって、今朝のニュースで言ってたしな」

そう言えば、お母さんもそんな話をしてたっけ。

「色々…片付けたい用事も出来たし、少しゆっくりしてくかな。…で。いつだったっけ？その、何とかっていう医者に会うの」

「明日の夕方。先生の都合がそこしかないの。浩平も明後日には寮に帰らなきゃならないし」

「『浩平も』…って、お前らも来るの？」

「来ちゃいけないの？」

「いけなくはないけど…あいつはおれと話したいって言ってるんだろ。浩平はまだしも、お前は全然カンケーないじゃん」

「カンケーあるの！ありすぎだよ！お兄ちゃんの一言で、おばちゃんと先生の将来が決まっちゃうかもしれないんだよ！」

兄キは笑った。唇の端っこだけに浮かんだシニカルな笑み。

そんなワケないだろ、って心の声がぼんやり伝わる。

「…まあ、いいや。好きにすれば？」

やっと…ゆるゆると流れ始めた渋滞の列。

車って、ブレーキペダルから足を離しただけで動くんだ、って、私、去年のお墓参りに来た時に初めて知ったんだ。

「――だったらさ」

兄キが言った。

「場所、浩平んちにしない？」

「…え？」

「どうしてよ」

「深い意味はないけどね。わざわざどっかに出るのがめんどいだけ」

「…」

「ほんとだってば。何を心配してんだよ」

咄嗟に隣の浩平を見た。浩平は一瞬考えて…

「いいよ」

とうなずいた。

『ヤな予感がする。あの人、絶対何か企んでるって』

…そう言ってたのはあんただったのに。いいの？ここでうなずいたりしちゃっても。

――――

マンションの駐車場に車を入れて。

兄キはさっそく出かける所があるとかで、そのまま歩いて駅へと向かって行ってしまった。

浩平と二人でエレベーターに乗り込んだ。

どちらからともなく黙ってしまう。乗りなれた筈の箱の中。

そう言えば…

こいつとこんな風にここにいるのも、すごく久しぶりのような気がする。

「夕べのケーキ…」

浩平が…おもむろにつぶやいた。

「フリーズキールに並ぶって、ほんとなのかよ」

「ほんとだよ。友貴君が色々手伝ってくれてね」

「…」

言ってしまってからハッとした。

「あ…ほ、ほんとは売り物を作る予定じゃなかったんだけど…丁度秋の新作を何か作ってほしいって友貴君のお父さんに頼まれちゃって、それで二人で――」

「二人で…？」

「え…っと、二人で色々考えて――チーズタルトにしようって決めて、何個か試作品も作ったりして、三村さんや色んな人に食べてもらって、やっとどうにか形になって、それで…」

「…」

小さく揺れて、エレベーターが階に止まった。

黙ってしまった浩平の後ろに続いて、慌ててホールへと下りる。

「どうりでな。…前に食べたコトのある、お前の味とは違うと思った」

「…」

「マジで美味かった」

「ほんとに…？」

「すげぇじゃん。自分の作ったものが店に並べられるなんて」

「…」

「何だよ？」

「今、『すごい』って言ってくれた、の…？」

「ああ。だって、ほんとにすげぇじゃん。前に食べたのも美味かったけど、夕べのはそれよりずっと美味かった」

「友貴君に教えてもらったんだ。三種類のクリームチーズをミックスして作ってるんだって。フレーズキールのチーズタルトって。だからあんなにおいしいんだって、それが判って――そのチーズの割合とかをちょこっと変えて、スタッフの人にも色々相談に乗ってもらってね、それから他にも――」

浩平は笑った。

「…？何？」

「いや…。お前、珍しいなって思ってさ」

「へっ？」

「墓参りの後って、いつもはそんな風じゃなかったからさ。こうやってエレベーターに乗ってると…誰からともなく黙りこくって。拓さんがいたっておんなじだ。みんな黙って…考えてる。智兄のコトや･、あの日のコトを」

「…」

「仕方ないし、当然なんだって判ってる。けど…それがいつからか、どうしようもなくヤになったんだ。もう何年もたつのにさ、おれ達ずっといつまでも、ここに留まったまんまみたいで、それがすっごく重くてさ。正直、毎年考えてた。エレベーターに乗ったら何話そう、兄貴にも親父にも関係ないコト。今のコト。みんなのこれからのコト。笑っちゃうけど…おれ、真剣にそれを考えてたんだ」

浩平は、照れ臭そうに目を伏せた。

「だけど、今年は余計だったな」

一瞬、言葉が出てこなかった。

こいつが…

浩平が、そんな風に感じてたこと。

確かに。私…泣きながら帰って来た日もあった。

大好きな智兄ちゃんが、あそこに眠ってるんだって言い聞かせても、何にも…ひとつも納得なんて出来ないで…ただ、ひたすらに泣きながらここに降りたこと。

浩平は黙って傍にいて…

兄キに連れられて、私が家に入ってくのをこいつがどんな顔して見送ったのかも判らないような、そういうこと。

他にも…あった。色々なこと。

その度浩平が感じてたこと。その思い。

私…何にも気づかなかったし、考えようともしなかった。

「そっか」

私は笑った。笑ってないと…泣きそうだった。

「…私ね、今日出かける前に、祥子おばちゃんにいいモノ渡して来たんだ」

「いいモノ？」

「おばちゃんが帰って来たら訊いてみて」

「…何だよ、それ」

「いーからいーから」

お互いの家まで。ほんの十数メートルの廊下を歩く。

ついこの間まで…私達は毎日ここを歩いてた。

祥子おばちゃんが、もしも杉崎先生と北海道へ行くコトになったら…

当然こんな風に浩平と、ここを歩くコトもなくなるんだね。

浩平と智兄ちゃんのあの部屋も…

祥子おばちゃんが、おいしいコーヒーを入れてくれるあのダイニングも…

何もかもがなくなって。

その時とは違う何かがゆっくりと…心の中に流れ込む。

寂しくない、と言えばウソになる。だけど、確かなこともたくさんあって…。

ここには私達の思い出が、たくさんたくさんあったこと。

そして今でも…
ここにはたくさんの大事な思いが息づいてること。

智兄ちゃんが…

そしておじちゃんが…

もしもここにいなかったら、決して生まれることのなかったたくさんの思い。

それを抱えてこれからも、ずっと過ごして行けること。

ごめんね…。

私、浩平の思いに気がつけなくて。

浩平が…切ない思いをしてたこと。何にも…全然気がつかなくて。

「じゃ。また明日な」

「うん」

答えて、小さく手を振って。

それぞれに鍵を取り出して、お互いの家のドアを開いた。

 

･･･To be continued.


　　　　　　　　　　　　　



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